城郭探訪

yamaziro

壺笠山城 近江国(坂本)

2012年11月27日 | 戦国山城

【壺笠城】へ攻め上がります!

登城口

お城のデータ

所在地::大津市坂本本町・滋賀里町乙 map:http://yahoo.jp/qPEVor
区 分:山城  

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:浅井氏
遺 構:郭・石垣・竪堀
標高:419m 比高差:300m

目標地:穴太駅

駐車場:穴太古墳
訪城日:2012..11.26

お城の概要

尾根から城跡までは比高で40m程度かな。急な坂道を登り出すと、主郭手前の右手奥の斜面に石垣が残っています。主郭から三段程度下の段郭の斜面です。さらに登ると主郭虎口手前にも二段の石垣がわずかに残っていて、石段が確認できます。主郭はほぼ円形で、5mほどの切岸で帯郭が周囲を巡ります。至る所に大石が散乱しており、主郭切岸も石垣があったと思われます。主郭、帯郭ともに土塁はありません。主郭は藪状態で見通しが利かないのが残念です。主郭北側にも虎口があり、石段、石垣の痕跡があります。北側の帯郭からの眺望は抜群です。西側に段郭が5段程度連なりますが、大量の人数が駐屯できる余地はないように見えます。浅井・朝倉軍は、ここをはじめ、周囲の山に分散して陣を張った。

お城の歴史

元亀元年(1570年)、織田氏と対峙した浅井・朝倉氏の連合軍が立て籠もった城とされます。また、元亀二年(1571年)に明智光秀が坂本城を築城後に支城として明智秀満(三宅弥平次)が入ったともされますが、こちらは定かではないようです。元亀二年九月、壷笠山などに陣した浅井・朝倉軍は宇佐山城を攻め、守将の森可成を討ち取りました。

いよいよ大手虎口へ西虎口壺笠山頂(421m)主郭跡・・・昼食(征服の記念にmy poleと)

方位計が         主郭でのレクチャー・・・・此処は講師の長谷川氏は、気合が入って詳しく説明!

東虎口を下り犬走り・・唯一琵琶湖ビュー木立の間から堅田・坂本(当時なかった琵琶湖大橋が)

西虎口石垣石垣

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


青山城  近江国(坂本) 

2012年11月27日 | 陣城

いよいよ、浅井・朝倉軍陣地へ

攻め登ります。

最初は青山城(忠兵衛山)・・・

お城のデータ

所在地:所座地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/psMj2P 

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標高:390m   比高差:250m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。四ツ谷川沿いの林道を、林道入口から1Kmほど歩きますと小さな橋を渡ります。そこから200m程で左に分岐して登る林道があります。この分岐した林道を進み、150mほど登ると鞍部に出て、道がY字に分かれます。(左手は青山(青山城)への道)最初は急な斜面ですが、細い山道を進みます。比高60mほどで尾根道に出ます。 

お城の歴史

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍が織田信長と対峙したときに布陣した「あほ山」、城郭遺構は明瞭である。

 「滋賀県中世城郭分布報告書」で「あほ山」の候補地として図面が描かれているのがこの青山城で、壺笠山城の北の峰にある。

山頂部こそ人の手が加えられたような感じであるが、切岸などもなくほとんど自然地形であり城郭遺構のようには見えなかった。



-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

山頂の本丸櫓跡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、見学会資料、講師の説明 

本日も訪問、ありがとうございました。


神興山城 近江国(坂本)

2012年11月27日 | 戦国山城

続いて、神興山城へ

神興山(420m)主郭跡でレクチャー「白鳥越えで山城で、最も石垣や竪堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


攻略 浅井・朝倉軍へ【堅田歴史同好会 壺笠山城見学会】2012.11.27

2012年11月27日 | 戦国山城

今回から、縄張りや鳥瞰図は著作権に配慮して最小で!石坂線穴太駅で打合せ・参加者点呼・資料配布

ここから、白鳥越え古道へ

振り向けば、琵琶湖。車の時は、ここに10台位(墓地駐車スペース)

穴太野添古墳で最初のレクチャー(休憩兼ねて)

いよいよ、白鳥越えの林道に・・・

振り向けば、琵琶湖が・・・山の神神社石仏様。

いよいよ、浅井・朝倉軍陣地へ

攻め登ります。

最初は青山城(忠兵衛山)・・・山頂の本丸櫓跡

 

続いて【壺笠城】へ攻め上がります!

いよいよ大手虎口へ西虎口壺笠山頂(421m)主郭跡・・・昼食(征服の記念にmy poleと)

方位計が         主郭でのレクチャー・・・・此処は講師の長谷川氏は、気合が入って詳しく説明!

東虎口を下り犬走り・・唯一琵琶湖ビュー木立の間から堅田・坂本(当時なかった琵琶湖大橋が)

西虎口石垣石垣

 

続いて、神興山城へ

神興山(420m)主郭跡でレクチャー「白鳥越えで山城で、最も石垣や竪堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

 

 

攻略後、撤収が始まりました

後で調べたが・・・。

壺笠山城は織田信長と対峙した朝倉・浅井連合軍が拠った城址で、近江から京の一乗寺に通じる白鳥越の道を押える位置にある壷笠山山上に構えられたものだ。

山上には近江最古級の前方後円墳があったといい、城址は古墳を改造して構築されたようだ。

城址へは(京の一乗寺から一本杉・東海自然歩道を経て穴太に抜ける山道)を、城址へ。

主郭を取り巻く帯曲輪に足を踏み入れると、足元には石が散乱、切岸の一部には石垣が残っている。主郭は雑木と藪に覆われ、ほとんど眺望はきかない。城域は思った以上に小ぶりで、この程度の城を山麓からかなり隔たった山上に築く必要があったのかと首をひねるところだ(3万騎の大軍で)。浅井・朝倉勢は、比叡山上に陣取ったとき比叡山の各所に城砦を構えた。

壺笠山城は山麓に陣取る織田勢の動きを察知し、各城砦に通報する任を担っていたようだ。壷笠山などに陣した浅井・朝倉軍は、宇佐山城を攻め守将の森可成を討ち取っている。その後、朝倉・浅井連合軍が滅亡したのち、壺笠山城は明智光秀の支配するところとなり、現在残る石垣は光秀によって修築されたものと伝えられている。

正面対岸に、【近江富士=三上山】を眺めながら・・・穴太駅へ、唐崎駅へ

 

本日の歩数 20,651歩   3時間55分    14.4km

消費カロリー 627.5kcal    脂肪消費量 89.6g

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


白鳥山城(神輿山・白鳥山遺構)    近江国(坂本)

2012年11月27日 | 陣城

(笠壺城の嶺続き~北峰)

お城のデータ

所在地 : 大津市坂本本町 マップ:http://yahoo.jp/U7VyGZ

別 名 :神輿山・白鳥山遺構

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標 高:444.9m 比高差:300m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。
林道が奥まで続いているが少し行くとチェーンが張ってあり、車両は通行止になっているので、駐車場から徒歩で四ツ谷川沿いの林道を1.3km程行き四ツ谷川を渡る。川を渡ってさらに250m程行くと左手に戻るように上りの林道が分岐している。この分岐した林道を110m程登ると峠で20m程先の右手山裾にある登り口の目印テープ等を探す。目印のある所から山道に入り、南西に170m程登ると尾根に出る。右手西方向に尾根筋を200m程登れば白鳥山(城跡)である。

(なお、左手東方向に尾根筋を100m程辿れば壺笠山城跡に至る 

歴 史

信長公記には「志賀御陣の事」として以下のように記されている。

-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。 神興山(420m)主郭跡で

講師の開設「白鳥越えで山城で、最も石垣や立堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、講師解説

本日も訪問、ありがとうございました。