天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第九十六号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)④ ―週刊朝日より転載―

2013年06月30日 09時09分51秒 | 座談会

大台ケ原今昔

大道

私が大杉谷から宮川を下つたのは大正時代ですが伊勢から大台には絶対行けぬと云つてをつた。藤木君に聞いて見たらそれより先に行つたものがないと云ふので、大正五、六年だつたが、大杉谷(おおすぎだに)に猿が沢山居る。小学校に遊びに来るといふので、それを見に行かうといふので、猿に釣れられて行つた。若い時で二十代です。それから大台ケ原に行つた処が頼倫候(らいりんこう)が見えた。それから行者に相談し、頼倫候は私は行かないが貴方は若いから是非行きなさいと勧めるんです。それから案内人は巡査を探して来てくれて何とか音吉といふのが一番いふので、これを連れて行つたんですが、丁度伊勢の宮川の三瀬谷村といふ処から青年が来てをつた。二十五、六でしたが、それが矢張り吉野の方から汽車で廻つて来たんです。その男も子供の時から宮川の上流千尋(ぜうりうちひろ)といふ処に行くと魚を手掴みにできるといふのでそれを見たいと思つてゐたが、絶対に危ないからといつて登らせなかつた。そういふ処だつたから、私は命がけでお供をするといふので頼倫候にお別れをして大杉から下つたんです。道では山蛭が落ちて来る、ぼたぼたと、どこにでも落ち、虻もゐる。それには弱つた。それで宮川をあつちこつちと五回渡つた。千尋谷はなかなか広いのです。それを渡つて行くrと今度は山蛭が落ちて来てね。こゝら中真赤になつて・・・。

 上平

蛭(ひる)の多いのは大杉谷でこいつは天然記念物といつていゝほどゐるんです、人の臭をきいて初めてのものには落ちないが二人、三人目に沢山落ちて来るんです。

江崎

小さい普通の蛭を半分に切つた位のものだが、襟の辺からでもどこからでも落ちて入つて来て、血を吸ふと丸くなつて落ちてしまふ。

大道

木の上から落ちるんです。

江崎

樫の木に多い湿気のある処にゐるんで、あれに吸はれる時はちつとも感覚が無い後で痛痒くなる。

大道

私は二番目に行つたもんだから落ちて来る、さうすると三番目の人がとつてくれるんです。笠の大きいのを着ていたから。

江崎

誰たつたか局部をやられて褌(まわし)を真赤にしてゐるのがあつた。

大道

其代(そのかは)り岩魚等(がんぎよとう)は沢山をつて手掴みが出来た。それを塩焼きにしてくれるんです。私の行つた二日目か三日目の晩に小屋にお爺さんが一人番をしてゐるんです。其時分(そのじぶん)に七十幾つでしたから今居つたら百位ですが、その小屋に少し時間は早いが音吉が泊らうといふので泊つたが、ご飯を焚いてくれるのに言葉が判らん、音吉が通訳をしてくれて寝させてくれたが、丁度若い衆が来てをつて、山から木の枝で虻をはきながら下りて来た。さうしてその晩にお客様が来たといふので、盆踊りの稽古をして見せてくれた。偶然翌日はその若い衆も帰るといふ日だつたが、鈴木主水(すゞもんど)の歌を唄つて盆踊の稽古を見せてくれた。翌朝は早く立つてそれからお爺さんが何もないがといつて山から蕗(ふき)をとつて来て、自分の手製の鰹節を削つて煮てくれたりししましたが、たつ時に、これから滅多に会はんだらうが達者でをつてくれといつて小屋を出て我々の見えんやうになるまで表に立つてをりました。伊勢へ下り大西源一君の処に行つてあれを下つて来たといつたら嘘ぢやといつて承知しよらんのです。現に行つて来たといつて証拠を見せた。あの奥の神社でとつて来た慶長の年号のある湯釜の拓本を見せた処がそれに参りよつたです。大杉谷は平家の落武者(おちむしや)がゐたといつてその名が渓々(たにだに)に残つてゐますね。

江崎

船津(ふねづ)といふ処に楠三郎兵衛といふ人が行つてをりますね。

大道

いろいろと面白いお話を有難うございました。

(をはり)


修験第九十六号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)④ ―週刊朝日より転載―

2013年06月29日 07時44分16秒 | 座談会

設備とガイド

藤木

女人禁制は別としても、今まで大峰は沢山の人が歴史的、宗教的の気持で登つてをりますが新しい人々を引付けるのは歴史的の気持よりも山の設備とか何とかいふもので、さういふものをだんだんやつて頂きたいと思ひますも少し小屋も、天幕張りも開いて何とかしてやらなければ。それに案内料が高いですね。実際いふと。

上平

案内については登山客からさういふ風な非難もありますので、大軌電車ではガイドを養成することになりまして一昨年からかゝつてゐます。吉野郡内の町村長の推薦によつて二十二、二十三から二十六、七までのものを先ず三名とつたんです。それを新しい意味のガイドとして養成して行かうぢやないかと今やつてをりますが、まだ完全に何処へでも案内出来るといふ処までいつてをりませんので、宣伝もしなければお客様に挨拶状も廻してゐませんが、実際はさういふ心持でやつてをります。

藤木

ガイド制度の確立といふことを国立公園でやつて貰いたい。

坂田

質の悪いといふのは改善出来ますが高いといふのはいつも町村長なんかに相談すると、ガイドをしなくても他に其の位の収入のとれる仕事があるといふんですから、それを止めてまでといふ訳にも行かず、兎に角他の山の仕事をすればガイドをする位の収入があるといふのですがね。

上平

現在私の処では俸給を渡してお客様の御希望の有る時だけお伴をして、お客様から頂いた分は俸給に差入れするやうにやつてをりますが、一日二円です、二円なら高くないと思ひますが。

藤木

それぢや高くはない。

江崎

本当に吉野の方も洞川(どろかわ)の方も人が悪いよ、土産物でも五十銭のものでも我々が買ふと一円も二円もとる。

藤木

大台教会(おおだいけうかい)では不十分で、あそこに本当のホテル、観光ホテルのやうなものが建つといゝと思ふが。 

坂田

計画は出来てゐます。かう云う時局で延びてゐますが、これは出来ると思ひます。

上平

私は大台には新しいものをやつて、大峰に雅びたものでなければいけないと思つてゐますがね。

 


修験第九十六号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)④ ―週刊朝日より転載―

2013年06月27日 08時03分53秒 | 座談会

禁制の区域

成瀬

犯すとか犯さないといふ様な言葉が出るといふのは、女の中に山の尊厳を傷つけるやうなものがあつたからでせうが、私共本当に山を愛するものは、山に入つて山登りといふことよりほかは、アルプスに入つても何処に行つても、男女の性別といふやうなものを感じたことがございませんけれども。

上平

男のものでも、私の知つてゐる或雑誌をやつてゐる人ですが、婦人を連れて行つて俺が第一に女人禁制を破つたと堂々と発表するんです。かういふ破らんが為に破るといふやうなことはどうしても賛成出来ぬ。自然に山に対する愛着から破るつもりではなかつたが、登つたといふやうなのは別ですが雑誌の種にする為にやるといふやうなことは排撃しなければならぬ。

藤木

七月一日から十日間は女に登らせぬとか、お祭りの所謂山開きのほかは登らせぬとかいふやうにやつてゐる処もありますね、期間で制限してゐる。

江崎

機関とか区域で制限するのはいゝですが、高野山のやうに解放してしまふことはいけないと思ふ。

上平

招来は何とかしなければならぬ問題が起つて来ると思ひます。私は大峰山から二キロの小篠(おざゝ)の間、大峰山だけを切離してしまつて、新しい登山者のためには裏側の方が吉野から登る道よりもずつと魅力のある道ですから、それだけを切離して小篠辺から南の山は公然と解放して頂いて婦人団体も行ける、さういふことで妥協するのが一番いゝんぢやないかと思ふ。

大道

行場は附近にないですか。 

上平

行場のやうな岩場はいくらでもあるんです。それで大峰の行場は纏めて禁制としても決してそのためにあの山の価値といふものを減しない。大峰山の本堂にお詣りが出来ないといふことだけが問題ですが。

宮城

私は婦人を侮辱するとかせぬとかの問題でなくて、この有難い日本の男とし女としての本分とか分際とかいふことで解釈して居ります。われわれ修験道におきましては夫が峰入をすると妻がよく留守を守り家でもちやんと潔斎して慎んで待つてゐる、これが何も男が女を侮辱した行為か何かでは決して無いと思ひます。修験道の坊さんも肉食妻帯してゐます。男女其の分を守る美風といふものこそが日本の家庭としての良俗であると思ふ。 かういふ考へから千何百年から女人禁制をしてまゐつたといふことは識者も認めて下さるだらうと存じます。


修験第九十六号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)④ ―週刊朝日より転載―

2013年06月22日 16時46分09秒 | 座談会

女人禁制論

歌人川田順

この頃女人禁制(によにんきんせい)といふのはどうなつてゐます?

聖護院門跡執事宮城信雅

昔のまゝに女人禁制を守つてゐます。

川田

それについてもおもしろい事がある。大峰道(おおみねみち)のどこかに黒門の関所があつた。昔の関所です。明治四十一年でしたが、そこに私共通りかゝつた時に、洞川(どろかわ)の方から女人達がやつて来た、男が一人、女が五六人です。そこで止められたが、若い山男が入つちやいかんとかうやつた。そうするとそこで議論が始まつて、日本中で人間の行けない処があるかといふやうな理屈をいつた。女だつて日本の国民ぢやないかといふやうなことを云つてゐたが、さうするとその若い男は、千年の昔から女の入つたことのないお山だ、それをお前達が初めて穢(けが)すのである、入れるなら入つて見ろといつた。どうなることかと見てをつたら、その女連(おんなれん)はすごすごと帰つて行つたです。

登山家(大軌社員)上平辰雄

今も完全に行われてゐるのです。

川田

どう云ふ具合だつたかその連中は忽然(こつぜん)として現はれたんです。

登山家(大朝社員)藤木九三

男装して入つたといふものがあるんぢやないか。

登山家(堺高女教諭)成瀬春野女史

それは聞きました、大阪の芸者なんか連れて行つた人があるといふことで。

宮城

男装でもして登つたものは絶対にないとも云へんでせう。

奈良県観光課長坂田静夫

その大阪の芸者は裏道から登つて止められたのについて行きたいといふので、知らん間に小篠(こしの)まで行つた訳です。その時新聞にも出たやうに思ひます。

宮城

それを説得して帰つて貰ふのに骨が折れたと聞いてゐます。それで勿論上までは登らなかつたのです。

上平

処が弥山(みせん)などには登つてゐる女性もある。それでさういふ区域を決めて、はつきりすることが必要ぢやないかと思ふ。

宮城

私はかう思ふ。宗教的伝統からいふので、理想的としてはあの辺もずつと禁制にしたい。併(しか)し罰則がある訳でもない無理に登るのは仕方がない。法律でさへ無理に犯せば犯すものがあるんですから、けれども建前としては、あの辺もずつと女人禁制にしたい。行者の道筋でその目に止まらなければいゝと思ひます。

林学者江崎政志

一定の区域を限つて行場などはいかぬといふことにして・・・・。

宮城

道全体が行場といつてもいゝ位ですから、俗の見方ではどうか知りませんが、大峰に女人を登らせないといふことは大きな特徴であつて、宣伝価値といふとおかしいですが、そこに価値があると思ひます。

国立公園管理者 露木憲治

女の人に対しての一種の侮辱ですね。

成瀬

女の方が登られたことについていつか新聞社の方が私の意見を聞きに見えたことがございますが、私共の考へと致しましては、女が乗込んで行つて折角の御修業を妨げるといふやうなことは、山を愛するものとしてはそういふことはないと存じます。一種の職業婦人にはさういふことがあるかも知れませんけれども、私達本当に山を愛するものゝ気持と致しましては、道場といふやうなところもこめて頂いて、女でもこの辺りまでは差別ないといふやうなところを作つて頂いたらと存じます。

露木

しかし女が一人だつたらいゝぢやないですか、何も遠慮することはない。

藤木

今のお話のやうに夫婦連れ、一家族が一緒に登つて、上で女の行場、男の行場と分けるのも一つの方法はさういふ風に行くべきぢやないですか。

上平

今のところ別に婦人団体から開放を要求されてゐるわけでもないから、日本でこゝ一つしかないので、こゝの女人禁制を解いたら、さういふ山が日本に全然なくなる。

藤木

男だけの山があれば女ばかしの山もこしらへなければいかん。

上平

犯すとか犯さないとかかういふ言葉を使はれることが登山家としての女は非常に侮辱されるやうに感じられるんぢやないかと思ふ。

 

 

 

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)③ ―週刊朝日より転載―

2013年06月19日 08時12分49秒 | 座談会

北山方面

川田

大峰から、北山を下り瀞八町に出られますか。

上平

それは出られますが山と谷を同時に見る訳です。

藤木

この辺に狼(おほかみ)がをるといふことですが今でもゐますか。

宮城

去年かういふことがあつた。岸田さんと一緒でしたが、八経ケ岳の麓で狼の糞を発見したんです。狼のゐるといふことは聞きますが姿を見ない。処が糞を発見したので岸田さんも喜んでをられましたが、その糞には骨と毛が丸くなつてゐるんです。これは狼の糞より他にないさうです。狼は住んでゐるらしい証拠がある。

坂田

国宝的糞といつてましたよ。

川田

北山川に沿うて瀞 (どろ)に下るまで幾日かゝります。

上平

第一日は大台(おほだい)、第二日も大台に一泊、第三日に大台から川合(かはあい)に下りて小口まで自動車で行き、第四日には瀞八町を越えて新宮に出られます。

川田

大阪を出て帰るまでに一週間で足りますね。吉野川を上つたら景色がよささうですね。

露木

私は八時頃に出てゆつくり行つたんです。初めての女の子女学生を二人連れて行つたので、下の方から自動車で行つて七時頃に大台教会(おほだいけうかい)に着いたです。足の弱い人でも楽ですよ。

上平

大台教会へは伯母ケ峰峠から新しい登山口として紹介しております。十三キロ三〇です。入(しほ)りの波道(はどう)は十七キロ二二〇、その間八キロばかり吉野川の上流は割合平坦な道です。それから約三キロ半が急な上りになつて、それを登ると大杉谷に入る。大台辻が三重県と奈良県の国境ですそれから五キロ余り行きます。それは割合平坦です。退屈なのは三キロ半ばかりです。

露木

下駄で行けるのでせう大台ケ原は、

川田

北山川は筏(いかだ)の通る谷ですか。 

上平

筏は一昨年辺りまで余りお勧めしなかつたんですが、

藤木

登山者の為に現在小屋のある処は?

上平

先ず片つ端から挙げますと大峰山上一般すが、それから二キロの小篠(こざさ)、これは一番水の豊富な処で、これと行者還(げうしやがえし)しかありませんが、小篠の水が一番立派です。それと小屋は今度行者還、その次は弥山(みせん)の参籠所、それからずつとなくて前鬼までないです。その間に楊枝宿(やうじゆしく)辺りに何か簡単な避難所でもこしらへたらいゝと思つてゐます。


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)③ ―週刊朝日より転載―

2013年06月09日 13時01分27秒 | 座談会

群山の渓谷

大道

今度は藤木君に登山家の見た大峰の話を一つ願ひます。

藤木

私は余り大峰自体をよく知らない。国立公園として今後登山家を迎へる施設が何か、坂田さんあたり御計画がありますか。

露木

今は管理だけしてしてゐましたね、事業の行は予算の関係で何もやつてないんです。それで協会とか大軌とか、さういふ処の開発を待つより仕方ないので、今後何年かで徹底するか見当がつかぬ。

藤木

先刻大峰大台は山林の山であり岩の山であると申されましたが、そういふ意味からいへば日本屈指の処だと思ひますし、特徴をもつた処ですが、私も一つそれに加へて渓谷美も日本一だと思ふ。また海岸の紀州方面のお話もあつたが、いはゆる秩父古成層を流れる渓谷といふものは一寸他ではこれだけの処は少ない。従つて水も綺麗だしいはゆるはことが廊下とかゞあつて、それの大きくなつたのが瀞(どろ)で、あらゆる水の形、姿の美しいこと、いろいろのものをもつてゐる。特に渓谷美では北山川、吉野川の上流方面は立派なものをもつてゐる。最前お話の北山川下りなど他にもさういふものがないでもないが、非常に変化に富んでをつていゝ。 

上平

大体この国立公園の吉野群山といはれてゐる処ですが、昭和十年辺りから、阪神の代表的登山団体は例年渓谷ルートの征服といひますか、さういふことをやつてゐるんですけれども、それに参加される方には概してお年寄が多いんですがね。さういふ方は矢張り山よりも渓谷と仰言やる。大体渓谷と申しましても本当のエキスパートの狭谷と、半分遊覧といふ峡谷とありますが、北山川は後者に属します。探検に属する方では先づ大峰山を中心として、弥山川、川迫川、前鬼川なんか有名です。処が大台を中心にしたものは、峡谷としましては大杉谷と東ノ川とがありますが、どちらかといふと大台を中心にした方が規模が大きい。東ノ川といふのは南に流れてゐるので非常に豪壮な内にも明るい。大杉谷は非常に珍しい形の瀧が多いのです。さういふ特徴をもつてゐる。殊に一般に大台ケ原として知られている大蛇(だいじやぐら)から西瀧中瀧、千石邊(せんごくぐらほと)りの谷を底から眺めた豪壮さといふものは他には一寸ない丁度蝋燭を立てた様な岩や、茶壺岩といふやうな岩が立つてゐる。大台の東側に面した岸壁の内に一つ千石といふのがあります。昭和十一年に私共そこを通りました時には、恐らく大阪ビルを二十位も合せたやうな大きさだろうといつてましたが去年大台教会から簡単に行けるやうにコースを作つたのですが、その上に私は道標を立てに行つた時、試みにどれ位の高さがあるか石を投げて見ました。岩の上から木につかまつて石の行方を見てゐますと、下に落ちた音は勿論聞こへませぬが、下の(とが)に当つてその木の葉の動くまでの時間を計つて見ますと、早いので九秒、遅いのは十一秒位かゝります。以て如何に大台が大きいかといふことが判りますが、先ほど大峰は岩の山、大台は樹木の山といふお話もありましたが、山の上はさうですが下から眺めると決してさうでない。大台の方が新しい岩登りの道場は幾らでもありますが去年は下市から洞川に行くまでに川合といふ処がありますが、川合から入つた八丁磧(はちてうかわら)にキャンプをしましたが、こんな気持ちのいゝキャンプは初めてゞした。仏法僧の声を聞きながら寝て、早朝そこを立つて弥山の小屋に泊まる予定で、食糧なんかそこから川合に返してしまつて、それから弥山川の谷を登ります。ザイルを上からずつと前日に下げて置いて、それを使つて登つて初めて成功したのでありますが、十八人のパーテイでしたが、五十尋位(ひろぐらい)の綱を使はなければならぬ処もあり、それを越えるに一人に五分も七分もかゝつたりして予定通り弥山に着けなかつた。弥山から川合の方に下る道に打つつからなければならぬのに、幾ら行つても判らない、日は暮れるし途中で泊まりましたが翌朝山の方に二三丁登つて見るとその道があつた。それを登ると支流との合流点があつた。支流に入つて行つたので本流の方は覆流(ふくりう)になつてゐて草などが茂つて谷があるといふことが判らなかつた。それでさういふ失敗をした訳ですが、弥山川なんかも新しい意味の非常に面白い処と思います。北山川の方はこれと比べると大変のんびりしてをります。


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)③ ―週刊朝日より転載―

2013年06月08日 08時39分55秒 | 座談会

前鬼と後鬼

大道弘雄週刊朝日編集長

今日は、前鬼山(ぜんきざん)の森本坊(もりもとぼう)さんが来られるはずでしたんですが、

歌人川田順

前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)の区分はどういふわけで、

聖護院門跡執事宮城信雅

役の行者が鬼のような猛悪のものを済度されて弟子として起居を共にしてゐれれたのですが、その後役の行者が大島に配流され許されて帰られてまもなく、大峰山を去つて摂津の箕面山で姿を隠された。その時役の行者が遺言をして、前鬼後鬼に、前鬼山に留まつて大峰を守れ、通行の修行者に便利を与へてやれと云ふやうなことで、あそこに留められた。それに五人の子供があつたと云ふことで前鬼といふのは男で後鬼といふのは女ですが、この五人の家が五軒あつて其姓がおもしろい。五鬼継、五鬼助、五鬼熊、五鬼上、五鬼童といひ、それぞれ、森本坊、小仲坊、行者坊、中之坊、不動坊の五ケ坊を持つてゐたが、今は、森本坊と小仲坊の二つしか残つてゐない。非常に不便なところで人里に出るのに三里位はある。

登山家上平辰雄

正確にいふと三里はありませぬ。前鬼口まで八キロ六二七メートルです。 

聖護院門跡執事 宮城信雅

非常に不便で一寸郵便局まで行くのに五里位あります。そこに二軒、麓に一軒あつて三軒で一字をなしてゐる。吉野郡下北山村字前鬼といふ。三人の内に区長さんが一人ゐるわけです。さういふ昔からの長い伝統をもつた家で今日まで二軒留つてゐますが、子供の教育とか結婚、病気とかいふ時には随分困る。子供は他所に預けてゐるといふことです。

林学者江崎政忠

私は洞川の陀羅尼助を絶やしたことがない。富山の萬金丹はキハダの皮を粉にして入れてゐるが、陀羅尼助はあれのエキスだからいゝわけだ。 

宮城

五鬼助の祖父さんが死んだ時に始めて医者を迎えたが、それまでは皆天然の薬ですましてゐた。尤も医者の来た時には死んでをつたといひます。死んだら診断書が要りますからね。

川田

陀羅尼助といふのはどういふことだろう。

宮城

陀羅尼助とは仏教で仏の真言の事ですから、仏の真言でたすけるといふんでせう。 

登山家藤木九三

普通だらすけといつてゐますね。

江崎

竹の皮に包んだのより丸薬の方が飲みよい。

大道

五鬼継君は何歳ぐらいです。

宮城

もう四十位でせう。五鬼助君の方はまだ二十七八ですが、どうぞ永久に守つてくれゝばいゝがと思つてゐます。いゝ場所なんです。南を受けて、田畑もありますし水も豊富で暖かいし非常に気持ちのいゝ処せす。

国立公園管理官露木憲治

前鬼の紅葉は国立公園で一番いゝです。

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年12月15日 08時29分19秒 | 座談会

西行の和歌

大道

川田さん、吉野朝の歌に大峰に関係あるものがありますが。

歌人 川田順 氏

国立公園を歌の方から見るとかういふことになるでせう。萬葉集邊りには吉野山といつても主に川岸のことですから抜きました。先ず考へられるのは西行なんです。西行は逆コースをとつて峰入りして、那智の瀧にも泊まつてゐます。吉野山の名歌もいろいろありますが、西行の吉野の歌といふのは非常に有名で、一ツのグルッペが出来てゐるほどで、大峰にどうして来たか、奴さん―といふと友達見たやうで失礼ですが、あの人のライフの中期三十から五十位の間は高野時代といつてをりますが高野にもをつた。高野から吉野に来て、峰入りもしてゐます。今のお話の小篠とか行者還とか弥山といふやうなことも西行の歌の中に出て来ます。至るところで歌は詠んでをりますけれ共、歌としてはよくないです。兎に角、あれだけ偉い人が熊野から逆コースの峰入をして歌も大変多い。次には吉野朝の歌が出て来る。それからずつとありませぬ。そして幕末に一人出てくる。これは北山川の方をずつと歩いていた。紀州候の藩命を受けて和歌山藩の加納諸平といふ人が、紀州風土記を書いた。この人は再三峰に入つた。その熊野の歌といふのが有名です。七十首位あります。優れた歌です。旅行記です。それだけ歌の方から行くと国立公園に関しては大体三つに出てくるわけです。

宮城

行尊僧正のも二つ三つありましたね。

川田

さう云ふのは純文学としては問題にならんです。宗教の人としては別ですが、とても西行、吉野朝、諸平の歌などと比較にならぬです。

江崎

大台ケ原は吉野山、宮川、北山川の三つの川の水源地で、風の吹き方で水の出方が違ふといふが、大台には何か歌があつたやうだね。

川田

吉野川の伝説ですけれ共今の話で思ひ出すのは、 

   吉野川その水上をたづぬれば

     むぐらの摘萩の下露

といふ歌で、非常に山の奥の景色が分かる。それよりいいのは幕末の人で大隈言道といふ人が歌つてゐる。

   時の間に木草の滴おち合ひて

      風にもまさる紀の川の水

今のお話の風の吹方によつて川の流れ方が違ふといふやうなことがよくわかる。如何にも吉野川らしい。加納諸平の歌には巴が池といふ長歌がある。それは伝説ですが、巴が嶽といふのがあつて、これは大台原にあたるでせうが、そこから北山川、吉野川、宮川と三つ出てゐる。それは徳川時代のことですから神秘的に、巴が池といふのがあつて水が巴に廻つて、一つは宮川に、一つは吉野に、一つは北山川に出てくる。その巴が池のある巴が嶽の歌といふのがあります。いい歌です。加納諸平の、いろいろ他に沢山ありますけれども、文学としてはこの三つ、西行、吉野朝加納諸平で、あとは問題にならぬ。

宮城

西行の歌を二ツ三ツ

川田

いゝ歌があります。峰入の、私は一寸覚えてをりませんが、かういふやうなのもあつたと思ひます。

   山ふかくすみたる月を見ざりせば

      思出もなき我世ならまし

少し違ふかも知れません、西行の山家集でお調べ下さい。怒田の宿、平治の宿といふやうなこともでてゐます。さて西行がここに来たのは、あの人は大体坊様になられた時は真言仏教です。それで高野の御坊に非常に参詣してゐます。大峰に来たのは道楽で歌を詠みに来たのぢやない。どうも修業らしい。吉野山ならぶらぶらと花を見に来たといふこともあるが、こつちは荒修業なんで。

大道

武士の果だからつよいんだらうね身体は、

川田

只の坊主ぢやない。

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年11月07日 08時22分58秒 | 座談会

山上の役講

大道

役講といふものを説明して下さい。

宮城

それについて大峰山の本堂といふのは共同管理の仏堂であつて寺院ぢやない。麓の村の吉野、洞川の両村が関係して、その両村に五ケ寺があつて、それが勤番寺院となつてお守りするわけです。そして春秋に戸開式、戸閉式といふのがありまして、五月八日に開けて九月二十七日に閉めます。その期間大峰山の本堂に下の村から出張してをります。その戸開、戸閉に立会ふ役をする講がある。それが役講で八ツあります。その役はいろいろありまして鍵をあらためる役とか戸を開ける役とか、いろいろ年番で奉仕するんです。それで、さういふ役をするために相当大峰山に勢力をもつてゐるといふわけです。

大道

世襲ですか、すいふ役をする人は。

宮城

講は決つてゐますが人は変わります。

大道

先達といふのと関係ありませんか。

宮城

先達はその講以外にも沢山あります。何千、何百と講はありますが、その内八ツだけが役をする。

林学者 江崎政忠 氏

一つの講に何人位ありますか。

宮城

それは盛衰がありますから時によつて違います。役講は大阪、堺に決つてをります。

大道

汽車に乗ると若い子供まで連れて沢山乗りますね山上参りが、あれは役講と関係ありませんか。

宮城

関係あるのもあれば、ないものも沢山あります。

大道

今迄一番多いのは一人で何遍位山に参りましたか。

江崎

百度とか百五十度とかいふ石が立つてゐますね。

奈良県観光課長 坂田静夫 氏

今の五ケ寺といふのは昔からあつたんですか。

宮城

昔は此外にも沢山の寺がありましたが、五ケ寺が護持院として決つたのは維新後です。

坂田

洞川といふ道筋も昔からあつたんですか。

宮城

あつたんです。

江崎

これはずつと大昔からあつたかどうか分からぬが、少なくも高野山が開けてからは、相互にお参りをする。その道たつたらう。

宮城

徳川時代に宮様がお詣りになつた記録もありますが吉野から登つて大峰の小篠に一週間滞在された。その間に洞川に下つてまた小篠まで帰られたやうに見えてをります。

大道

熊野行幸といふのはどういふ道を行かれたんですか。

宮城

海岸です。

大道

山に行かれたのもありましたね。

宮城

白河上皇など行かれたことは伝へられてゐます。

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月22日 18時48分08秒 | 座談会

行場の意味

大道

峰入りの人数はどの位と決まつてをりますか。

宮城

決まつてをりませぬが、余り沢山も困ります。現在のところ、大峰山上までは相当設備がありますが、それから奥は五十名位がよいところで、百名にもなれば困ります。

大道

三宝院さんの方はとは道が違ふんですか。

宮城

三宝院さんは山上の小篠から引返されます。

登山家(大朝社員) 藤木九三 氏

行場といふのは特に設けてゐるわけですか。

宮城

身心鍛錬のためです。

藤木

特にお籠をして行をするといふことになるのですか、矢張り峰入りの時お通りになるといふわけですか。

宮城

峰入りの時に行者が特別に修行をするんです。道筋にあるのもありますけれども、特別に入込んで行をしなければならぬところはそこまで修行にいきます。大峰山、前鬼山に裏行場がありますが、さういふところは特に修行に入込みます。

藤木

私は皆様にお尋ねしたいんですが、岩登り、山登りといふ特殊なものがあるんですか、役の行者が特にさういふ岩登りのやうな危険な場所を選んだといふのも、日本特有のものぢやないか、外国で岩登りがありますが、これは百年も経たない。日本は千年以上前から役行者時代に修行のためにさう云ふものが出来てゐる。私共岩登り、スキー登山といふものを近代的登山といつてゐますが、千年も昔からあつて、子供なんかも足付、バランスをとることも自然に覚えてゐるのに系統的のものはないのでせうかあの岩に登るのに特殊の岩茸採りなど、いろゝ網など使うつてやつてをりますけれ共、それは別として登山といふことから大峰山といふことになつて来ると、昔からの道場となつてをるが、只修行道場といふと、人里はなれたどつちかといふと隠遁的な気持の様ですけれども、実はファイチングな気持で全精神肉体を山に打ちつけてて行く、そこに一つの光明を見出すといふやうな鋭い気持が、日本には、特に役行者にはさういふところがあるやうに見られるのですが、近ごろの体位向上運動、ハイキングといふやうなことが叫ばれてゐる時代に、この困苦欠乏に堪へるといふことをずつと続けて行き、肉体、精神を山にぶつけて行く、そこの気持、そういふ気持であゝいふ行場をこしらへられたことゝ思ひますですけれども、岩登りの技術とかいふ方面に特殊の記録とか何とか伝はつたものはありませんでせうか。

宮城

技術的の記録は知りませぬが、あの瞬間の気持は全力を持て岩にぶつかつてしまひますから一切の雑念を離れる。利己心もなくなる。只仏に委してしかも自力と他力と一つになつたところ、その境地に立つ。さういふ意味から殊さらにあゝいふ恐ろしいところも選んであるのでせうが、しかし、あの危険なところはちやんと今日まで、この岩はかう登る、この角はかういふ風にして廻るといふことが決まつてゐるんです。手足のかけ方、廻り方といふやうなものは伝統的に決つてをります。先に右の手をかけるべきところを左の手をたけたら右の手がかけられぬといふやうなところがあるんです。

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月22日 12時53分14秒 | 座談会

順逆の峰中

歌人 川田 順 氏

順・逆といふのはどう云ふのです。

林学者 江崎政忠 氏

熊野の方から入るのが順ぢやなかつたんですか。

宮城

さうです。あれは大峰連峰全体が一つの宗教的意味をもつた山になつてゐるので、曼荼羅と云ふものを大峰山に配当してある。曼荼羅といふのは専門的には六ケ敷い解釈がなされてゐますが要するに多くの仏様が系統的に集まつて、道理と知恵の備はつた姿を云ふのです。その曼荼羅に両部あつて、一つは胎蔵界の曼荼羅、一つは金剛界の曼荼羅であります。熊野の方面は胎蔵界で、釈迦嶽の手前に両部分けと云ふ処があり、そこまでは胎蔵界、それから北、大峰吉野にかけてはこれを金剛界に当てゝあります。これを因果に分けて因曼荼羅、果曼荼羅とも云ひます。或は道理と知恵の二つに分けて胎蔵界を道理、金剛界を知恵かういふ風にも分けます。道理があつて知恵が開発して行くといふので、因から入つて果に向へば順であり、知恵から道理に――果の方から因を探るのを逆といふのであります。その間に、あの峰々に諸仏諸尊がお祀りしてある、それで釈迦嶽とか大日嶽、普賢、弥勒と云ふやうな名前が付いたわけです。それで山一つを諸尊といふ風に眺めて行くものですから、修行をしながら、低い人間の世界から段々高い仏の生活に進んで行くといふ観念も生れて来て、その間に、十界修行と云つて凡夫の世界から仏の世界までの修行をして行くのが修験道の峰入と云ふわけです。

江崎

七十七ケ所あつて、七十二靡といつてをりますね。

宮城

七十五ケ所あるんですが、吉野川の柳の宿が一番終りになつて、それから那智山までゞすが、その間の峰の両側八丁をなびきといひます。これは役行者が歩かれた道筋で、法力に草木もなびくといふ意味かと思ひますが、なびき八丁といふのは昔から禁伐になつてをつて、

   峰入や宮も草履の旅路かな

と宗因も歌つたやうに、宮様の峰入りにも決して道筋に手を入れさせなかつた、樹木を伐ることを禁じてあつた。笹原も刈口を打ち叩いて怪我せぬやうにしてをつた。よく山を保護したもので、それであの両側の原始林が割合に保存されてゐるのもそれらが原因してゐるんだらうと思ふのであります。

奈良県観光課長 坂田静夫 氏

昔から八丁といつてゐますが、両側四丁位と思ひます。

江崎

山全体が原始林だね、あれは大部分原始林として残して置きたいね、植物の方からいつても。

宮城

山上ケ嶽から前鬼山に行く間は特別に原始林の感じがいゝ、あの間は殆ど人工を加へたものが目に入らないたゞあの辺では電力の送電線が一ケ所だけ四角なのが見えるところがありますが、その他は何等人工的なものが目に入らないので、あそこを二日間歩いてゐると人跡未踏のところを歩いてをつて人里離れた気分がします。一切の俗事を忘れた気持ちになります。

 

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月21日 08時31分18秒 | 座談会

峰入の道筋

大道

次に宮城さんに修験道の一番初めに入る行法から簡単に一つお話を。

聖護院門跡執事 宮城信雅 氏

峰に参る行者は各地方から沢山登りますが、以前は大峰山に登る前一週刊精進をするとかいろいろやつたものですが、今日では割合簡単に登るものが多いやうです。私の方は毎年大峰山に登つて修行してをりますので、その方からお話を致しましよう。大峰山と云ふのは、紀州熊野から大和吉野にまたがる大峰山脈であるから大峰と申しますが、又山上岳を金峰山とも申します。話は一寸脇道に入りますが、金峰山と云ふのは、この山に金があると云ふ伝説をもつてゐるのでありまして、それで思い出した事ですが、奈良の大仏さんをこしらえる時に、元はすつかり黄金で塗つてあつたのですが、その金を出すのに在所が分らぬので、良弁僧正が大峰山に登つて蔵王権現に金を頂きたいと願つた処が、権現のお告げに、この金は五十六億七千萬年の後に弥勒の出た後に使はねばならぬから、それまで使ふことは相成らぬ、しかし志は殊勝であるから教へてやろうと、「石山に行つて祈願せよ。」といはれた。江州の石山です。あそこに行つて金の出る処(奥州)の告げを得たと云ふので、昔から金峰山、金の御岳といつて金が出ると云ふ伝説があるんです。昔から高貴の方々も沢山お登りになりました。道長なども百ケ日の精進をして一族郎党と共にあそこに登つた記録もありますし、その時の経筒など掘出してをりますが、今日は百ケ日の精進などゝ喧ましいことは出来ませぬが、私の方、聖護院の方から山に登りますのも、二、三十年前とはよほど変りました。交通機関もよく出来ましたので、日数も少なくてするやうになつたのです。今年など登りましたのは電車から下りて六田といふ、吉野川の柳の宿といつてをりますが、あそこで水垢離をとつて――――水垢離の式といふのがありますが・・・・・・。

大道

大抵日は決つてをりますか、出る日は、

宮城

出る日は大抵七月十日に出てゐますが、今年は事変一周年といふので、特別に武運長久祈願のために七月七日に出ましたが、先ず橿原神宮にお参りをして、それから吉野川のあそこで水垢離をとつて、吉野神宮にお参りして吉野山にはいり各霊場を祈願して廻り、吉野山で一泊しまして、翌日は吉野から大峰に登るのでありまして、洞川を廻る時もありますが本年は吉野からすぐ山上に参りまして山上で護摩を焚いて祈願をし、それから翌日に弥山の小屋まで参ります。その道々七十五靡といふ行場があり、その行場をずつと修行して行きまして、弥山に泊つた翌日は連峰を駈け釈迦嶽を超えて深仙を修行してそれから前鬼山に下つて泊まります。二、三十年前は連峰をも一つ越えたので怒田宿平治宿といふところを通りましたけれ共今は通りませぬ。谷筋を通つて前鬼山の行場を済まして浦向に出て、そこに泊つて、翌日は笠捨峠を越えて玉置神社にまいる。そこにはもと私共関係の寺があつたのでありますが、そこに泊まりまして、玉置山から翌日は瀞に下つて、それから本宮、湯の峰といふ温泉郷に出て一泊し、翌日湯の峰を出発して今度は小舟で新宮に下りまして、新宮さんにお詣りをして、それから那智に出て那智権現で勤行してその足で勝浦に出て船で帰る。マア九日ほどかゝるんです。昔は七十日位かゝつたもので、維新前の記録を見ますと、順峰九十日、逆峰七十五日かゝつたさうであります。

 


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月08日 21時29分40秒 | 座談会

 

群山の植物

週刊朝日編集長 大道弘雄 氏

では話が出来ましたから、江崎さんに一つ植物の方を。

林学者 江崎政忠 氏

余り深くも調べてをりませぬけれども、あれから出て紀州の海岸の鬼ケ城まで行く、七里御浜なんてのは有名な防潮林の見事なもので私もドライブして見て非常に愉快な処でした。要するに大峰山大台ケ原、大杉谷から北山熊野川から十津川の尻まで随分細長い処でありますから、植物の上からいつても随分種類も沢山あります。有名なお茶人の喜ぶ大山蓮華といふのは大峰の産です。又この方面は昔から薬草が多く、岸田君が本を書いてをりますが、兎に角薬草に富んでゐる、国立公園として調べた本はありませぬか。

坂田

部分的のものはありますが、全体国立公園としてのものはありませぬ。

江崎

これはどうしても範囲が広いですから、寒い処から紀州の海岸、亜熱帯まであるんですから随分調べると多いだらう、小栗判官が入つたといふ湯の峰などに行くと温泉の中に羊歯が生えてゐる天然記念物になつてゐる。大台ケ原にはまた非常にアラゝギがある私は随分買い取つて帰つてゐる。北山の方に下りる川の中には所謂バラモミといふのが生えてゐる。バラモミといふのは富士の山中湖の火山岩に生えてゐる、これは天然記念物になつてゐるが一寸見ると普通のモミですが学者から見ると違うんで、普通のは葉が二つ付いてゐる、処がバラモミは一本である、このバラモミが大台ケ原の続きの処に一杯ある。

大道

原始林の山として日光と大台ケ原は東洋の名山たるのみならず世界の名山といつていゝといふことで・・・・。

江崎

大台ケ原の方が或は日光よりいゝかと思ふ。それは海に近くて黒潮から上がつて来る水分がこの山に来て雨となる、だから雨量が多い。一体雨量の多い処には植物が豊富で、いろゝのものが出来る所以なんだ。それで、風の方向によつて川の洪水の出方が違つてゐる。それは雨の降り方によつて、東風が吹くと宮川に水が出る南風だといふと吉野川に出る。風の方向によつて北山川に出たり吉野川出る時と、それから大杉谷に出る時と違つて来る。


修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)① ―週刊朝日より転載―

2012年09月05日 09時07分50秒 | 座談会

群山の特色

週刊朝日編集長 大道広弘雄 氏

一寸御挨拶申し上げます。精神総動員体位向上の叫ばれてをります際に山登りなどは一番いゝかと思ひますがこのごろ山登りといへば遠い日本アルプスとかさういふところへばかり行く人が多いやうで、幸ひ近畿には近い大峰、吉野郡山といふ立派な山があるのを忘れられてゐるやうに思ひます。ところが、その山々は歴史の方から見ても宗教の方から見ても植物の方から見ても、いろゝ学問上から見て材料も豊富であります。それを今日あらゆる方面から研鑽して頂くべくお集まりをお願ひしましたところ、中には御病気で御欠席の方が二、三あり誠に残念でありますが、御多忙中にも拘りませずお集まり下すつたことは大変有難うございます。どうぞよろしく。一番初めに坂田さんから一つ国立公園としての吉野群山の特色についてお話をして頂きたいと思ひます。

 奈良県観光課長 坂田静夫 氏

国立公園としての吉野群山の特色はいろゝあるでせうが、特に他の国立公園より勝れてゐると思はれる点を三つほど挙げたいと思ひます。第一は史跡に富んでいる点でありまして神武天皇御東征の御遺跡、吉野朝に関する幾多の史跡など至るところ歴史の香り豊かで、風景的要素を度外視しても都人に強い魅惑を投げかけるのであります。ただ単に風景を楽むといふだけでなしに美しい自然の陰に古い社寺を見たり昔の歴史的事実を追想したりすることは情趣豊かなものですが、それを味はひ得る吉野群山は独特の味を持つて居るものといへます。史跡に富んだ吉野群山が国体観念滋養の修養場であることは今改めていふ必要はないと思ひます。

第二は他の国立公園と異なり当国立公園だけが水成岩から成りそのために谷が非常に美しいことであります。吉野群山の各渓谷の河床が白色の石灰岩で木や水の青と岩石の白が映じ合つて目覚むるばかりの美を創造するのであります。そしてこれはより一層谷を清く見せるのです。他の国立公園の警告は岩石が黒ずんで幽邃味はあるにしても、この明快で清澄な色彩美といふものはありません。吉野群山を考へると先づ私の頭にこの美しい谷が浮かんで来ます。そしてこの谷のためだけに吉野群山に登りたくなるのです。殊に水の恋しい夏が来るとこの谷を恋ひ慕ふ気持ちが狂的にまで募つて来るのです。

第三には大都市を近方に控へて居ることです。これもまた他の国立公園には類を見ない所でありまして、十二国立公園中最も大きな利用価値を持つてゐるわけです。ことに京阪神からは僅か数時間内で達せられるのですから、将来交通機関が改善されたならば国立公園中最大の利用者数を示すやうになることを疑ひません。なほ植物の豊富なことも見落とすことの出来ない特色でありますが、これは江崎先生からお話して頂く方が適切だと思ひますので私はこのくらいにして置きます。