goo blog サービス終了のお知らせ 

城郭探訪

yamaziro

琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 尾上 2013.9.21

2013年09月27日 | 探訪「近江水の宝」

 大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

★日時:平成25年9月21日(土)10:00~15:30頃 
★定員:50名(事前申し込み必要、先着順)
★集合:午前10時に尾上港(駐車場あり)集合 ※JR河毛駅にタクシーあり(有償)
★解散:午後15時30分頃(尾上港)
★歩行距離:約1.5㎞(平坦地、一部坂道)  
★コース:裏面参照(長浜市湖北町尾上・西浅井町菅浦一帯) ★実費負担:500円(入館料、拝観料)
        ※ 尾上・菅浦間の往復乗船料2000円は、北びわこ湖上タクシー研究会に直接、お支払いください。
   ★ 持ち物:健康保険証・弁当・水筒・ウォーキングできる服装など
   

 

H23.9.21の小江城の堀跡(両側埋め立て道路に)

旧堀を泳ぐ鮎です

 琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 湖上タクシー 2013.9.21湖上タクシーへ続く

本日も訪問、ありがとうございました。


探訪【琵琶湖の雫・鏡湖の天女羽衣伝説をゆく-余呉湖=ヨゴイチ】2013.9.14

2013年09月17日 | 探訪「近江水の宝」


探訪「近江水の宝 鏡湖の天女羽衣伝説をゆく-余呉湖」

余呉湖周辺の伝説や文化財等をめぐります。また余呉湖一周「ヨゴイチ」連動企画です。探訪に参加し、完歩すればもれなく「ヨゴイチ」達成者となれます。直接城跡とは関わりませんが、賤ヶ岳の麓を歩きますので、興味のある方はご参加ください。


日時 平成25年9月14日(土)
    A班(ヨゴイチコース)    9:15~12:00 プラスコースは12kmです。
    JR余呉駅集合・解散


持ち物 健康保険証・水筒・タオル・ウォーキングできる服装など。定員 A班~D班 各30名ずつ全120名(事前申込 先着順)
実費負担 ヨゴイチプラス 600円(拝観料・資料代ほか)。
  滋賀県教育委員会文化財保護課記念物担当
         

湖国近江にはもうひとつの湖があります。琵琶湖の雫(しずく)・余呉湖。

戦国史上に有名な賤ヶ岳の麓にあって、その澄んで美しいさまは鏡湖と称されてきました。

数々の伝説を映す神秘の湖でもあり、『帝王編年記』養老7年(723 年)条には、この湖を舞台として伊香刀美と天女をめぐる白鳥伝説(羽衣伝説)が語られ、江戸時代には桐畑太夫伝説菅原道真伝説菊石姫伝説を生み出していきました。

JR北陸線余呉駅集合

余呉イチ・プラスコースA班出発式(今回総参加者120名+スタッフ20名)

琵琶湖から賤ヶ岳のよって隔てられた北の湖、「余呉湖」。"鏡湖"とも称され、凪いだ湖面には四季折々の山の姿を映し出します。

その湖の美しさに惹かれて、天女が水浴びに降りてきたという伝説があります。
道真誕生伝説『日本地誌大系』

昔、湖辺の村・川並に桐畑太夫という漁師がいた。
あるとき、芳しい香りにひかれるまま、一本の柳に歩み寄ると、色鮮やかなうすものが掛かっている。
うすものを取った太夫が振り返ると、美女がいて「私は天国の者。余呉の湖の美景に憧れて年に一度、水浴びをしています。どうか羽衣を返してください。」と懇願した。が、太夫は羽衣を隠して返さない。争った果てに美女は天に帰ることを諦めて、太夫の妻になった。

 

天女は天上界のことばかり思って、涙のうちに暮していたが、やがて、玉のような男の子を産んだ。ある日、「おまえの母は天女様 お星の国の天女様 おまえの母の羽衣は 千束千把の藁の下」と子守が歌うのを聞いた。裏庭の藁の下を探すと、案の定、羽衣があった。天女は大いに喜んで羽衣をまとい、天上遠く飛び去っていった。菅山寺の僧・尊元阿闍梨は、この話を聞き、母のないおさなごを憐れんで、寺に連れ帰って養育した。この子どもはのちに、菅原是善卿の養子となった。すなわち菅原道真である。となったという伝説もあります。

この他、日本最古といわれる伊香刀美が主人公、『帝王編年記』養老7年(723年)条には、この湖を舞台として伊香刀美と天女をめぐる白鳥伝説(羽衣伝説)も伝わっています。

現在でも余呉湖の北岸には天女が羽衣を掛けていたという柳が残されていて、その近くにはこの伝説にちなんで天女をかたどった像も設置(平成6年設置)されています。

この柳、私たちがイメージする柳とは少し違います。この柳は日本でよく見る枝垂れ柳ではなく中国系のマルバヤナギという種類です。

そして、天女が水浴びをしたとき、羽衣をかけた柳の樹は今も余呉湖畔に残されています。

賤ヶ岳合戦図(後は堂木山砦?)

 

余呉湖は、周囲6.3kmの「俳句の道」

 

湖辺の村・川並に桐畑太夫の屋敷跡(森)

川並集落の湖岸・・・25年位前まで、田んぼ畔に・・・(稲や藁を柱に井げたに積んでました。)

冬、雪の車窓のから綺麗でした!(圃場整備や機械化で、余呉湖周辺でここだけに残ってました)

 

「菊石姫と蛇の目が石」の説明板

「菊石姫の枕石」は新羅の森近くの湖岸に祀られています。

残った片目が落ちて跡が残ったという石も「目玉石」と呼ばれて、今も見ることができますが、「目玉石」は余呉湖の水中にあるので直接は見ることはできません。
この目玉石、日照りで困ったときに湖から上げて新羅の森に運んで祈ると不思議と雨が降り出すそうです。

~~今も菊石姫は湖の底で余呉湖周辺の平穏を祈りながら静かに眠っている。

詳しくは・・・http://www.biwa.ne.jp/~okumura/legend/HTML/1.html

 

蛇の枕石
この椎の木の下の水の中にある。干ばつにならないと見えない

 

新羅崎の森・・・まっすぐにブイが!左側はヘラ池です 秋の七草【ススキ】と余呉湖

 

建物には、「余呉湖水質改善対策間欠式空気揚水筒管理室」という銘板が鉄製観音扉の横。

   
この建物を軸としたシステムの概念説明図がこれらの写真。
簡単に言えば、余呉湖の深いところにブクブクと空気を送り込み、水の中に溶け込んでいる酸素の減少を防ぎ、アオコなどの発生防止を狙っているそうです。

もろもと閉鎖系の自然湖だった余呉湖では、時として洪水が発生したそうです。また余呉湖周辺地域の利水の問題もあって、余呉湖という自然湖のダム化が図られたのだとか。現在の余呉湖は「ダム」でもあるのです。このことを今回の探訪企画に参加してはじめて知りました。

マユミ満開

 

琵琶湖の水が汲み上げられて余呉湖に放出されることで余呉湖がダム湖となり、一方、この余呉湖の貯水が灌漑用水として放出されているのです。また、昔は余呉湖の近くを無関係に流れていた余呉川の水が余呉湖にも引き込まれ、再び放出されるという開発もなされているのです。これが、「近江 水の宝」、現代の一側面でもあるようです。
つまり「余呉湖の今」という一側面は治水灌漑に繋がるダム湖・余呉という観点でした。おかげで、今回設備外観のいくつかをスポット的に見て回ることもできました。

面積1.8km²(東西0.9km、南北1.8km)。琵琶湖の北端近くに位置する。琵琶湖と同時期に出来たと言われ、古琵琶湖に包含されていたものが、約3万年前に独立したと言われる。鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていた。長らく閉鎖湖だったが、現在は長浜市余呉町北部を流れる余呉川からの水が1958年(昭和33年)に建設された導水路を介して流れ込み、湖からは2本の放水路で排水する。

琵琶湖とは、古戦場として知られる賤ヶ岳(標高422m)で隔てられているが、放水路の一つが流れ込んでいる。1970年頃より、琵琶湖から水をポンプアップするなどの施策が原因で富栄養化が進み、問題となっている。

 

 

湖岸に「賎岳暮雪」と刻まれた石が建てられていろ。

秀吉が戦を眺めいた

 

余呉湖畔の戦い(賤ヶ岳七本槍)激戦となった余呉湖西
 しかし、佐久間盛政軍の退却を支援した柴田勝政の軍が飯ノ浦に取り残されて居ることを秀吉は見逃していなかった。

柴田勝政が撤退を開始するのを待っていたのである。予想通り、盛政の本隊の無事撤退を見届けた勝政軍は盛政軍に合流すべく権現坂に向けて退却を始めた。

ここぞとばかりに秀吉軍は総攻撃を開始した。勝政軍の苦戦という状況を見て、盛政は一旦退いた本隊を再び勝政救援のため余呉湖畔へ向かわせた。

現在の国民宿舎余呉湖荘付近から川並集落付近にかけての余呉湖畔は両軍大激戦となり、湖畔は赤く染まったという。

世に言う「賤ヶ岳七本槍」など秀吉方戦功は、ほとんどこの余呉湖畔の戦いで立てられたものである。
盛政自身も湖畔に向かおうとしたまさにその時、信じられない事が起きたのである。

賎ヶ岳への登山口の標識。

「飯ノ浦切り通し」という場所を経由して賎ヶ岳山頂に至る山道です。


昨年ヘルスツーリズムin余呉・賤ヶ岳 2012.10.26 この道を下ってきたこと。

半周3km・・・国民宿舎「余呉湖荘」

飯浦送水遂道出口(琵琶湖からくみ上げられた水を余呉湖への放水口)

 余呉湖
湖面積              1.97km2
最大水深             13m
湖周囲長さ           6.2km
位置 琵琶湖より           47m高い
総貯水量          14,700千m3

余呉湖を余呉湖ダムとするシステム図
yogoko_1この案内看板は 下側が北 

琵琶湖と余呉湖との落差は 47m あります。

琵琶湖と余呉湖との高低差は 47m ある 農業用水を必要とするときは 琵琶湖より
揚水ポンプで揚水する
洪水時は堂木分水堰から余呉湖に流し、貯水する
高時川へは川並放水路より放流する 正に、堰堤を持たない大自然のダムである

Yogoko_2


Yogoko_3余呉放水遂道放水口=取水口(呑口)(岩崎山の下を余呉川へ)


Yogoko_4

川並放水ゲートは常用洪水吐き( 表層水越流式 )と放流ゲートで余呉湖の調整と灌漑用水を余呉湖放水路トンネルで余呉川頭首工へ送水している

 

岩崎山砦の歴史

岩崎山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで高山右近が布陣にしたところで、賤ヶ岳の戦いの激戦地である大岩山砦と隣接する。             大岩山砦に隣接する岩崎山砦の高山右近は、大岩山砦が落ちたと知ると、岩崎山砦を放棄し、北国街道を挟み堀秀政が布陣する東野山砦に逃避。

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は夜半の暗闇に紛れて、集福寺坂~文室山~権現坂を経て、賤ヶ岳砦の北側を迂           回して中川清秀が立て篭もる大岩山砦を急襲し、砦を奪取した。

  翌21日未明には、岐阜城の織田信孝を攻めるために出陣していた羽柴秀吉が大垣からとって返し、大岩山砦の佐久間盛政を急襲し、佐久間盛政の“中入り”は失敗に終わった。

 佐久間盛政の大岩山砦の急襲と呼応して、玄蕃尾城からでて北国街道を南下してきた柴田勝家も狐塚に陣を構えるも、動けないまま前田利家の離反もあって柴田軍は総崩れとなった。
 岩崎山砦へは余呉町下余呉の、標高差50mほどの山、削平された曲輪らしきところを幾つか残る。

 ハイキングコースを山頂付近に階段状に曲輪が3~4段。当然の事ながら正面に行市山(行市山砦)が見えるように配置されている。

 また、山路正国等が布陣した天神山(天神山砦)、木下利久が布陣した堂木山(堂木山砦)が行市山の山裾と重なっており、臨場感は抜群である

一番手前の岩が、「烏帽子岩・お膳岩」と伝承される。
菅原道真が烏帽子を掛けたとされる岩と、供え物を載せたとされる岩。

昼食・・・余呉観光館・はごろも市

江土閘門ゲート施設(流入・流出調整ゲート)

余呉川管理事務所 


湖西明神崎をゆく-白鬚神社-2013.7.20

2013年07月23日 | 探訪「近江水の宝」
 現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本の丸天守台の石垣が残るだけだ。 この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

 本の丸天守台は田圃に囲まれているが、この田圃は水堀の跡だ。今も東側には沼が続き、琵琶湖は目と鼻の先まで迫っている。  この城が、坂本城・長浜城と同様に、琵琶湖に浮かぶ水城であった ことを、今でもその雰囲気をよく残している。

 三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。  
三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。 
大溝城跡碑
 天正7年、織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

 信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

 元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 
この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。 
乙女ヶ池
万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。
その後は、大溝城の外掘で、恵美押勝が挙兵に失敗し、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪されたと伝えられる地で、壬申の乱で落城したと伝えられる三尾の城も背後の山中にあったと言われ、幾多の歴史を秘め湖面にロマンをただよわせています。
現在は、面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖となり、フナ、ブラックバスなどが生息し、特にバス釣りのメッカとして多くの釣り人に親しまれています。
 
万葉歌碑と西近江路(旧道)
万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。
街道沿いに地蔵
打下磨崖仏
滋賀県高島郡高島町打下・・・打下(うちおろし)集落を通る旧街道沿いに立ち並ぶ民家。その裏側には稲田が広がっています。畦道の様な細い旧道沿いに露出した岩にお地蔵さんが刻まれています。
最勝寺(さいしょうじ)は、滋賀県高島市勝野にある真宗大谷派に属する寺院。山号は、琶湖山(はこざん)。本尊は阿弥陀如来。

歴史(縁起)

蓮如上人が、吉崎御坊へ向かう途次、高島勝野打下から乗船、その折り地下人山田正明に一宇を建立することを指示したと伝えられている。開基:山田正明は(佐々木行実の後裔で山田経豊の子と言われている。)
開基は文明3年(1471)であり、湖西の古刹である。山号の申請に対し、芝の増上寺から幕府に許可しないようにとの要望が提出され、琵琶湖山から琶湖山に変更し金50両を支払った経緯が最勝寺の古文書に記されている。

文化財

蓮如上人伝絵 - 「真宗重宝聚英」等に収録されている。この絵伝の存在は、一子のみに伝えられ外部の目に触れることは無かったので、保存状態が極めて良い。公開されたのは近年になってからである。 蓮如自筆六字名号

所在地

  • 滋賀県高島市勝野2909(旧高島町勝野打下)
蓮如銅像
打下古墳(うちおろしこふん)
 平成13年(2001)高島市打下集落の日吉神社背後の山腹で行われていた上水道配水施設工事現場から石棺が発見された。築造年代は古墳時代中期とされており、同年代の墓としては珍しく人骨が残されてあった。滋賀県内では出土例が少ない5世紀代の箱形石棺で、日本海沿岸の丹後地域に多く見受けられる葬法から、地域間交流がうかがえる。
打下古墳と乙女が池
 
鵜川の棚田です・・・
元の人に話を聞いた。
「ここの田ができてから130年くらい経つやろか。
 わしが若いころは後ろの山は、田上のようにはげ山やった。
 一生懸命植林をしてこうなった。」  ・・・・・・(そういえば山肌は見えない)

「このへんの田は砂地やから一日で水が抜けてしまう。線路(湖西線)から下は土や。」

「水(作業)は毎日や。せやからここの米はおいしいんや。コシヒカリやで。まわり(南や北の方)とは銘柄がちがうで。」
高島市~鵜川~大津市
岩除地蔵
北小松の国道沿いの北はずれに鎧岩(よろいいわ)と言われる険しい崖があり、その崖の下に安置されている。
この崖は落石が多くあり、通行に大変危険な所でした。落石等から身を守っていただこうと、崖の下にお地蔵さまを安置し、「岩除地蔵尊」と名付け、守り本尊として崇敬するようになる。
大津市北小松(国道161沿い、北小松川に無料駐車場あり普通車10台可)                                                  077-592-0378 (志賀観光協会)
 
~~~~北小松
本日の歩数  18,579歩   2時間49分   13.0km
消費カロリー  761.2kcal    脂肪消費量  108.7g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

連続講座 近江の城郭城・寺・町~中世近江の自治の世界 第5回【湖賊の自治都市~堅田】2013.3.23

2013年03月22日 | 探訪「近江水の宝」

連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」第5回「湖賊の自治都市~堅田」のご案内

 堅田は、琵琶湖のもっとも狭い場所に位置しています。琵琶湖を行き来する船はここを通らなければならず、堅田は湖上交通を掌握する重要拠点でした。そうした地理的な特性から、堅田の住人は様々な湖上特権を有しており、「諸浦の親郷」と呼ばれるような突出した地位と、その特権に裏付けられた自治を実現していました。

堅田の町は、内湖と琵琶湖によって全体を大きく囲われるとともに、その内部が堀割と街路で細かく区画されていました。また、琵琶湖に面して船入も数ヶ所確認できます。こうした堀割は自治を守るための防御機能と湖上水運の機能とを合わせ持ったものといえるでしょう。

 現在も、堅田の地には堀割や船入の痕跡が随所に残っており、湖岸の自治都市堅田のかつての景観をうかがうことができます。今回の講座では、大津市歴史博物館学芸員の案内で堅田の町を訪ね、現地に残る遺構をたどります。

1.日時 平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 ※12:30受付開始

 講義「諸浦の親郷・堅田」 講師:仲川靖(滋賀県文化財保護課)
      本堅田現地見学 解説:大津市歴史博物館学芸員

JR堅田駅で、受付終了後出発式

本堅田現地見学コース

講義「諸浦の親郷・堅田」 講師:仲川 靖氏(滋賀県文化財保護課)堅田市民センターで

連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」全第5回参加者の表彰式(代表に・・約15名=管理人もその1である。

本堅田現地見学へ 解説:大津市歴史博物館学芸員、滋賀県文化財保護課

ヴォーリズ建築(堅田教会)

レトロな給油機カ

神田神社概要: 神田神社の創建は不詳ですが持統天皇4年(690)、島務大肆忍勝(この地を開発した彦国葺命の12世裔孫)が素盞嗚尊の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社で広く信仰されるようになりました。当初は浄地普門山にありましたが文亀年間(1501~03)、祭神に関する対立が起こり分離し現在地に遷座、新たに彦国葺命と鳥務大肆忍勝を加え祭神としています。現在の本殿は建徳元年(1370)に建てられたもので三間社流造、桧皮葺、1間向拝付、室間時代初期(南北朝時代)に建てられた神社本殿建築の遺構として大変貴重な存在で大正2年に国指定重要文化財に指定されています。

中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」が、

西イ港この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」

湖族の郷資料館 で解散

古代から中世、近代に至る堅田の変遷、芭蕉や門人たち、志賀廼家淡海(※)といったゆかりの人物、 堅田を題材にした文学作品を紹介しています。民具の展示や、郷土品販売コーナーもあります。

浮御堂
~近江八景の一つ「堅田の落雁」に数えられ、広重の浮世絵にも登場~


琵琶湖に浮かぶ浮御堂は、正式には海門山満月寺と称し、京都紫野大徳寺派に属する禅寺です。
長徳年間(995年頃)、比叡山横川恵心院の僧であった源信(「往生要集」の著者)が、湖上の安全と衆生済度を願い、 自ら千体の阿弥陀仏を刻んで開いたのが始まり。
これまで風雨や戦で何度も荒れ果ててきましたが、その都度再建され、現在の浮御堂は昭和12年再建のもの。
「聖観音座像」は平安時代の作で、重要文化財。
このほか、薬師如来像・十一面観音像が安置されている「観音堂」、昭和9年までの浮御堂の古材を用いて建立された「茶室玉鈎亭(ぎょくこうてい)」が、登録文化財。
四季折々に美しく湖面にその姿を写す浮御堂は、古くから多くの人々に愛されてきました。
「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」、「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」は芭蕉の句。境内に芭蕉の句碑が。

堅田の老舗和菓子【金時堂】http://www.gaido.jp/suteki/suteki.php?ID=390

金時堂は1923(大正12)年、かつて湖上交通の拠点として栄え、今でも風情のある町並みが残っている堅田の町の一角に誕生した。
当時、堅田だけで12軒の和菓子屋があり、そのうちの2軒で落雁を作っていた。競争が激しく、自転車で近江舞子あたりまで売りに行っていたという。
以来約90年。地元で取れた米や小豆を使うなど地産地消を心掛け、昔ながらの製法を守って「伝統の味」を伝えてきた。
山本さんは高校を卒業後、5年間京都で修業を積んだ。京都の和菓子は自分の知る和菓子と違い、とても上品で驚いたという。めきめきと腕を上げ、修業中から京菓子協同組合研究会の優秀賞や優良賞を受賞した。その後も全国菓子大博覧会で有効金賞や総裁工芸文化賞を受賞、その技術は高く評価されている。現在は父・時男さん(87歳)、息子の伸吾さん(32歳)と共に3世代で営んでいる。


〈名勝〉居初氏庭園 江戸時代

居初家は堅田の豪族三家の1つで、その茶室は天然図画亭(てんねんずえてい)と呼ばれます。庭園は、江戸時代の著名な茶人である藤村庸軒(ふじむらようけん)と地元の郷士である北村幽安(きたむらゆうあん)(1648-1719)の合作です。国指定の名勝。 この庭園の素晴らしいところは、茶室から見る借景の見事さです。庭園東側の石垣が琵琶湖に接しているので、サザンカ・モッコク・マキ・サツキなどの刈り込みの向こうに、雄大な湖に始まり、近江富士の三上(みかみ)山などの湖東(ことう)の連山が一望のもとに見渡せます。まさに、天然の図画という名がふさわしいです。
 庭園は、茶室の東側と北側に広がります。茶室の方は入母屋造の趣ある建物で、茶の道具が客に見えないように、主室との間に低い結界が付けられ、主人の謙虚さがうかがえる構造になっています。

天然図画亭(てんねんずえてい)庭園東側の石垣が琵琶湖に接している

堅田港の句碑

堅田内湖・・・

JR堅田駅へ

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


甲賀の杣の埋もれ木【出土木材】   2012.3.8

2013年03月08日 | 探訪「近江水の宝」

新名神甲南パーキングエリアの工事現場から出土した大津宮時代の大木が保存されていた。
 木材には加工痕があり、古代の製材技術を偲ばせると共に「杣集団」の存在を示唆する。

 

飛鳥時代の埋もれ木
飛鳥時代の埋もれ木

  平成17(2005)年6月、甲南町新治の新名神高速道路工事現場で加工痕のある巨大な杉の埋もれ木が多数発見されました。そのなかには、復元すれば直径約1m40cmになる巨木もあり、根元には鉄斧による伐採痕が鮮やかに残っており、他にも製材途中の原材などが含まれていることから、この付近で伐採・製材作業が行なわれていたことが分かりました。

土の中から掘り起こされた巨木は、単なる自然木ではなく丸太から板材や角材を割り取る製材の過程を知ることができる全国的にも貴重な資料だったのです。さらに、驚くべきことにはこれらの木材は、年輪年代測定によって飛鳥時代(630~690年頃)に伐採されていたことが判明したのです。

埋もれ木が発見された甲南町北部から水口町南西部にかけての地域は、古代から中世にかけて杣がおかれたことで知られ、

 
新名神の工事現場から出土した様子
新名神の工事現場から出土した様子

「杣」とは宮殿や寺院の造営や、それを維持する建築材を得るために畿内近国に設けられた山林のことで、古代の甲賀郡には、東大寺が経営する「甲賀杣」・「信楽杣」や、西大寺の「甲可郡杣」・「甲可郡縁道杣」などの杣が集中して設けられていました。

なかでも『正倉院文書』には、「甲賀杣」に関する記載が多くみられ、東大寺の造営や石山寺の増改築用材を矢川津や三雲津で筏に組み、野洲川の水運を利用して運ばれていったことが知られており、矢川津は矢川神社が所在する甲南町森尻付近とする説が有力です。埋もれ木は、その南方3キロメートルの山間部から出てきたもので、『正倉院文書』に記された「甲賀杣」より約100年さかのぼる時代に伐られた巨木だったのです。

古代の森林伐採は激しいもので、森林資源の枯渇を招いたといわれています。甲賀の地にあった多くの巨木も切り尽くされたと考えられますが、やがて大工・木挽など山林資源を生業とする職人たちがこの地に根づき、以後、甲賀の暮らし支える柱のひとつとなっていきました。

詳しくは『甲賀市史』第1巻をごらんください。

お問合わせ先

 

 

 


太古の森「老蘇の森」と奥石神社

2013年02月03日 | 探訪「近江水の宝」

 

 

  万葉の昔から多くの歌に詠まれてきた「老蘇の森」は、杉、檜、松などが鬱蒼と茂る太古からの森だ。伝説によるとその昔、この地域は地が裂け、水が湧いて人の住めるところではなかった。石部大連(いしべのおおむらじ)という人が木々の苗を植えて神々に祈願したところ、すぐに大きな森となって、石部大連が百数十歳になるほど長生きしたため、いつしか「老蘇森」(老いが蘇る)と呼ばれるようになったと伝えられている。一説には、元は老蘇、武佐、平田、市辺の4つの村にまたがる大森林で、現在の何倍もの広さがあったといわれている。

  旧中山道沿いにある大きな石鳥居をくぐり、杉の大木に覆われた参道を進むと「奥石神社」がある。「奥石」と書いて「おいそ」と読み、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)を祭神として祀っている。この神社は「延喜式内社」という神社のなかでも格式の高い神社とされ、平安時代には朝廷から重要視されていた。
 伝説では、東夷征伐に向かった日本武尊を危機から救うために、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が身代わりとなって上総の海で暴れる海神を鎮めるために海に身を投げた。そのとき弟橘姫命は懐妊していたが、「我胎内に子在すも 尊に代わりてその難を救い奉らん。霊魂は飛去りて江州老蘇の森に留まり、永く女人平産を守るべし」と言い残したという。この話から奥石神社の神様は安産の神とされ、人々に厚く信仰されている。
奥石神社は、中世以降「鎌宮」と呼ばれ続けていたが、延喜式神名帳に「奥石神社」という表記があることに従い、大正13年に本来の名前に戻された。
 
 神社の中心にどっしりと構える本殿は、天正9年(1581年)、織田信長が家臣柴田家久に命じて造らせたもので、国の重要文化財に指定されている。唐草紋様ほか美しい装飾が施された三間社流造の檜皮葺で、安土桃山時代らしい優美な建築だ。その完璧なまでの宮大工の仕事ぶりには、誰もが驚くに違いない。
 

伝統文化に秘められた 松明の魅力と祭り

2013年01月08日 | 探訪「近江水の宝」

 日牟礼八幡宮に伝わる松明祭り(国選択無形民俗文化財)を紹介する「松明の魅力と祭り」がかわらミュージアムで開かれている。二月三日まで。


 松明祭りは毎年四月十四日の夜に催行される勇壮な春の祭礼。領内十二郷から奉納された松明に神火を移して燃やし、自然災害から人々を守り五穀豊穣を祈る伝統の神事で、西暦二七五年、応神天皇が琵琶湖からの船で同宮を参詣する際、南津田地区の民家がヨシで作った松明を灯して迎えたことが始まりと伝えられている。
 

竹、ヨシ、菜種殻などを材料に製作される松明には、奉納される大松明と松明、家庭で飾られる稚児松明の三種類がある。

いずれも頂部に細かな飾り付けの細工が施され、その形状は各郷(集落)によって違う民俗性豊かな創作美を競うものにもなっており、市内全域で継承されている松明文化の豊かさは、県内に数少ない。

かわらミュージアムで開かれている「松明の魅力と祭り」展

 

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012017

 


多賀大社(たがたいしゃ) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年01月07日 | 探訪「近江水の宝」

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社である。

当社にはお守りとして杓子(しゃもじ)を授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来とされている。

歴史

由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。

『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたと分かる。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。 多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2キロメートルの小高い丘(神体山)に鎮座する。 授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ」

多賀大明神

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」 「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

長寿祈願

多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

俊乗坊重源

鎌倉時代の僧である俊乗坊重源(ちょうげん)に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする齢61の俊乗坊重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。 重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。 見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。 「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。 神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。 今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。 また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)。

豊臣秀吉

天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。 境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

喪失と再建の江戸期

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。 ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。 寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。 このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治以降

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。

多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。 1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

近年の改修と造営

1930年(昭和5年)、本殿を改修。 大社造の本殿等の屋根の檜皮葺(ひわだぶき)の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。 また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

社殿

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
  • 本殿
  • 拝殿
  • 一の鳥居・常夜灯 - 彦根市高宮町 高宮郵便局の脇にある。

文化財

重要文化財

  • 紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風

名勝

  • 奥書院庭園

滋賀県指定有形文化財

  • 奥書院
  • 多賀大社鳥居
約3キロメートル離れた彦根市高宮町にある
  • 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風
  • 梵鐘
  • 大太刀 - 2件
  • 鉄黒漆塗二十八間筋兜
  • 多賀大社文書 - 136通

町指定有形文化財

  • そり橋
  • 多賀大社建造物 11棟

ほか

祭事

新年恒例の能舞台での神楽
  • 1月1日 0時 歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 11時 翁始式(おきなはじめしき)
  • 2月3日 午前11時/午後 2時 節分祭(せつぶんさい)
  • 2月11日 10時 紀元祭(きげんさい)
  • 3月17日 11時 祈年祭(きねんさい)
  • 4月25日 米寿莚寿祭(べいじゅえんじゅさい)
  • 3月下旬 勧学祭(かんがくさい)
  • 4月5日 金婚莚寿祭(きんこんえんじゅさい)
  • 4月22日 8時から終日 古例大祭(これいたいさい)
  • 5月5日 11時 神恩感謝祭(しんおんかんしゃさい)
  • 5月17日 11時 御日供講大祭(おにっくこうたいさい)
  • 6月7日 御田植祭(おたうえさい)
  • 6月30日 15時 夏越の大祓式(なごしのおおはらえしき)
  • 8月3日~8月5日 午後7時一斉点火 万灯祭(まんとうさい)
  • 9月9日 13時 九月古例祭(これいさい)
  • 9月20日 古稀莚寿祭(こきえんじゅさい)
  • 9月14日 喜寿莚寿祭(きじゅえんじゅさい)
  • 9月27日 池坊献華式(いけのぼうけんげしき)
  • 9月28日 多賀講講社大祭(たがこうこうしゃたいさい)
  • 9月26日 抜穂祭(ぬいぼさい)
  • 10月3日 観月祭(かんげつさい)
  • 10月5日 傘寿莚寿祭(さんじゅえんじゅさい)
  • 10月17日 神嘗祭当日祭(かんなめさいとうじつさい)
  • 10月21日 10時 献茶式(けんちゃしき)
  • 11月3日 明治祭(めいじさい)
  • 11月8日 金咲稲荷神社例祭(かねさきいなりじんじゃれいさい)
  • 11月15日 大宮祭(おおみやさい)
  • 11月23日 11時 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月20日 早朝 御煤祓式(おすすはらいしき)
  • 12月23日 11時 天長祭(てんちょうさい)
  • 12月31日 15時 大祓式(おおはらえしき)
  • 12月31日 除夜祭(じょやさい)

例祭

  • 毎日 7時 御日供祭(おにっくさい)
  • 毎月1日,15日,28日 月次祭(つきなみさい)
  • 毎月1日 7時 お朔日(ついたち)参り

お多賀杓子

拝殿内にある「お多賀杓子」

元正帝の縁起

多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木[2]で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。 元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。 なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。 このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。

なお、多賀社より数キロメートル西にある「飯盛木(いもろ-ぎ)」は、帝の杓子の素となった木の枝を地に差したところ根が生じて大木に育ったものと伝わる。この飯盛木には、男飯盛木と女飯盛木の2本がある。

お多賀杓子・お玉杓子・おたまじゃくし

かつて際立った形状であった「お多賀杓子(お-たが-じゃくし)」は、「お玉杓子(おたまじゃくし、玉杓子お玉)」の語源になったと考えられる。               カエルの幼生「おたまじゃくし」は、「お玉杓子」から派生した名称なので、「おたまじゃくしの語源もまた、「お多賀杓子」ということになる。 後者のような言語的変化は、形状の相似によると思われる。

交通アクセス

公共交通

  • 東海道新幹線米原駅から近江鉄道本線乗り換え、高宮駅で多賀線乗り換え。多賀線終点の多賀大社前駅から徒歩10分。
  • 東海道本線(琵琶湖線)彦根駅から近江鉄道本線乗り換え、高宮駅で多賀線乗り換え。多賀線終点の多賀大社前駅から徒歩10分。
  • 東海道本線(琵琶湖線)南彦根駅からバスで10分。

自動車

  • 名神高速道路彦根ICから国道306号を多賀方面に向かい、多賀交差点。※名神高速道路多賀サービスエリア内から歩行者通路あり。
  • 国道8線から外町交差点から国道306号を多賀方面15分。あるいは、国道8号高宮交差点から多賀方面10分で多賀交差点。

トピック

近江鉄道本線は、運行主系統が米原駅~八日市駅~近江八幡駅となった現在でも、米原駅~貴生川駅(JR草津線)が正式な区間である。 これは同鉄道の創立時、多賀大社と縁の深い伊勢神宮に向けて、官鉄(国鉄)の草津線・関西本線・参宮線等を介して結ぼうとしたためと言われる。 なお、「近江鉄道宇治山田延伸構想」がこの経緯に詳しい。


探訪 唐崎神社 20121121

2012年11月21日 | 探訪「近江水の宝」

日吉大社の摂社で、近江八景のひとつ「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で知られる景勝地。


 芭蕉の「辛崎の松は花より朧にて」という句で名高い樹齢約100年の松が境内にあります。

 金沢の兼六園にある唐崎の松はこの地から分けられたものとして有名です。

 古くは女別当社と別称し、女性の信仰が極めて篤く殊に婦人病、下の病には著しい御霊験があるとされています。

鳥居前にみたらしや!R161の鶴喜そば!

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~

2012年10月16日 | 探訪「近江水の宝」

「近江水の宝」は、琵琶湖や水にかかわる文化遺産のうち、特に優れたものとして滋賀県教育委員会が64件を選定し、地域資源として魅力を発信して、その価値の定着化をはかっています。

上布とは麻を素材とした織物で、近江上布の生産は鎌倉時代に京都から職人が移り住んだことに起源するといわれています。室町時代にはすでに高島(高島市)や高宮(彦根市)の上布が名産品として知られ、江戸時代には彦根藩の奨励策もあって、豊かな湧水に恵まれた湖東地域一帯の村々でさかんに生産されました。そして、これらは中山道高宮宿に集められて旅人へ販売されるとともに、近江商人によって全国に持ち運ばれたことから、高宮布と呼ばれて名声を博し、彦根藩から将軍家への献上品としても用いられました。

現在も愛荘町では、宇曽川や愛知川の豊かな伏流水の恵みを受けて、高宮布から受け継いだ伝統の技で近江上布を作り続けています。また、豊郷町は、こうした高宮布を江戸時代に商った偉大なる近江商人のふるさとです。

今回の探訪では、県の文化財専門職員および、愛荘町や豊郷町の観光ボランティアガイドのみなさんが同行案内し、近江上布の織手と商人の里を、中山道に沿って詳しく訪ねます。

てんびん鞠資料館 http://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210080001/

探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~20121014

旧愛知川役場

近江の麻(近江上布伝統産業会館 見学)

 近江上布は、京都の職人が宇曽川沿いで農業をするかたわら教えたのが始まりと伝えられ、永禄元年(1558)には犬上、愛知、神崎、蒲生などで生産されたものが近江商人によって諸国に売りに出されたといわれています。江戸時代には彦根藩は、国産方により、彦根藩の副業対策として麻布の振興を計り、着尺地、蚊帳地を増産し、文明年間には板締や櫛押による絣模様が開発されました。天保2年(1831)には、近江麻布蚊帳改会所を設立し、良品の生産に努め、近代になると、羽根巻による型紙捺染法を工夫し、絵羽調の縮絣が人気を呼ぶようになります。昭和52年3月には伝統的工芸品として国の指定を受けるにいたります。

中山道愛知川宿~中仙道を東へ下る

むちんばし絵図

 

愛知川宿北入口の道標

更に、中山道を北へ・・・商人屋敷や神社仏閣が続きます。

 

歌詰橋…愛知川宿から、宇曽川を超える橋

愛知川ボランティアカイドさんの案内は、ここまで!

 

歌詰橋を渡れば、豊郷町!

橋をわたり豊郷へ

豊郷町ボランティアガイドさんに交代 

パンフレットより

 

江州音頭http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9E%E9%9F%B3%E9%A0%AD

      http://go-shu.biwako-visitors.jp/index.html

滋賀県には近江商人の町と呼ばれるところがいくつかあります。豊郷町もそのひとつです。

豊郷出身の豪商

又十・・・藤野家屋敷(天平の飢饉普請の屋敷)

北海道の松前で、「はごろも缶詰」創業、

 

 

現在の大手商社の伊藤忠・丸紅の創始者で近江商人の筆頭とあげられる伊藤忠兵衛は、1842年に繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれました。現在、伊藤忠兵衛の本家は記念館として開放されており、「見越しの松に黒い塀」と呼ばれた堂々とした造りで、中山道に面してひときわ目をひきます。

 

総合商社の伊藤忠、丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の出身地も豊郷町です。伊藤忠兵衛に仕え、後に丸紅商店(現、丸紅)の専務となったのが古川鉄治郎という人です。古川鉄治郎の出身地も豊郷町。

 

 

近江商人を表わす言葉に「三方よし」というものがあります。商売においては、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方がよくなければならないとする経営理念です。三方よしの実践者であった伊藤忠兵衛の意思を忠実に受けついた古川鉄治朗は、世間よしとするための事業を行ないました。

それが旧豊郷小学校の建設。旧豊郷小学校を目の前にしたとき、近江商人の地域社会に貢献したいという、心意気に圧倒されるます。

 

アニメ殿堂【旧豊郷小学校】「聖地巡礼」としてファンが訪れているhttp://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210160004/ 

旧豊郷小学校の校舎は、今からおよそ70年前に建設されました。当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのヴォーリス建築。                            写真でも分かるように、横に長い建物で、その趣のある様はとても小学校とは思えません。                                                          当時のお金で60万円の費用、古川鉄治郎は私財を費やして小学校を建設し、寄贈。                                                 故郷に充実した教育設備をもった小学校をつくりたいとする思いが、この事業を導いたのです。

しかし、建設から70年を経た現在、この校舎は使用されていません。                                                                     老朽化による、強度不足で、安全が確保できないとの理由がら、一時は解体の危機に遭遇しました。                                                     地域住民からの反対運動で何とか今現在は解体されずに残っています。                                                          新校舎も建設されました。

近江商人の三方よしのなかで、世間よし実践の証として記念碑的に残すのがいいのかどうか、保存のための費用など、まだまだ検討すべきことがらは多くあるように思います。

 

 

 那須城は旧中山道沿いにあって、豊郷町の八幡神社一帯とされ、八幡神社の境内に石碑が建てられている。
豊郷小学校の南に土塁が残されていたといい、その規模は一辺が50m~100mはあったことになる。
 また、付近には「門根」という一画があり、城門があったという伝承もある。


 八幡神社前には、昔は豊郷町役場前にあったとされる土饅頭型の一里塚が再現されており、このような一里塚もあったのかと認識を新たにした。

 那須城の隣に「弘誓山称名寺」

那須城は治承・寿永の乱(源平の争乱)において、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした那須与一宗高の次男・砂田民部大輔宗伝が城を築いたと伝えられるが、定かではない。

近江七弘誓寺:中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。              那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てた寺

・・・豊郷駅へ

~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~充実した、探訪ウォークでした

 

本日の歩数 18,336歩   2時間56分    12.8km

消費カロリー 791.9kcal    脂肪消費量 113.1g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪「近江水の宝」信楽焼の里を歩く 20120901

2012年09月02日 | 探訪「近江水の宝」

○探訪「近江水の宝」 信楽焼の里を歩く

近江の戦国期城館遺跡からは多数の信楽焼が出土します。この信楽焼を産んだ信楽の里を歩きます。

日時:平成24年9月1日(土) 1班 9:45~12:15 2班 13:00~15:30 3班 14:00~16:30
     ※信楽高原鉄道信楽駅集合 各班とも開始時刻までに集合・受付

行程:信楽駅→白木伝統産業会館→ろくろ坂(嶋吉陶房、丸滋製陶、大窯跡)→県指定丸由窯跡・丸又窯跡→卯山窯→ひいろ壺坂→信楽伝統産業会館(解散 希望者は信楽駅まで誘導)  歩行距離約2.5km 所要時間2時間30分

定員:各班20名(計60名 事前申込 先着順)

実費負担:参加費500円

持ち物:水筒・健康保険証・タオル・ウォーキングできる服装など

 

遺跡となった登窯(屋根付き1基・屋根なし2基)

探訪「近江水の宝 信楽焼きの里を歩く」 20120901

 

745年天年代に聖武天皇が一時期都を置かれ、平成12年(2000年)に宮殿跡が発掘された紫香楽宮(しがらきのみや)、

宇治茶と地続きで日本に最も早くお茶が伝わり植えられたと伝えられる香りの煎茶で有名な朝宮茶、茶壺。

明智光秀反乱時の家康伊賀越えなど歴史に育まれた(信楽町小川城に一泊)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/cbde68af3f44bc7f4c0b7e3113ec8317

また代表作「太陽の塔」で有名な岡本太郎氏が、1963年~1995年頃まで信楽で創作活動に取り組まれ、この地の陶芸家に大きな影響を残しました。
ボランティアガイド 

本日の歩数 11,246歩   1時間56分    7.8km

消費カロリー 397.0kcal    脂肪消費量 42.4g
 
本日も訪問ありがとう、ございます!

 

 

無料:観光ボランティアガイド

窯元散策では登り窯や窯元ギャラリー、工房、信楽伝統産業会館(信楽焼の歴史)などの見学ができます。
  信楽の街の特徴は、陶器の生産工場が生活の場と共にあることです。多くの陶器産地では、工場団地と生活の場とが分離していますが、生活の場の一部が工場と して使われ、家族が中心となり生産が行われています。ひとつの敷地の中に工場と住居が並立していて、住居の一部が工場の家もあります。
 ボランティアガイド街中を歩くと、小さな工房が住宅と共に並ぶ地域があります。花器を作っている工場の隣に茶道具や食器の工房、庭園陶器、愛らしい陶人形の工房などが並んでいます。屋外に展示されたたぬきの置物や植木鉢、「陶生町」「焼屋町」といった地域、道路に埋め込まれた陶板や陶製の道標が信楽らしさをかもし出しています。

写真

 <予約申し込み・お問い合わせ>

信楽町観光協会 〒529-1851 滋賀県甲賀市信楽町長野1142 信楽伝統産業会館内

TEL:0748-82-2345 FAX:0748-82-2551

受付 9:00~17:00 ※木曜日休み

<ガイド料金>

ガイド料は無料。ただし交通費としてガイド一人につき1,000円やお昼をはさむ場合の昼食費を申し受けます。


○探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く

2012年06月23日 | 探訪「近江水の宝」

探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く

琴や三味線などの邦楽器で使う糸の原糸となる生糸を生産する「琴糸の里」(長浜市木之本町)を歩きます。あわせて賤ヶ岳砦跡の見学も行います。チラシはこちら

日時:平成24年6月23日(土) 1班 9:30~15:00 2班 10:30~16:00
    ※JR木之本駅東口集合 各班とも開始時刻までに集合・受付

行程:JR木之本駅→丸三ハシモト株式会社(糸製造)→JR木之本駅→(七本鎗バス)→糸取り工房→(リフト)→賤ヶ岳砦(昼食)→大音まちあるき(伊香具神社の独古水など)→(七本鎗バス)→戦国大河きのもと館→木之本まちあるき(冨田酒造・浄信寺など)→JR木之本駅 歩行距離約3.5km

定員:各班25名(計50名 事前申込 先着順)が、74名+スタッフ8名

実費負担:①参加費100円 ※受付時に徴収します。
       ②長浜戦国大河ふるさと博きのもとセット券(七本鎗バス・賤ヶ岳リフト・戦国大河きのもと館料金)大人1000円、小中学生500円             

※受付時に参加者が個別にお買い求めいただきます。

持ち物:弁当・水筒・健康保険証・タオル・ウォーキングできる服装など

 探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く20120623

探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く2

丸三ハシモト株式会社(糸製造)→

七本槍 

この賤ヶ岳の合戦で活躍した、秀吉恩顧の武将が「賤ヶ岳七本槍」

福島左衛門大夫正則
脇坂中務少輔安治
加藤左馬助嘉明
片桐東市正且元
加藤肥後守清正
平野遠江守長泰
糟屋助右衛門武則

 

 
実際は、他にも同様の活躍で恩賞を受けた者が居たが、今川義元と織田信秀が戦った時の「小豆坂七本槍」の故事に因み、語呂も良かったので「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになった。秀吉は卑賤の身から立身出世し、先祖代々の家臣がいないため、この子飼いの武将達の活躍を宣伝することで、自分の名声を高めようとした。

糸取り工房→   

琴糸の里『大音』をぶらり歩き     由緒

上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。

貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。社伝によれば、寛平7年(895年)に菅原道真が法華経や金光明経を手写して納め、同時に「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜されたという[4]

その後足利尊氏200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。

明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。

     

   

 

  

 

 

 HPより

 

  

本日の歩数 11,379歩 1時間56分 7.9km
消費カロリー 215.8kcal 脂肪消費量 30.8g

比叡山焼き討ち(山岳戦の主役は山岳兵のような軽歩兵である。)

2012年06月05日 | 探訪「近江水の宝」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

足利義教が行った比叡山攻撃と延暦寺との抗争

もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。永享5年(1433年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。

しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。

しかし翌年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。

しかし義教は本心では許しておらず、同7年(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。

武家との確執

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した

永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。

これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

 

 

 

 

細川政元によって、比叡山焼き討ち (1499年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、明応8年(1499年)7月11日に細川政元が行った比叡山延暦寺を焼き討ちした事件

明応の政変により細川政元によって将軍職を足利義澄(義高)に奪われた足利義稙(義尹)だが、なんとか京を脱出して越中に入ると、彼に味方していた河内・紀伊・越中守護畠山尚順の家臣である越中守護代神保長誠に迎えられた(越中公方)。そして加賀守護富樫泰高、越前守護朝倉貞景の支持をも受けると、その勢いで上洛の姿勢を見せた。それを見た延暦寺も義尹の支持に回ったため、細川政元は焦り、延暦寺と対立することとなる。

明応8年7月に入っても様子を伺っていた政元だったが、ついに内衆の赤沢朝経と波々伯部宗量に延暦寺を焼き討ちするように命じた。2人が率いる軍勢は11日に一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍をことごとく焼いた。近江に進軍していた義尹と河内で挙兵した畠山尚順も細川軍に打ち破られ、政元は包囲の危機を脱した。

 

 

 

 

 

織田信長の比叡山焼き討ち (1571年) 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後に織田信長も比叡山を焼き討ちにするが、その時には言うほど山上に建物は建っていなかった。赤沢と波々伯部の焼き討ちが徹底していたためである。

 開戦までの経緯

比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。永禄12年(1569年)に天台座主應胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。元亀元年6月28日(1570年7月30日)の姉川の戦いで勝利した織田信長であったが、同年8月26日野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政、朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井長政、朝倉義景連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。

浅井長政・朝倉義景連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津国・河内国を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津国・河内国・近江国・伊勢国、そして織田信長のお膝元でもある尾張国の門徒衆にも号令を発していた。

 信長は、まずは岐阜と京都の中間地点でもある近江国南部から平定する必要がありと考えたらしく、翌元亀2年(1571年)の正月の賀礼に岐阜城へ訪れた細川藤孝らに向かって、「今年こそ山門(比叡山)を滅ぼすべし」と決意を述べたと伝わっている。

元亀2年(1571年)1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前国に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井長政・朝倉義景連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。

北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し。         —尋憲記

 信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。

同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。5月には浅井長政軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井長政連合軍は敗退した。同5月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、8月18日には浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江国の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。

9月11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。

戦いの状況

当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。

 

信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六

元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で法螺貝と鬨の声が上がり、攻め上がっていた。『信長公記』にはこの時の様子が

九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り

信長公記

と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。

戦後の状況

 

信長は戦後処理を明智光秀に任せ、織田信長は翌13日午前九時頃に、精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江国の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各与力らがこの地域に派遣し治める事になる。特に明智光秀と佐久間信盛はこの地域を中心に支配することになり、明智光秀は坂本城を築城することになる。

一方、延暦寺側では正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることが出来、甲斐国の武田信玄に庇護を求めた。武田信玄は彼らを保護し、延暦寺を復興しようと企てたが、元亀4年(1573年)に病死。実現をみるに至らなかった。

天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまった、とある。

その後本能寺の変で織田信長は倒れ、明智光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に羽柴秀吉の心をつかんでいったと思われている。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している羽柴秀吉に犬山城で、後重になる要請により天正12年(1584年)5月1日に、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に山門再興判物を発し、造営費用として青銅1万貫を寄進した。比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。

延暦寺の発掘調査

昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われ、比叡山焼き討ちに関する考古学的再検討が行われた。

考古学者である兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集)によると、明確に織田信長の比叡山焼打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この比叡山焼打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東塔、西塔、横川と限定されているが、比叡山焼打ち時には、比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。従って『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている、寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。

兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。


探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

2012年06月03日 | 探訪「近江水の宝」

探訪「近江水の宝」比叡山延暦寺を歩く探訪延暦寺チラシ.pdf

★日時:平成24年6月2日(土)10:00~16:45頃
★集合・受付:【京阪】坂本駅9:30~10:00
★歩行距離:約5km(ただし山坂道)

根本中堂は(標高670m)―坂本(150m)=標高差520m。    (ちなみに大比叡は848.1m)

行程 比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を比叡山延暦寺・西塔・東塔・叡山ケーブルで坂本へ

http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20120427_1.html

探訪【近江水の宝】比叡山延暦寺を歩く

出発式で、県教育委員会文化財保護課 記念物担当木戸氏、北村氏の挨拶。 坂本の歴史を守る会、大津市のスタッフ紹介

    比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)を

日吉神社鳥居の横の石段を・・・いざ延暦寺へ!    花摘堂跡(伝教大師母君の遺跡)

坂本から比叡山延暦寺の表参道である「本坂」(ほんさか)途中にあります。かって比叡山延暦寺は修行の地として神聖視され、女性の入山を認めませんでしたが、年に一度ここにあった社への参拝ができました。人々は、この地に花を捧げました。

  石仏群で小休止

薬師院跡で小休止戦国玉城のよう!石垣・土塁・縦堀・平削地の廓跡(寺社堂塔500余棟】

 法然堂に到着、約2時間 法然堂で【おせんべい】を、全員に頂戴しました。  坂本の歴史を守る会・文化財保護課より、班分け・スケジュールの説明。

 文殊楼は高い石段を隔て根本中堂の東側にあります。延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになります

根本中堂はその最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂となります。本尊は薬師如来です。

現在の姿は徳川家光公の命で寛永19年(1642)に竣工したものです。ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

根本中堂の前に!

昭和39年(1964)に山麓坂本の讃仏堂を移築したものです。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られています。

青銅の灯篭に【三つ葉葵】の御紋 開運の鐘(連打禁止)

  菩提樹

戒壇院の創建は天長5年(828)、第1世義真座主が僧侶の大乗戒(規律)を受ける施設として建立したのが始まりと伝えられています。延宝6年(1678)に再建されたもので桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、栩葺、裳階付、軒唐破風、和様と唐様が混在した形式を持ち、床は石畳で石造の戒壇が設けられ内陣には得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊菩薩像、弥勒菩薩像が安置されています。戒壇院は江戸時代初期に建てられた寺院建築の遺構として大変貴重な存在で明治34年に国指定重要文化財に指定されています。

水琴窟またお堂の前には、水琴窟があり、美しい響きを聞くことができます。

昭和12年(1937)に建立された、壇信徒の先祖回向の道場です。本尊は丈六の阿弥陀如来です。

法華総持院東塔

昭和55年に阿弥陀堂の横に再興されました。伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされましたが、その中心の役割をするのがこの東塔になります。本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。

伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。

現在の釈迦堂は、延暦寺に現存する建築中最古のもので、もとは三井寺の園城寺の金堂でしたが、秀吉が文禄四年(1596年)に西塔に移築したものとなります。

 その後、比叡山鉄道坂本ケーブル山上駅(標高650m)から、坂本駅(150m)へ。

乗車時間はわずか11分の長旅でした。

 

 

 

参考に。

比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、坂本・大津の町並を一望できます。

 

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、

この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。

最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。

最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。

最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。

特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。

美しい自然環境の中で、1200百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。

 

 

 

本日の歩数 22,318歩 3時間56分 15.6km
消費カロリー 473.4kcal 脂肪消費量 67.3g
登り2:00・・・ちょっと、疲れました。