合理化に反対して仕事(職場)の安全確立のために闘う…というふうに、反合理化・運転保安闘争を現象的にとらえてしまうと、国鉄千葉動力車労働組合の闘いをいかに自分の職場闘争に応用していくかという理解に陥り、その闘いの路線的意味を見失っていく危惧が生じます。ここは論理的に言おうとするとかなり難しい。誤解を恐れずにザックリ展開すると、「この職場を動かしているのは自分たちだ!」という現実を、名実ともに確立していく闘いだってことじゃないでしょうか。団結した労働者による職場支配権の掌握がないかぎり、運転保安―安全確立なんてありえません。事故(ミス)を起こす危険があったら、その仕事に関わる人員を増やす、スピードを落とす、いったん立ち止まる、もう一度やり直す…こうしたことが労働者の団結をもとにしてできる職場をつくりあげる闘いの渦中で、労働者としての誇りをとりもどすことができるし、階級性を奪い返すことができるのだと思うのです。そしてこうした職場の実現―闘いの勝利は、資本主義システムの労働者支配―職場支配とは真っ向から対立します。資本の合理化に反対する闘いと同じように。だからここで勝利しようと考えるなら、「労働運動で革命を!」の思想が必要だし、革命党と階級的労働組合の一体的建設が必要だってことです。
東京西部ユニオン―アメリカン・アパレル分会の仲間たちが話し合っているのを聞きながら、そこで話されていることの本質は何だろうかなど思いながら、こんなことを考えていました。
東京西部ユニオン―アメリカン・アパレル分会の仲間たちが話し合っているのを聞きながら、そこで話されていることの本質は何だろうかなど思いながら、こんなことを考えていました。