林道の終点から旧道を登ります。
旧道(長浜市余呉町柳ヶ瀬~久々坂峠~敦賀市刀根)
大権現様の祠
久々坂峠に着くと、
中尾山の玄蕃尾城跡登山道入り口
ここから木之本~柳ヶ瀬方面の眺望
柳ヶ瀬方面へ
「上に500mで玄蕃尾城」の標識があり、素直に従って登るが、相当きつく息も絶え絶えだ。
しばらくするとなだらかな山道が続き、玄蕃尾城南端の入り口に着く。
玄蕃尾城跡 2012.11.12
この説明板からが、玄蕃尾城跡
縄張り図
天正11年(1583年)3月、織田信長の後継者を巡って羽柴秀吉と柴田勝家の争いで、ここは柴田側が陣どったところだ。15万8772平方メートルという広大な城跡の形状が良く残されている。400年以上もたっているとは思えない。
南の虎口から、攻め込み(見学)
長谷川 博美氏作図の鳥瞰図
空堀櫓台から腰郭
東虎口本丸南の馬出郭を見上げる。横郭の土塁主郭(本丸)跡本丸の基礎石の説明中の長谷川講師土塁・空堀北馬出郭土塁から、北扇形郭(搦め手郭)を見下ろす。
本丸の馬出虎口郭本丸の馬出虎口郭土塁犬走り兵站郭跡(搦め手郭)北虎口空堀搦め手郭の範囲を説明搦手郭本丸・・・奥の木の所に「天守台」本丸の南の馬出郭虎口土塁帰路で・・・三角点!
国史「玄蕃尾城跡見学と京極氏の湖北合戦禄の旅」
戦国一の美女と謳われた、お市の方の再婚相手、賤ヶ岳の合戦(信長の跡目争い)の柴田勝家の陣)玄蕃尾城(げんおじばょう)。
北近江の国境に、誰もが驚く壮大な規模の城跡があり天主台、空堀り。本丸から七の丸まである驚くべき規模の城。
京極高次が一時頼った柴田勝家と様々な京極氏の戦跡の歴史模様を語ります。バスの行程中にある湖北の様々な史跡、車中から解説。
実施日 平成24年12月12日(月曜日)
講 師 長谷川 博美(城郭研究家・滋賀民族学会理事・米原市文化協会教養部長)
主 催 米原市文化教養部 米原市歴史文学散歩
定 員 先着30名(一生の思い出になる、素晴らし城跡遺構です)
消費カロリー 139.9kcal 脂肪消費量 19.9g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
参考に:
滋賀県と福井県の県境内中尾山の山頂に築かれた玄蕃尾城は、天正11年(1583)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた所です。曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配しています。
曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されて、曲輪から空堀を見下ろすと、一見山中城(静岡県)の畝堀を思わせます。
主曲輪(約40m×40m)の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来ます。
遺構もほぼ完全な形で残っており、滋賀県あるいは福井県に数ある城郭の中でも屈指のものだと思います。
また、主曲輪の東側には櫓台(10m×10m)が設けられており天守のようなものが築かれていたと考えられています。
玄蕃尾城の縄張り
この玄蕃尾城の築城時期は天正10年~11年と特定することが出来、天正期における織豊系城郭の築城技術を考察する上でも非常に意義深い城といえます。
城郭の歴史
天正10年(1582)6月27日におこなわれた清洲会議では、秀吉は信長の嫡孫である三法師丸(秀信)を信長の跡目にたて、柴田勝家は信長の三男神戸信孝(織田信孝)を推すが、信長の弔い合戦で明智光秀を討った功績による発言力は強く、丹羽長秀、池田恒興等を取り込んだ秀吉の意見が通り、信長の跡目は嫡孫三法師丸と決定。二男信雄は尾張、三男信孝は美濃を領することになる。
柴田勝家は、美濃を領した三男・神戸信孝と、信長家臣団の中にあって秀吉の台頭を心よく思わなかった伊勢の滝川一益(信長死後、武蔵神流川の戦いで敗れ、関東管領職を失い伊勢長島に帰国していた)と盟約を結び秀吉と対立する。
天正11年1月、滝川一益の配下である伊勢亀山城の城主関盛信が、蒲生氏郷の仲介で秀吉に降伏するが、その城主不在の留守に家臣の岩間三太夫が兵を挙げ、滝川一益に救援を求める。
秀吉はこれを好機として、軍勢を率い(この時の兵力を太閤記では7万とし、賤ヶ岳合戦記では4万余騎としている)、安楽越え(土山町山女原~亀山市安坂山町)、大君ヶ畑越え(国道306号線鞍掛峠)、関ヶ原から土岐多羅越え(養老郡上石津町)の三方から北伊勢の滝川一益を攻める。
亀山城,峯城を落とされた滝川一益は6千の寡兵ながら居城を桑名城から長島に移し、徹底抗戦の構えを見せる。
越前北之庄城の勝家のもとに長浜城の落城、神戸信孝の降伏などの情報は入ってくるものの、豪雪のため軍を動かすことは出来ず、天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら、北之庄城を発進。
信長生前の頃に、越前-安土間を短時間で行動できるようにと、勝家自らが整備しておいた北国街道も江越国境が豪雪のために通れず、迂回して敦賀から木の芽峠を越えて近江に入り、刀根街道と北国街道を押さえる位置にある玄蕃尾城(内中尾山)に入城した。
一方、勝家が北之庄を出発したとの知らせをうけた秀吉は、北勢の滝川攻めに一部の兵を残し、主力を率い、3月16日には長浜城に入り、翌日には木之本の浄信寺に本陣を置き、田上山に羽柴秀長、賤ヶ岳に桑山重晴、大岩山に中川清秀、神明山に山路正国、堂木山に木下利久、東野山には堀秀政等を配して対陣する。
こうして、江北・余呉湖周辺で、2月初旬から4月下旬までの2ヶ月間に及ぶ対陣の末、4月20日に佐久間盛政が秀吉軍の中川清秀の守備する大岩山砦を急襲、この知らせを聞いた秀吉が意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。
秀吉軍の反撃の前に佐久間軍が敗れると、柴田軍主力部隊からは戦線を離脱する将兵が続出し、勝家軍は敗走。
越前北之庄城に帰り着いた勝家は籠城を決意するが、秀吉軍の攻城の前に勝家はお市の方とともに自刃。4月24日の北之庄城落城によって賤ヶ岳の戦いは幕がおりた。
玄蕃尾城はその後利用されることなく廃城となった。
本能寺で織田信長と嫡男信忠が討たれたときから、天下相続の角逐は始まった。織田家中No.1といわれた柴田勝家だが、山崎の戦いという重要な戦いに参加できず、情勢は一挙に秀吉に傾いた。信忠の遺子三法師をかつぎ清洲会議を乗り切った秀吉に対し、ついに勝家はその兵を挙げる。そして天正11年、両者は湖北・余呉の賤ヶ岳で激突。
賤ヶ岳の戦いの軍道を歩く(行市山砦~玄蕃尾城)
賤ヶ岳の戦いの際に、玄蕃尾城に構える柴田勝家、行市山砦の佐久間盛政を中心とした柴田軍は山中に軍道を造って物資の輸送、軍事行動の迅速化を図ったとされています。
、玄蕃尾城は標高約450m、4km歩いて200m下る
玄蕃尾城は赤茶色に紅葉した葉っぱが絨毯のように敷き詰められ、今まで何回か来ているが、この時ほど良い城だと感じたことはなかった。