城郭探訪

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探訪  「景清道を訪ねて」 五個荘編 2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

観音正寺参道を横切って!安土 桑実寺へ・・・ブッシュです。

ブッシュを入り、教林坊の上を通って、清水鼻・・・

 

景清道(かげきよみち)

五個荘町にははば中央を南北に走る古道は、景清道と呼ばれ、源平合戦の昔                                                            平家方の勇将 悪七兵衛平(藤原)景清が盲目となった己の目の回復を祈って                                                          京の清水寺に詣でた時に通った道と言われています。「平家物語」では屋島の                                                            戦いの際、那須与一が扇を射落としたあと、景清が陸に上り、源氏の武将の兜                                                        の錣(1)をとって、「やあやあ 遠からん者には音にも聞け近くに寄って目にも見                                                                      よ」と名乗った勇者として知られています。                                                                              また、景清道は、影京道とも書かれて、中山道(当時は東山道)の間道として利                                               用されたとも言われています。

(1)【錣】しころ 兜(かぶと)・頭巾(ずきん)の左右・後方に下げて首筋をおおう部分。

 

 

また、五個荘は、近世から近代にかけて、日本にとどまらず、世界を舞台に活躍した近江商人たちのふるさとでもあります。

Img_2704_794x596 教林坊の総門を後にして、石寺を通るメインの鋪装道路を北東、五個荘の方向に歩きました。教林坊の傍を通る景清道はブックレトに記載の地図では五個荘方向に向かう道が途中で部分的に途切れているようです。

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石寺の土塁跡の傍を通過し、石寺集落の東端・清水鼻に入ります。石寺は近江八幡市ですが、この清水鼻からは東近江市になり、清水鼻は五個荘の西南端となります。
そして、このあたりから中山道と合流します。
古代の東山道を踏襲し、中世には東海道とも呼ばれていのです。そして、近世に中山道と呼ばれるようになります。この道が繖山を抜けてきた景清道とも重なっているのです。
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この重なっている道の区間をしばらく歩きました。

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湖東三名水の一つ、「清水」の傍を通りました。

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その先で、景清道は近世中山道と分かれます。
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その分岐点に、まだ新しさが漂う道標が建っていました。

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景清道から分岐点の道標を望む。

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景清道を進んで行くと、左折すれば近江商人町並に入っていく十字路に到りました。
目前の左手には大城神社の境内が見えます。

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境内東側面に沿って、道幅がそれまでの半分以下になった景清道が、北東方向に真っ直ぐ延びています。
我々は近江商人町並への道を進みます。北東方向にしばらく歩くことになります。
まず驚いたのはここの道幅でした。

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大城神社

ブックレットに、この神社は「明治以前は大宮神社・天満宮と称し、菅原道真を祀っていました。観音寺城の鬼門にあたる北東の位置にあることから、観音寺城の守護神として信仰されていました」と、記されています。広々とした境内です。


Img_2735_794x596通りを挟んで、大城神社の南側は日若宮神社です。

これらの神社境内の北西方向に大きな商人屋敷が続いていました。成功した近江商人の後裔が住んでいる感じです。雨振りのせいもあるでしょうが、町並みには静けさが漂っていました。

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これが、今回の探訪の最終目的地、馬場の石塔(五輪塔)です。
大城神社所蔵で、鎌倉時代の優品です。
このあたりは五個荘金堂と称し、現在では重要伝統建造物群保存地区となっています。

「金堂の歴史は古く、その名はかつてこの地に存在したといわれる聖徳太子創建の寺院の金堂が由来とされています。しかし、現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからです。金堂が大和郡山藩の飛び地領となった際に当地を治めるため陣屋が設置されますが、この陣屋を中心に集落は発展していき、明治時代に至って現在の姿が成立しました。」(ブックレット)とのこと。

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五輪塔のあるこの場所が「馬場」と呼ばれる広場のようです。
確認は出来ませんでしたが、水口でみた建物からの連想では、大きな木の左奥にある建物は、五個荘金堂・大城神社の曳山(類型・芸屋台)の山蔵だろうと推測します。水口町立歴史民俗資料館でいただいた「曳山祭と近江の曳山」によれば、昭和40年頃までは曳山巡行に使用されていて、今は巡行せず保管されていると状態と記されています。

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馬場の石塔の少し先を左折し、「ぷらざ三方よし」に向かいます。
この写真に見える道標の方向に右折していくと、地図では金堂のまちなみの中心地になっています。五個荘金堂の近江商人の屋敷(本宅)が軒を連ねているようです。
ここも、機会を改めて拝見に来たいと思います。

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寺々の前の通り沿いに水路が作られています。
浄栄寺と弘誓寺の前の水路にはその両端に柵が設けられ、その間を鯉が沢山放たれていました。
浄栄寺:伝聖徳太子開基。不動院建立(金堂という地名の由来)。
    宝治元年(1247)、浄栄法師が再興。浄土宗寺院。
弘誓寺:愚咄(寺伝では那須与一の孫)が犬上郡石畠に弘誓寺を建立。
    天正9年(1764)に金堂に移される。浄土真宗大谷派の寺院。

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もう一方の水路み設けられた柵近くから弘誓寺の方向を眺めて

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少し先に、こんな道標がありました。
「鯉通り」「てんびん通り」 ネーミングがいいですね。
この地にぴったりの名づけ方です。

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大城神社に到る景清道区間が、景清道を歩いた中で一番距離が長いところでした。

これで今回の探訪が終了です。
3回にまとめたこの探訪記事を、お読みいただきありがとうございます。


本日の歩数 7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 328.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


五個荘ブラ 2012.11.23

2012年11月23日 | 文化財

五箇荘

繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については諸説あるが、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。またのちに東五個荘・南五個荘・北五個荘の3か村を総称して「三五個」とも呼ばれた。

かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っているが、自治体名としては発足当初から「五個荘町」であり、「五箇荘町」は誤りである。俗に「ごかのしょう」とも読まれる。「五個荘」のアクセントについては、共通語では中高型と平板型の二通りの発音があるが、地元ではすべて高音の平板型で発音される。合併によって五個荘町は消滅したが、町名に対する住民の愛着が強かったため、合併後も宮荘を除いて住所表記を「東近江市五個荘○○町」として町名を残している

  

真宗大谷派寺院。

寺伝では、那須与一の孫「愚咄坊(ぐとつぼう)」の開基といわれる。本堂は、規模が大きく大屋根の様相は、御坊格寺院の本堂に匹敵する。主要部は、宝暦14年(1764)に完成(国指定重要文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。元禄15年(1692)建立(市指定文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。 真宗大谷派寺院。近江七弘誓の一員。江戸時代には中本山と云われ、付属の末寺が蒲生・神崎・愛知・坂田4郡にかつて二十五寺あった。
 寺伝によると、開基は那須与一の孫“愚咄坊”といわれている。主要部は、宝暦14年(1764)に完成。
 本堂は昭和六十二年に国指定重要文化財となった。 表門は市指定文化財。本尊は阿弥陀如来。

 

 

安福寺の境内にある五輪塔。仏教五行の空・風・火・水・地を、それぞれ五つの石で象徴的にかたどった高さ197cmの塔。
各輪に梵字が彫られ、県内最古の五輪塔と伝わる。

 

金堂という地名の由来に関わる寺院。

その昔、聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としました。

不動坊が不動院を建立しますが、その建物が朽ちてしまった後、浄栄法師が再興し、浄土宗『清光山不動院浄栄寺』と号したといわれます。

 

推古天皇の代、521年に、厩戸皇子が当地に金堂寺を建立され、その護法鎮護のために大城の地に社壇を造り勧請されたのが始まり。
嘉応2年(1170)現在地に社殿を改造し、天満天神・大梵天王・八幡大神を勧請して合祀し当庄の産土神と仰いだ。
近江の守護職佐々木氏の観音寺城よりは丑寅の位置に当ることより城郭守護神として特に崇敬され、殊に佐々木高頼は祭祀米を献ぜられ又陣太鼓を奉納された。

永禄6年観音寺騒動の時兵火に罹り社殿記録等を消失したと伝わる。
江戸時代になって、此の地方は大和郡山藩の領となり、元禄6年(1193)当村に代官所を置かれてから例年正月15日藩公代参の儀があり神楽を奏し、徹下の供物を贈るを例とした。

また例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に至る。
例祭は4月20日とし五箇祭礼と称し郷中七ヶ村より神輿を奉じて参拝渡御を行う。
本社表鳥居より御旅所に至る約2丁余を桜馬場と称し往時は両側に桜を植えた小堤があったが、万延元年(1860)曳山車を造るに及び此れを伐る。
古くは大宮天神・天満宮等と称したが明治3年(1870)今の名称に改める。

 

大城神社の境内社であり、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、武内宿弥大臣を祀っている。今の社は昭和50年建立。

 

清水山・・・箕作城址全景(五個荘・・・景清道石碑より)

 

八幡神社

由緒
仁安年間に、佐々木氏観音寺城の鬼門にあたる
この地に豊前国宇佐八幡宮より勧請と伝える。

おさとさんの八年庵


現在の株式会社ツカモトコーポレーション(東証1部上場)の基礎を造ったと言われる、塚本源三郎氏の自宅で奥様が「淡海書道学校」を造った塚本
さとさんです。「さと御膳」で有名な、さとさんです。

http://kondomachinamihozonkai.shiga-saku.net/e602433.html

中仙道・・・・清水鼻

清水鼻の名水(清水鼻) - 中山道の旅人を潤した湧水。

本日の歩数  7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 326.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


中山道 奥石神社の神事・老蘇の森・・・2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

〈重文〉奥石神社本殿

観音寺山(繖山(きぬがさやま)432.7m)の南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点にある老蘇(おいそ)の森の中にあります。                                                                                         祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)です。創祀については明らかではありません。                     もともと、この神社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたものであるといわれています。
 伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)を危機から救うために、妃の弟橘姫命(たちばなひめのみこと)が身代わりになって荒海に身を投げましたが、そのとき懐妊していた妃は、波間に消える前に自分は老蘇の森に留まって女人安産を守ると言い残したといわれています。この話から奥石神社は安産の神といわれて、広く信仰されています。                             老樹の茂る参道が続き、本殿は三間社流造で重要文化財です。また、境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長の歌碑も立っています。

 

 祈願祷::安産祈願 お宮参り 交通安全  家内安全 七・五・三 病気治癒等々

奥石神社

この森の奥深い所に「奥石(おいそ)神社」が鎮座する。 国道8号線より旧中仙道に入り石の鳥居をくぐり 両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿が立ち並ぶ。 玉砂利が敷き詰められたゆったりした境内に入ると、静寂そのものの別世界である。

 


この社、奥石神社は延喜式内社で御祭神として「天児屋根命」(あめのこやねのみこと、をお祀りしている。

 

本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので 国指定重要文化財である。三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物である。

 

境内中央にどっしりした拝殿、本殿に向かって左には摂社諏訪明神社(市指定文化財)が鎮座する。