大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
七十五 柳ノ宿(やなぎのしゆく)
吉野駅を下り、吉野川を渡り、二三町行きて左に折れたる小径(こみち)にあり、小祠、高祖の石像を祀(まつ)る。
本山入峰の際は此処(こゝ)にて集まれる小供に投銭(小銭を分ち與ふ)をなす例である。これは峰中賽銭(ぶちうさいせん)の残りを施(ほどこ)す習慣より来たものであると。
吉野神宮 柳の宿より十五六町登つて後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を祭れる吉野神宮(よしのじんぐう)に参拝す。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
七十五 柳ノ宿(やなぎのしゆく)
吉野駅を下り、吉野川を渡り、二三町行きて左に折れたる小径(こみち)にあり、小祠、高祖の石像を祀(まつ)る。
本山入峰の際は此処(こゝ)にて集まれる小供に投銭(小銭を分ち與ふ)をなす例である。これは峰中賽銭(ぶちうさいせん)の残りを施(ほどこ)す習慣より来たものであると。
吉野神宮 柳の宿より十五六町登つて後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を祭れる吉野神宮(よしのじんぐう)に参拝す。
大峰七十五靡の名称と道程 宮城信雅
大峰七十五靡(おおみねななじうごなびき)とは熊野(くまの)より大峰修行(おおみねしゆぎよう)をする順路(じゆんろ)であり、七十五の宿所(しゆくしよ)、行所(ぎやうしよ)が存在するのである。今これを熊野より順(じゆん)にあげるのが至当(しとう)であらうけれ共(とも)、今日大峰奥駈修行(こんにちおおみねおくがけしゆぎやう)をなす人は殆(ほとん)ど吉野より熊野に出(い)づる逆峰(ぎやくぶ)をとつてゐるから、既(すで)に奥通(おくどほり)をせられた人、これより奥通をせんとする人の参考までに、逆(ぎやく)にこれをあげ本山入峰(ほんざんにふぶ)の際の順序に従ひてのべ、付近の名所をもかゝける事とする。
大峰山の霊蹟に就て 宮城信雅
はしがき 略
大峰の名称 略
大峰山脈の地勢 略
高祖大士と大峰山
高祖大士(こうそだいし)と大峰山(おほみねざん)とのことについては、詳説(しょうせつ)すれば限りはないが、此処では簡単に概説(がいせつ)してをく。高祖神変大士(こうそじんべんだいし)は十七歳の御時初(おんときはじ)めて葛城山(かつらぎざん)に登つて修行せられ、次で白雉(はくち)三年十九歳にして大峰山に分け入られた。御歳(おんとし)については或(あるひ)は二十一歳と云(い)ふ説(せつ)、或は三十四歳と云ふ説もあるが、こゝでは十九歳説をとつておく、而(しか)して高祖は先(ま)づ本邦宗廟(ほんぽうしうびやう)の地である熊野(くまの)に詣(もう)で、熊野路(くまのじ)から大峰山に分け入られた、抑(そ)も高祖の御修行(ごしゆぎよう)は山岳(さんがく)に抖擻(とそう)して身心(しんしん)を練磨浄化(れんまじやうけ)し本具(ほんぐ)の曼荼羅(まんだら)を開顕(かいけん)するにあつたので、その御修行は中々(なかなか)なみなみのものではなかつた。或は木(こ)の果草(みくさ)の葉を食ひ、木の葉を衣(い)とし、樹下石上(じゆかせきじやう)に座臥(ざぐわ)せられ、順逆回峰(じゆんぎやくくわいほう)三十三度に及んだと云はれてゐる、尚高祖(なほこうそ)はこの大峰山を諸佛(しよぶつ)の浄土(じやうど)となし、胎金曼荼羅(たいこんまんだら)を配當(はいとう)せられた、熊野より縁(えん)の鼻の付近両部分(ふきんれいぶわ)けまでは胎蔵界(たいぞうかい)、それより北は金剛界(こんごうかい)となつている。現今諸尊(げんこんしよそん)を諸山(しよざん)に配當された詳細の状態を知るに困難であるが、兎(と)に角(か)、この霊山(りやうせん)を諸佛の浄土となし、この霊山に入るものは肉身(にくしん)を以(つ)て直(たゞ)ちに諸佛の浄土に参(さん)じ身心浄化(しんしんじやうけ)されて即身成佛(そくしんじやうぶつ)すと云ふ信仰(しんこう)を有(いう)せられたに相違(そうい)ない。
それで、熊野より吉野(よしの)に出(い)づるを順峰(じゆんぶ)と云ひ、従因至果(じゆういんしくわ)の修行となし、吉野より熊野に出づるを逆峰(ぎやくぶ)と云ひ、従果向因(じゆうかこういん)の修行と云つてゐる、尚又高祖(なおまたこうそ)は、多くの高山(こうざん)を開かれたる内(うち)、特に大峰山の修験(しゆげん)の根本道場(こんぽんだうじやう)となし、山上嶽湧出(さんじやうがくゆうしゆつ)の峰(みね)には、末世剛悪(まつせがうあく)の衆生を済度(さいど)すべき蔵王権現(ざわうごんげん)を勧請(かんぜう)し、釈迦嶽(しやかがだけ)と大日嶽(だいにちがだけ)の中間(ちうかん)を大峰の中臺(なかだい)となし、弟子義学(でしぎがく)に修験最秘(しゆげんさいひ)、深仙潅頂(しんせんくわんちやう)をさづけ、弟子五鬼(でしごき)を前鬼山(ぜんきざん)に止めて大峰修行者(おおみねしゆぎようじや)の守護指導(しゆごしだう)を命ぜられ遂(つい)に箕面(みのも)の天上岳(てんじやうがく)に至つて登天(とうてん)せられたのである。高祖の芳躅(ほうじよく)をしたひて、大峰山に修行するもの年々盛(ねんねんさかん)になつて行くは喜ばしい事である。
尚役行者(なおえんぎやうじや)が本邦宗廟(ほんぽうしうびよう)の地(ち)たる熊野・山神地祇(さんしんちぎ)を祭れる吉野の神霊(しんれい)の地を両端(れうたん)として其間(そのかん)の高峰(こうほう)を通じ、諸佛の浄土と観(かん)ぜられた事は、一般国民(いつぱんこくみん)の山岳(さんがく)を崇敬(すうけい)し神霊をまつる信仰と、佛教の信仰とを一致せしむる、神佛一致(しんぶついつち)の思想(しそう)を高調(こうてう)したもので、後(のち)の山岳佛教のみならず本地垂迹説(ほんぢすいじやくせつ)の先駈をなしたものであらう。
迦楼羅 「密教辞典 佐和隆研編 法蔵館」
問
不動経(ふどうきやう)の内(うち)に「迦楼羅炎を示現して業障海を焚焼す」とありますが、その迦楼羅炎(かるらえん)とはいかなる意味ですか。
答
迦楼羅(かるら)と云(い)ふのは天竺即(てんぢくすなは)ち印度(いんど)に於(お)ける鳥(とり)の名(な)です。金翅鳥(こんじてう)とも云(い)ひます。神秘化(しんぴか)されて天龍八部衆(てんりうはちぶしゆう)の一になつてゐます。大木(たいぼく)に住んでゐて、毒蛇(どくへび)を取つて食(くら)う大きな鳥です。この迦楼羅鳥(かるらてう)の大きな翼(つばさ)を廣(ひろ)げた形の火炎(かえん)を迦楼羅炎(かるらえん)と云(い)ふたのです。ことに一面(いちめん)にはカルラ鳥(てう)は毒蛇(どくへび)を取(と)つて食(くら)ふので智恵(ちえ)の炎(ほのほ)が煩悩(ぼんのう)を取盡(とりつく)すことをも表示(へうじ)してあるのです。
僧祇に就て
問
修験道(しゆげんだう)の法階(ほふかい)に一僧祇(そうぎ)、二僧祇(そうぎ)、三僧祇(そうぎ)とありますが、僧祇(そうぎ)とは大体(だいたい)どう云(い)ふ意味なのですか、御尋(おたづ)ねします。
答
僧祇(そうぎ)と云(い)ふのは経典(きやうてん)にある阿僧祇劫(あそうぎこう)と云(い)ふ言葉(ことば)から来たのでありまして阿僧祇劫(あそうぎこう)と云ふのは無数時(むすうじ)と云ふ事であります。ある長い長い年月と云ふ意味です。お釈迦様(おしやかさま)が前生(ぜんせい)に於(お)いて三阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行(しゆうぎやう)をせられて、遂(つゐ)に成佛(じやうぶつ)せられたと云(い)はれてゐます。而(しか)して修験道(しゆげんどう)に於(お)いて僧祇(そうぎ)を法階(はふかい)の名称(めいしよう)にしたのは、三ケ度(ど)の入峰修行(にふぶしゆうぎやう)に於(お)いて阿僧祇(あそうぎ)の功(かう)を積(つ)むと云ふ意味で、入峰修行(にふぶしうぎやう)の功徳(くどく)を釈尊前生(しやくそんぜんせい)の修行(しゆぎやう)にたとへたものであります。無数時(むすうじ)と云ふのも、必(かなら)ずしも時計(とけい)の上(うへ)からの時(とき)のみを云(い)ふのでなく、精神修養上(せいしんしうやうじやう)について考へねばならないのであつて、西方十萬億里等(さいほうじうまんおくどなど)と云ふ事も、方角(ほうがく)の西(にし)の方(ほう)十萬億里(じうまんおくり)の彼方(あなた)と物質的(ぶつしつてき)に解(かい)するよりも、霊界(れいかい)を以(もつ)てながめねばならないのであります。
問
「一念三千」と云(い)ふことを、ごく解(わか)り易(やす)く教(をし)へて下(くだ)さい。
答
これは天台宗(てんだいしう)の教理(けうり)でも随分深(ずゐぶんふか)いところをといたものですから、ごく解(わか)りやすく、而(しか)も簡単(かんたん)にお話する事(こと)は中々困難(なかなかこんなん)で、解(わか)りやすくお話(はなし)しやうとすれば自然詳(しぜんくわ)しくなります。詳(くわ)しくなると、到底此欄上(とうていこのらんじやう)でお話(はなし)することは出来(でき)ませんが、その名数(めいすう)だけでも簡単(かんたん)に申(まう)しますと、先(ま)ず衆生(しゆじやう)の境界(きやうかい)を十界即(じゆつかいすなは)ち、地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしやう)、修羅(しゆら)、人間(にんげん)、天(てん)、声聞(せいもん)、縁覚(えんかく)、菩薩(ぼさつ)、佛(ぶつ)の十種(じゆつしゆ)に分(わか)ちます。そして、この十界(かい)が各々十界(おのおのじゆつかい)を具(ぐ)する。即(すなは)ち地獄界(ぢごくかい)にも性(しやう)として・・・・・・菩薩佛(ぼさつぶつ)までを具(そな)へ・・・・・各十界を具してゐるから百界(かい)になる。この百界がそれぞれ十如是(によぜ)を具(ぐ)する(十如是の事(こと)は本誌戸田氏の文章を参照して下さいここには名目(めいもく)をはぶく)それで千如(によ)となる。然(しか)るに世間(せけん)を分(わか)ちて、国土世間(こくどせけん)、衆生世間(しゆじようせけん)、五陰世間(ごいんせけん)、がある、これは国土(こくど)も衆生(しゆじよう)と、佛心(ぶつしん)と見てよろしい。かくて千如(によ)が各々(おのおの)この三種世間(さんしゆせけん)にあるから三千となる。この三千が而(しか)も吾等(われら)の一心中(しんちう)にある。この自己(じこ)の心に三千を具(ぐ)する事(こと)を観念(かんねん)するのが一念三千観(いちねんさんぜんかん)であります。三千と云(い)ふのは一切萬物(いつさいばんぶつ)と見(み)てよろしい。一切萬物が自己(じこ)の心をはなれて存在(そんざい)しないのであります。 これだけのお答(こた)へでは充分(じうぶん)でありませんが、充分なることはお出(い)でになればお話致(はなしいた)します。
「度牒」の意味
御本山(ごほんざん)で得度(とくど)を受けました節御書付(せつおかきつけ)を下(くだ)されました上包(うはづゝみ)に「度牒(どてう)」と書かれてある理由(わけ)をお尋(たづ)ね致します。
答
度牒(どてう)と云(い)ふのは得度のしるしと云ふ意味(いみ)である。得度と云ふ言葉(ことば)はすでに御存知(ごぞんぢ)であらうと思(おも)ふが、念(ねん)の為(た)めに申しあげて置(お)く。得度とは、佛弟子(ぶつでし)になる入門(にふもん)の儀式(ぎしき)である。
そして得度と云ふ言葉の意味は度(ど)を得(う)る事(こと)、度(ど)とはわたると云ふことです。わたるとは、迷(まよ)ひのこの岸(きし)から、さとりの彼(か)の岸(きし)、涅槃(ねはん)の彼(か)の岸(きし)に渡(わた)る事(こと)である。
そして佛道入門(ぶつだうにふもん)の目的(もくてき)はこゝにあるのです。故(ゆゑ)に得度と云ひ、得度の式(しき)には、五戒(ごかい)とか十戒(じゆつかい)とか云う戒(いまし)めをうけますから得度受戒式(とくどじゆかいしき)とも云ひ、又度牒(またどてう)の事を戒牒(かいてう)とも云ひます。
佛教お伽噺 牛窪弘善 譯
なみだの教
むかしお釈迦様(しやかさま)にラフラという一人(り)のお子(こ)がございました。此(こ)のラフラがまだお修行(しゆげう)のたりない、ちいさな時(とき)はなかなかのわんぱく者(もの)でめつたに正直(せうじき)のことをいひませんので、父(ちゝ)なる釈尊(しやくそん)は、ある日ラフラに、かういはれました
『お前(まえ)はそんなでは駄目(だめ)だから、山中(さんちう)のごく静(しづか)なお寺(てら)へ行(い)つて悪(わる)いことをいはない様(やう)によく口を守(まも)れ、そして意(こころ)をおちつけて、いましめを書(か)いた書物(しょもつ)を読(よ)め。』
ラフラは父(ちゝ)のいひつけだから、しかたがない。かしこまつてお礼(れい)をしてそこへ行(ゆ)きました。そして九十九日(にち)といふ永(なが)に間(あいだ)、昼(ひる)も夜(よる)も
『己(おれ)は、わるいことをしたものだ。実(まこと)にはづかしい。くやしくてたまらない。』
と思(おも)つて後悔(こうかい)してゐました。
或日(あるひ)のこと、不図父(ふとちゝ)なる釈尊(しやくそん)がお出(い)でになつた。ラフラは大喜(おおよろこ)びで、はしり出(で)ておじぎをして、すぐ縄(なわ)で拵(こしら)へた敷物(しきもの)を持(も)つて来(き)ました。
釈尊(しやくそん)は縄の敷物にお腰(こし)をかけられて、
『お― ラフラよ、たらひに水(みづ)を入(い)れて乃公(おれ)の足を洗へ。』
ラフラは『はい。』といつて、み足(あし)を洗いました。
『お前(まえ)はこの水(みづ)を見(み)たか・・・・・・。』
『はい。』
『この水で飲喰(のみくひ)できるか。口をすゝがれるか。』
『いえ、もうだめです。こんなに足を洗(あら)つたきたない水(みづ)はもうだめです。』
釈尊(しやくそん)は又(また)
『あゝラフラよ。お前(まえ)は王様(おうさま)の孫(まご)ではないか。いま世(よ)の中(なか)のことをすつかり、打(う)ちすてゝ出家(しゆけ)したではないか。なぜ精力(せいりよく)をだして身(み)をおさめ口(くち)を守(まも)ることを思はないのだ。お前(まえ)はいつもいつもきたない、わるい、毒(どく)の様(よう)なものに胸一杯(むねおつぱい)けがされてをる。丁度(てうど)この水(みづ)のやくにたゝないのと同(おな)じことだ。
釈尊(しやくそん)は又(また)
『この水(みづ)をすてよ。』
といはれた。ラフラは、すぐにすてた。釈尊(しやくそん)はおことばをつゞけられて。
『もう水がない。こゝへ飲(のみ)ものや喰(くひ)ものが、もれるか。』
『いゝえ、だめです。名前(なまえ)はたらひですが、きたないものが、はいつたので・・・・。』
『そうだ。お前(まえ)は出家(しゆつけ)であるが、口にはまことのことばがない。心(こころ)はあらづよくて、精(せい)だしてお行儀(げうぎ)をつゝしまないだから人(ひと)に悪(わる)くいはれるのだ・・・・・このたらひに喰物(くひもの)がもれないのと同(おな)じことだ。』
といはれて、み足(あし)の指(ゆび)でそのたらひをはねとばす。たらひはくるつとまはつて、をどりだして下(した)の方(はふ)へ落(おち)てしまつた
『どうだ、たらひが、おしいかこはすのが惜(おし)いか。』
『いゝえ、安(やす)い物(もの)ですから、をしいことは、おしいが、そんなでもありません。」
『あゝ折角出家(せつかくしゆつけ)となつて口(くち)と意(こころ)とをつゝしまないで、あらいことばをつかつて多(おほ)くのお友達(ともだち)をあゝだの、こうだのとたびたび悪(わる)くいふから、お前(まえ)は人にかあいがられない。それでは立派(りつぱ)な人達(ひとたち)は、お前(まえ)を気(き)の毒(どく)に思はない。お前(まえ)の様(よう)なものは死(し)んでから大層苦(たいそうくる)しい目(め)にあつても、丁度(てうど)お前がたらひを、をしまなかつた様(よう)に誰もたすけてくれまい。』
かういはれたラフラは、もうはづかしくて、たまらない。ぶるぶる身ぶるいしてゐた。釈尊(しやくそん)は、こんど面白(おもしろ)いお話をいたされました。
『昔或国(むかしあるくに)の王様が一ぴきの大きな象(ぞう)をかつてゐたが大層強(たいそうつよ)くて、たゝかひが上手(じょうづ)であつた。其(そ)の力(ちから)をはかつて見(み)ると五百ぴきの小(ちい)さな象(ぞう)にもまさつてゐた。或時(あるとき)、王様がいくさを起(おこ)こして悪(わる)い国(くに)を伐(う)たうとしました。そして象に鉄(てつ)の鎧(よろい)をきせ、二つの鋒(ほこ)をその牙(きば)にしばり二つの剣(けん)を両方(りょうほう)の耳(みみ)につなぎ、曲(まが)つた刀(かたな)を四本の足(あし)にしばりつけ、そして又、鉄(てつ)のムチをその尾(を)につけた。
そこで、いよいよ戦争(せんそう)に出(だ)した。ところが象(ぞう)は、いつもだひじに鼻(はな)をかくして、たゝかひに用(もち)ひない。御者(ぎよしや)は象がじぶんの体(からだ)を大切(たいせつ)にまもることを知(し)つてゐるのを見(み)て喜(よろこ)んでゐた。
なぜというに象の鼻はやはらかいから矢(や)に當(あ)ると、すぐ死(し)んで仕舞(しまう)ふからだ。象は長(なが)い間(あいだ)たゝかつてゐたが今度(こんど)は鼻を出して剣を求(もと)めたが御者(ぎよしや)は與(あた)へない。
この強(つよ)い象は命(いのち)を惜(おし)まず、しきりに剣を求める。象は鼻の尖(さき)に剣をつけてもらはうとするのであつた。
しかし王様やお家来(けらい)は、この強(つよ)い大きな象を惜(おし)んでとうとうやらなかつたそうだ。』
ラフラよ。人は口にをまもつて世(よ)の中(なか)の苦(くる)しみを、おそれなければならない。口をまもらない者(もの)は、丁度象(てうどぞう)が命(いのち)をなくすることを知(し)らないで鼻を出して戦(たゝか)はんとした様(やう)なものだ。
お行儀(げうぎ)をよくして、身(からだ)、口(くち)、意(こゝろ)の三つを、をさめて悪(わる)いことをしなければ、立派(りつぱ)な人(ひと)になれるのだ。』
ラフラは父(ちゝ)なる釈尊の深切(しんせつ)な、み教(をしえ)を聞(き)いて大層感(たいそうかん)じたので、もうそれからといふものは、よく、いましめをわすれないで一生懸命(いつしようけんめい)にお行儀(ぎょうぎ)をつゝしんで、大層(たいそう)おとなしくなられました。これから忍耐力(にんたいりよく)は強(つよ)く意(こゝは)ずつと落(お)ちついてえらいお方(かた)になつたさうです。めでたしめでたし。
(法句譬喩経より)
佛教お伽噺 牛窪弘善 譯
白石と黒石
むかし印度(いんど)のペナレスという所(ところ)にグブダという人(ひと)がありまして大(たい)そうお釋迦様(しやかさま)を信仰(しんこう)してゐました。その人(ひと)にウバグブダという一人(り)の子供(こども)がありました。
この子(こ)が大(おお)きくなつてから、どういう譯(わけ)か其(そ)の家(い)がだんだん貧乏(びんぼう)になつて大(たい)そうなんぎをしましたので、おとうさんは、お金(かね)をやつて商売(しようばい)を始(はぢ)めさせました。
その時分(じぶん)にヤシヤキという立派(りつぱ)な和尚(くわしよう)さんがゐまして、この店(みせ)の近所(きんじよ)でお説教(せつきよう)をしてをられました。
ウバグブダは、どうしたならよい人(ひと)になつて身代(しんだい)がよくなりますかと、おたづねしますと和尚(くわしよう)さんは
『黒い石と白い石とを集(あつ)めて来(き)て、よいことをしたら白いのを別(べつ)の箱(はこ)に入(い)れ、惡いことをしたら、黒い石をいれて、お勘定(かんじよう)をして見(み)るがよい。』
とをしへられました。ウバグブダは、その通(とほ)りにいたしました。
ところが初(はじめ)の中(うち)は黒い石ばかり澤山(たくさん)あつて、白いのはきはめて少(すく)なかつたが、ますます奮發(ふんぱつ)をしてお行儀(げうぎ)をつゝしみますると、今度(こんど)は黒いのも白いのも半々(はんはん)になりました。そこで一所懸命(いつしようけんめい)にお行儀(げうぎ)をよくしたら、白い石ばかりになつて来(き)た。そして後(のち)にはえらい人(ひと)になつて珍(めづ)らしい寶物(ほうもつ)が澤山(たくさん)たまつてまゐりました。めでたしめだたし。
(賢愚経(けんぐけい)より)
佛教お伽噺 牛窪弘善 譯
りこうな亀
むかし印度(いんど)という國(くに)にお釋迦様(しやかさま)という大層立派(たいそうりつぱ)なお方(かた)がをられました。その頃(ころ)、一人(にん)の行者(ぎやうじや)がありまして、河(かわ)の傍(そば)の樹(き)の下(もと)で修行(しゆぎやう)してゐました。十二年(ねん)といふ長(なが)い間(あひだ)、頗(すこぶ)るなんぎな修行をしてゐましたが、この行者は、かんじんな心(こころ)が落付(おちつ)かないで、いつもいつも六つの欲心(よくしん)がムクムクおこつてまいるました。六つの欲心(よくしん)といふのは、
目(め)で綺麗(きれい)なものを見(み)たがり、
耳(みみ)でよい聲(こゑ)を聞(き)きたがり、
鼻(はな)でよい香(かほり)を嗅(か)ぎたがり、
口(くち)でおいしい物(もの)を喰(た)べたがり、
身體(からだ)には柔(やはらか)い物(もの)を着(き)たい、
意(ここゝ)は、いつも『どうしやう、どうしやう。』
と思つてゐるのだ。
であるから意(こころ)も身體(からだ)も一向落付(いつこうおちつ)かないで唯(たゞ)ウカウカしているのです。随(したが)つて安心(あんしん)して修行をつゞけることが出来(でき)ないのです。お釋迦様(しやかさま)と申(もう)すお方(かた)は、丁度(ちやうど)おとうさんや、おかあさんが、皆(みな)さんを可愛(かあい)がつて下(くだ)さる様(よう)に大層(たいそう)おなさけぶかいお方(かた)であるから、
『どうかして、あの行者が立派(りつぱ)に修行が出来る様(やう)にしてやりたい。』
と思(おも)はれて、ワザワザそこへお出(い)でになつて一緒(しょ)に樹(き)の下(した)で宿(やど)をとられました。ところが間(ま)もなく一匹(ぴき)の亀(かめ)が、河(かわ)の中(なか)からザワザワはつて出(で)る、そして樹(き)の下(した)までやつて来た。そこへ又一羽(は)の水狗(かはぜみ)がヒヨツクリ出て来た。お腹(なか)がへつてたまらない所(ところ)へ、亀に出(で)つくはしたものだから、すぐその亀を喰(く)はうとした。ドツコイそうはいかない。亀はすぐ頭(あたま)も尾(お)も四本の脚(あし)もみんな縮(ちゞ)めて甲(こう)の中(なか)へかくしてしまつた。もう喰(く)ふことは出来ない。亀の甲は鎧(よろひ)の様(やう)にかたいものだから、水狗(かはぜみ)は
『これは妙(めい)なものだ、とても駄目(だめ)だなア。』
と思つて少(すこ)し歩(あゆ)むと亀はまた頭や尾を出して歩いていく。
水狗(かはぜみ)は『くやしくてたまらない。』がどうすることも出来ないものだから、とうとう外(ほか)へ逃(に)げていつてしまつた。亀はほんとによい命(いのち)びろひをしたものだ。行者はさつきから此(こ)の様子(ようす)をじつと見(み)てゐて
『此(こ)の亀(かめ)には命(いのち)をまもる鎧(よろい)がある。だから水狗(かはぜみ)はどうすることも出来(でき)ないのだ。』
そこで、お釋迦様(しやかさま)が其(そ)の行者に教(をし)へられますには、
『よく考(かんが)へて御覧(ごらん)、この世(よ)の中(なか)には、さつきの亀にも及(およ)ばない人(ひと)が、たくさんゐます・・・・人(ひと)といふものは、いつもこの六つの欲心(よくしん)をだすものだから、悪(わる)い者(もの)がつけ込(こ)んで来(く)る。そして大層苦(くる)しい目(め)にあつて、おまけに命(いのち)まで、とられてしまうのだ。この六つの欲心(よくしん)は心から出た錆(さび)といふものだ。こんな悪(わる)い意(こゝろ)をとつてしまへば安心(あんしん)して世(よ)の中(なか)に樂(たのし)むことが出来(できる)るものだ。
といはわれて、つぎのやうな歌(うた)をうたはれました。
『 六つの欲(よく)をかくせ、人(ひと)たち、 亀(かめ)のごと。』
『 悪意(あくい)をば、ふせげ、人(ひと)たち、城(しろ)のごと。』
『 智惠(ちえ)と、悪意(あくい)と、たゝかひて、悪意(あくい)にかたば、うれひなからん。』
めでたし めでたし
(法句経心意品より)
佛教お伽噺 その二 牛窪弘善 譯
長者の萬燈貧者の一燈
ある時、阿闍世(アジャータサツタ)といふ王様が釋迦牟尼佛(しやかむにぶつ)を請待した。佛陀(ぶつた)は晩餐(ばんさん)を終へて祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に還り給はうとした。すると王様は待醫(じい)の耆婆(ジヴア)と御相談をして申すには、
『釋尊(しやくそん)は御飯(ごはん)を終へましたが、今度はどんな供養(くよう)をしたらよいでせう。』
耆婆は、
『澤山の燈明(みあかし)をともし給へ。』
と答へたので、王様は早速勅命(さつそくちよくめい)を下し給ふて百石の麻の油で以つて王城の御門から祇園精舎まで燈明(とうみよう)を點けました。
所が大層貧乏なお婆さんがゐて王様が斯様な功徳(くどく)をしたのを見て非常に感心をして、町中(まちゞう)を廻つて漸く銭二文を貰ひ受け、早速油屋(さつそくあぶらや)へ駈け込んだ。
油屋の主人は、
『お婆(ばあ)さんは大層貧乏でやつと二文の銭を貰つたといふじやないか。どうだ喰物(くいもの)でも買つてお前の命(いのち)を繼(つな)いでは・・・・こんな油なんか何にする。』
お婆さんは、
『聞きますると佛様(ほとけさま)の出世には値(あ)ひ難い百千萬劫(ごう)に一度遇ふ位な者。私は幸ひ御佛(みほとけ)に逢(あ)ひ奉り乍(なが)ら今まで供養(くよう)をしなかつたが、今日は王様が大なる功徳(くどく)をなし給ふを見て實に斯様な貧乏者ではあるけれど、せめては一燈(とう)だけでも燃(もや)して後世(ごせ)の供養(くよう)にしたい。』
すると油屋の主人はお婆さんの眞心(まごころ)に感心(かんしん)して、二文の銭では二合の相場であるのに特別(とくべつ)三合を益(ま)し都合(つごう)五合の油を與(あた)へて遣(や)つた。
お婆さんは佛陀(ぶつだ)の前で燃(もや)さうとしたが五合では夜中(よなか)までには足(た)りない。そこでお婆さんは誓(ちかひ)をして申すには、
後(のち)の世に、もしわが心悟(こゝろさと)り得ば、
御佛(みほとけ)の如(ごと)、道に入らなん。
終夜(よもすがら)、油は盡きじ、僅(わづ)かなりとも。
光(ひかり)いやまし消ゆることなかれ。
お婆さんは斯様(かよう)な誌(うた)を唱へて礼拝(らいはい)をして行きました。
王様のおともしになつた燈明は滅(き)えたのもあり、油(あぶら)の盡(つ)きたのもありましたが、このお婆さんのは光(ひかり)が又特別だ。澤山な燈明の中でも最も勝(すぐ)れてゐて一夜滅(き)えなかつた。即ち不思議にもその油は夜明(よあけ)まで盡(つ)きなかつたのである。佛陀(ぶつだ)はお弟子の目連尊者(もくれんそんじや)に、
『もう夜(よ)が明(あ)けたから殘らず燈明を滅(け)せ。』
と仰(あふ)せられました。目連尊者は順次(じゅんじ)にその燈明を滅(け)しました。外のは殘らず滅(き)えましたが、お婆さんの一燈ばかりは三度まで滅(け)さうとしたが駄目(だめ)でしたので、お袈裟(けさ)を擧げて扇(あふ)ぎましたら燈明は不思議にも益々明(ますますあか)るくなつた。
佛陀は目連に、
『止(や)めよ。止(や)めよ。それはお婆さんが未来(みらい)に佛に成つた時の光明(みひかり)の功徳(くどく)であるから、汝が神通力ではとても滅(け)すことが出来ないお婆さんは宿世(すぐせ)に於て多くの佛陀を供養して前の佛陀(ぶつだ)から未来に成佛(じょうぶつ)すべく豫言を受けて、佛典(ぶつてん)を學(まな)んだけれどまだ十分に供養が出来なかつたから、今の世に生れて貧乏者(びんぼうもの)となつたのである。お婆さんはく未来には必ず成佛(じょうぶつ)して暗黒(あんこく)の世界を照(てら)すであろう。』
お婆さんは之を聞いて大層の喜(よろこび)で禮拜をして辭した。
さて、前の王様は耆婆(ジヴア)に向かつて、
『乃公(おれ)は斯くの如き大なる功徳(くどく)をしたにも拘はらず、御佛は未来に成佛すべき豫言を與へて呉れない。しかるにあのお婆さんの一燈(とう)に對して豫言を與へられたとは・・・・』
耆婆は、
『左様でございます。王様のは澤山の燈明でありますが、心が専(せん)一でなかつた。とてもお婆さんの熱心(ねつしん)にはくらべ物(もの)になりますまい。』
そこで王様は至誠(しせい)の心で以つて油(あぶら)と華(はな)とを獻(けん)じて佛陀を供養し奉つたので、佛様(ほとけさま)は王様に對して未来成佛の豫言をお授(さづ)けになりました。
この時、王様の太子栴陀和利(たいしセンタワリ)と申す當年八歳の御子が父なる王が受決(じゆけつ)されたのを見て極(きは)めて歡喜(くわんき)を起し、即座に身を帯(お)びてゐた澤山の寶物(ほうもつ)を解(と)いて御佛の上に散らして、
『願(ねが)はくば父が成佛した時、私も金輪王(きんりんおう)となつて、御佛(みほとけ)を供養(くよう)したい。み佛がお滅(かく)れになり給ふと、私をその後を承(う)けついで佛陀(ぶつだ)と成りたい。』
釋尊は、
『よろしい、きつとお前(まえ)の希望通りになる。』
と申されたといふことです。
(阿闍世王受決経より)
佛教お伽噺 その二 牛窪弘善 譯
盲人と象
むかしむかし印度(いんど)といふ國に一人の王様がありました。或る日のこと、お家来(けらい)にいひつけて一匹の象(ぞう)を牽(ひ)き出させました。そして大勢(おおぜい)の盲人をお呼び寄せになりまして、
『何だか當(あ)てゝみろ。』
とおほせられました。盲人どもはかしこまつてそろそろ象(ぞう)の體(からだ)を撫(な)で始めました。そこで王様は、
『どうだね、象という獣(けもの)は一體どんなものだ。』
すると象の牙(きば)を撫でゝゐたものは、
『象の形(かたち)は丁度、葦(あし)の根(ね)の様なもの・・・・』
と申し上げる。耳にさはつたものは、
『箕(みの)の様だ。』
といひ、頭にさわつたものは、
『石の様な形だ。』
といひ、鼻(はな)を撫(な)でまはしたものは、
『杵(きね)の様だ。』
といひ、脚(あし)をさすつたものは、
『いや、臼(うす)の様なものだ。』
といひ、背(せな)を撫でたものは、
『いやさ、床(とこ)の様だぞ。』
腹(はら)を撫でゝゐたものは、
『これは全(まつた)く甕(かめ)の様だ。』
尾(お)を撫でゝゐたものは、
『なんでも縄(なわ)の様なものだ。』
といひました。
盲人がいくら寄つてたかつても象(ぞう)の體(からだ)はどんな形(かたち)だか、ほんとにわかつて申し上げたものは、一人もなかつたのです。なぜわからなかつたかというと象(ぞう)という獣(けもの)は非常に大きくて一時にのこらず撫でまはす事が出来ないからです。
(涅槃経より)
通俗修験問答 - 抖擻(とそう)の二文字について - 藤井大瞋
問・・・ところで私共は家にゐて六根を清浄にするといふ事がなかなか困難(こんなん)です。といふよりは到底不可能(とうていふかのう)のことのように思ひます。ある意味において人間の世界は不浄の世界であります。かうした世界でその日を送るのに不浄を怖(おそ)れたり嫌(きら)ふたりしてゐては、たゞの一日も生きてはゐられませんが、この點はどうしたものでせうか。
答・・・さア、そこです。御説の通り人間の世界は不浄(ふじょう)の世界と観(み)ることが出来ます。併しながら如何に自分の周圍(しゅうい)が不浄だからと云つて、必らずしも不浄の生活をせねばならぬことはない泥(どろ)の中にも『蓮(はす)の花』の譬(たと)へがあるやうに、心がけ如何によつては立派に清浄な生活が出来ると思ひます。眼にもろもろの不浄を見て心にもろもろの不浄を見ず、耳に鼻に舌に乃至手に足にもろもろの不浄を聽(き)いたり、嗅(か)いだり、舐(な)めたり、觸(さは)つたり、それは不浄の世にすむお互として巳むを得ないとしても、心にまでそうした不浄の數々を映(うつ)すには及ばぬことでありませう。過去の七佛も『自(みづか)らその意(こゝろ)を浄うせよ』と繰返(くりか)へして御説きなされた。浄意(じやうい)の二字こそ佛門修道の第一義であると共に我が修験道の所謂抖擻の肝要(かんよう)でありますお山の戸はしまりました。これから戸あけまでの間はひたすらに常行抖擻の期であります。お互に精進しませう。
通俗修験問答 - 抖擻(とそう)の二文字について - 藤井大瞋
問・・・修験の道がさま佛さまを相手の道であつて、而(しか)も人道に悖(もと)らないものであるということは、朧(おぼろ)げながら諒解(りょうかい)されたやうでありますから、話を元へもどして、御説の常行の抖擻について、いま少しく詳しい御説明を願ひたいと存じます。
答・・・いや、その事は私の方からお話申しあげやうと思つてゐたところです。先ほど私は、常行の抖擻とは人間としての正しい道をふんでゆくことだと申しましたが、これだけでは常行抖擻の説明として甚だ不十分ですから、これから更(あらた)めておはなし申し上げますが、併し詳(くわ)しくと云つても、さう詳細(こまか)に説明しますと、却つて解(わか)らなくなるかと思ひますから、やはり概念(がいねん)だけに止めて置(お)きます。ソコで御質問の常行抖擻でありますが、常行抖擻とは要するに『懺悔(ざんげ)々々六根清浄』の一語につきるのであります。この一語を外(ほか)にして修験道の抖擻はありません。お互は不断(ふだん)に三毒五慾(さんどくごよく)の煩悩(ぼんなう)に災(わざは)ひされて、不知不議(しらずしらず)の間に多くの罪(つみ)を作つてゐます。その煩悩のために、この罪障(ざいしょう)のためにお互の心の鏡(かがみ)は常にくもりがちであります。元々お互の心の鏡はすつきりと澄(す)み渡つてゐたのですが、いつの間(ま)にやら煩悩の曇(くも)りが掛つて心の本體、鏡の正體を失つてゐるのであります。お互はどうしてもこの心の鏡にかゝつた曇(くも)りをはらひのぞかなくてはならない。でないと眞人間になれないのであります。如何に立派な風(ふう)をしてゐる人でも、その人の心の中は決して立派とは限りません。恐らく十人中九人までは明るみへ出されないやうな醜(みにく)い心の持主でないでせうか。これではつまりません。高祖大士はこうした人間相(にんげんそう)を憐(あわ)れと思召(おぼしめ)して、懺悔(ざんげ)々々六根清浄――抖擻修行の道をお聞き下されたのであります。故にお互は常に六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清浄にして、もろもろの悪業罪障(あくぎょうざいしょう)を懺悔すると共に、善根(ぜんこん)を積(つ)むことに努力しなくてはなりません。これ即ち常行抖擻であります。がお互は凡夫のかなしさに、慣(な)れると兎角(とかく)なまけ易い、故に時々別時の抖擻――高祖が微妙甚深(みみやうじんじん)の秘趣(ひしゅ)によつて御荘厳(ごしょうごん)下された大峰山などに登つて懶(なま)け心を鞭撻(べんたつ)すると共に、心の鏡を砥石(といし)にかける必要があるのであります。
通俗修験問答 - 抖擻(とそう)の二文字について - 藤井大瞋
問・・・さういたしますと、修験道の修行と世間の道徳とは歸するところ同じですか。同じだとすれば別に修験道の一門(いちもん)をたてるのは變ではありませんか。
答・・・これは又面白い御質問です。勿論修験の道は世間の人倫道徳に違背(いはい)せず、世間の人倫道徳は修験の道に悖(もと)らない。この點から申しますと、世間の道徳と修験道とは畢竟(ひっきょう)同じでありますが、同時にまたソコに違(ちが)ふ點があるのであります。御承知の通り世間の人倫道徳は人間と人間との約束事(やくそくごと)でありますが、修験の道は人間とさまとの約束事です。尤もこれは獨(ひと)り修験道のみに限つたことではなくて、凡ての宗教がみなそうでありまして、宗教の特色は實はこゝにあると云つていゝのであります。今一度繰返(くりかへ)して申しますと世間の道徳は、限りある智慧と限りある能力とを有する人間を相手の道でありますが宗教は全智全能のさまを相手の道であります。こゝに宗教の根深いところがあり、強味があるのであります。