百足退治で有名な藤原秀郷候(通称 俵藤太)ゆかりの寺院。
應永15年、藤原秀郷より十四代目の蒲生郡小御門城主・蒲生高秀により、秀郷追善のため建立したのが始まり。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている
昭和30年代の瀬田の唐橋
『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。
西詰名盤
龍王神社
本殿
龍光山 秀郷院 雲住寺 平成6年に建立された「百足供養堂」
雲住寺(うんじゅうじ)
民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。
百足供養堂のある寺
近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂。
醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。
蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。
天台宗から浄土宗(二十五世)に宗派を変えています。
百足退治に関わる什物もあるそうです。「俵藤太秀郷公太刀鍔(蒲生家伝来)」「蕪矢根」「槍鉾先」「藤原朝臣忠郷公像(大津市文化財指定)」「俵藤太百足退治踏ん張りの石」など。
境内本堂左前には「百足供養堂」もあります。
電話により事前に予約すると、住職の話やお茶の接待があるようです。
途中の中島に、秀郷像?と思わしきものがありました。瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。
さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。
俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。
闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。