天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月12日 18時15分23秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験の教風は民族信仰の進化

藤田

護摩の祈祷には甘木を焚いて一家の繁栄を希ひ、苦木を焚いて怨敵を退散せしめるといふが、その作法は今日でも伝はつて居りますか。

中村

三角の壇を作るのは呪の場合だといひますね。

宮城

今日では呪ひの祈祷といふやうなことはやりません。本山の護摩は宝祚無窮を萬民康寧を祈願するために、修行しています。

藤井

徳川時代には熊野御師といふものが地方的に分散してお札をもつて歩いたり祈祷等をしたりして生計を立てゝゐたものです。

中村

修験者も竈の浄祓をしたもので、全国的にそれぞれ縄張りがあつたらしいですね。

藤井

徳川時代における修験道の組織は本山派と当山派と多少違ひますが本山派では本山の下に院家、院室といふものがあり、その下に三十六先達とが年行事、準年行事などいふ役付の修験が居りさらにその配下に霞下といつて平修験がゐたわけで、そうした組織が自ら縄張りを形作つてゐたのでせう。

藤田

大体日本の民間信仰は浄め祓ひが中心となつてゐるもので、修験も結局はその類だらう。また今日の神道では手を叩いて神さまを拝むが、修験道でもやはり拍手する。これは民間信仰の儀式で、源に遡ればさうむづかしいものではないのだが平安朝以後、次第に勿体をつけて免許だとか皆伝だとかいつて事が面倒になつて来たもので、密教なども要するに儀式を秘密にするところから面倒になつたのだと思う。

宮城

お説の通り修験道の起りは一種の民間信仰に基礎を置いてゐると思はれますので、日本に未だ表面密教の渡来せぬ以前から修験道、この名は後のものとしても役行者によつて開かれた宗教は、古くから、それ独自の教風伝統を有し、諸国の山々に苦行練行したものと考へる、奈良朝から平安朝へかけての宗教は、教理が中々煩瑣で、むつかしく又正式の得度授戒等も中々困難であつたので、一般民衆はこれに近づくことが不可能の状態にありましたので、一般民衆として仏教の修行に入る人は諸国の山々に住んでゐた行者に近づき、その弟子となりそれより法をうけたものでこゝに修験行者と民衆といふものが固く結縁したと見られます。そしてその行者の儀式作法も天台、真言の影響を受けてからは一定の型が出来、やがて教団を結ぶに至り今日に及んだものと存じます。

藤田

それでその信仰生活における儀式が漸次民間の行儀作法にも転じ、他面儀式に用ひる衣裳法具神器等も一定されるやうになつて来たので、例へば慈雲尊者の神道目録にある神式作法の如き修験道の儀式によく似てをり天理教の儀式にも似てゐる。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月10日 18時48分05秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

本山修験と熊野大峰の関係

藤田

大体、本山派は贈誉大僧正が熊野三山の検校となりその修行が中心となつて勃興したのだと思はれる、平安朝には平城天皇や白川法王を始めとして、高貴の方々が熊野参籠によつて霊験を亨けさせられ事が多かつたので、自然熊野が霊地として一般に認められるやうになり、従つて役行者の信仰も盛んになつたものでせう。その後も白川天皇は九十度、後鳥羽天皇は三十三度熊野に御参籠の事があつて。益々高貴の御信仰を得ることになつたやうですが斯く高貴の方々が熊野参籠の志を起させられたのはいふまでもなく、深山霊峰には神秘のことが多く、殊に山伏の修行する護摩が悪疫を滅ぼし、怨敵を退散せしむるにいやちこな霊顕があり、更に皇家や貴族の繁栄を招来せしめたといふことが民間に伝はり漸次修験の信仰が盛んになつたものと思はれる。

藤井

その熊野に対する信仰は本山とか当山とかいふ派別以前からのもので、いはば修験道は熊野信仰をもつて発祥したといつてもいゝと思ひます。もう一つ突つ込んでいへば熊野の信仰は役行者以前からあつたいはゆる古有の民族信仰で役行者は、この民俗信仰と自分が体験された信仰とを巧みに融合されて、こゝに、熊野に対する新しい信仰が成立したと観るべきだと思ひます。

宮城

それから修験道では熊野と大峰山とを一つのものに観るのです。一般に大峰山といへば山上ケ嶽のことのやうに思つてゐますが吾々のいふ大峰山は吉野山から熊野に至る一体の山脈を総称していふので熊野も大峰であり吉野も大峰です。

新村

順の峰とか、逆の峰とかいふのはどういふことですか。

宮城

熊野から吉野へ出るのを順峰といひ、吉野から熊野へ向かふのを逆峰といひます。修験道では大峰に胎金両峰の曼荼羅を配置して、金剛界から胎蔵界へ向かふをの逆峰といひ、胎蔵界から金剛界に向かふのを順峰といひまして、この順逆は従果向因、従因向果といふ教理上の説明もつけれれるわけですが帰するところは因果不二で順峰も逆峰も同じことです。

藤井

昔は地理的関係で、熊野が表で、吉野が裏で」あつたのでせうが、今日では交通的に観て吉野が表で熊野が裏のやうになつてしまひました。しかしどちらが表でも裏でも大峰山そのものに異りはない。順峰といひ逆峰といひ、要するに因果の連鎖を意味するものでどちらでもいゝわけですね。

 新村

さう承ると順の峰と逆の峰がよく判ります。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月07日 20時14分35秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

在家仏教の先駆

藤井

大峰に対立する葛城には仏教渡来以前から道家の人が立籠つてゐたらしい。

中村

さうらしいね。雄略天皇が葛城山で鷹狩をせられた時長人を御覧になつたといひ、その長人は蓬仙に似てゐたといふやうなことも伝へられてゐるがこれなどは道教のことなんだね。

藤井

多武峰にも道教の観があつたといひますね。

中村

観は天宮のことで天を拝するところに名づけたものらしい。久米仙人がゐた久米寺も道教に関係があると思はれる。

藤井

醍醐の純浄観なども建物の名称としては他に例がない道教から来た名前ではないでせうか。

岩井

しかし観といふことは仏教ではやかましくいふのではないか。

藤井

勿論仏教の行法では観をやかましくいひますが建物を観と呼ぶのはおかしい。話が逆戻りしてまた道教が問題になつたが、私はどうも修験道といふよりも役行者の信仰には道教が混つてゐたと思はれてはならぬ。

宮城

密教は日本へ来る前に支那で道教と結びついてゐたやうですね。役行者は道教と結びついた密教を信じられたのではないでせうか。

岩井

要するに修験道は、天台、真言の教理が難解なところから平易を求めて一向宗が生まれたやうに、仏教渡来当時のむづかしい学問仏教を避けて平易簡易を求めて成立したのではないですか。

宮城

岩井さんの御説は御尤もで、修験道では役行者は聖徳太子の御精神を平民の立場で継承されたものとしてゐるのです。

本山執事 草分 氏

出家仏教ではなくて、優婆塞仏教、在家仏教が修験道の本領ですから、その点は真宗などゝ形が似ています。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月03日 16時16分01秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

大峰山黄金説

大阪府立女子専門学校教授 魚澄惣五郎 氏

一体大峰山に黄金があるといふ考えは古くからあつたように見受けられます。昔の人は石の在る処には必ず金が在ると信じて居たらしいです。

宮城

聖武天皇が大仏を御鋳造になる時、行基が金を求めて大峰に登つたといふ伝説があります。

藤井

金峰山とは何時頃から云つたのでせう。峰と山を重ねたのは変ですね。

中村

仏教では金(キン)を大概の場合(コン)と読ましてゐるから金峰山の名称には仏教の影響はなさうですね。西洋の錬金術といふのは不老長寿と関係があるのではないですか。

富田

西洋では昔、小便から黄金がとれると考へてゐたやうです。錬金術と不老長寿とは関係がないでせう。

岩井

とにかく金は尊いものにきまつてゐる。金光教でも金の字が光るから流行するので、御幣でも、紙よりは金の御幣がありがたさうに見へる。神さまでも仏さまでも資本主義だよ。(笑声)

中村

山から黄金が出るといふ考へは印度、支那方面にもあつたやうですね。

藤田

山から金が出るといふことは古来印度でいはれて来たことで彼の須弥山を中心とする東西南北、至る処に金が出たと伝へらる。また須弥山の裾を流れる川の下流南膽部洲(なんせんぶしゅう)にもやはり砂金が出たと云はれてゐる。日本でもさういふ考へをもつてゐた時代があつて、昔江戸の人は富士川の上流六十里のところに金山があると信じてゐた。これは富士山を金山だと信じてゐたやうです。

岩井

その金は黄金ではなくして所謂あらかねの意味なんでせう。しかし、金峰山の金は黄金に因むだ名称ですか。

宮城

その辺は明瞭ではないやうです。

三高教授 阪倉篤太郎 氏

金液丹といふ昔の薬は鳥がこれを呑んで仙人になつたといふ伝説がありますが、ともかく黄金は結構なものに違いありません。(笑声)