大峰山の霊蹟に就て 宮城信雅
はしがき 略
大峰の名称 略
大峰山脈の地勢 略
高祖大士と大峰山
高祖大士(こうそだいし)と大峰山(おほみねざん)とのことについては、詳説(しょうせつ)すれば限りはないが、此処では簡単に概説(がいせつ)してをく。高祖神変大士(こうそじんべんだいし)は十七歳の御時初(おんときはじ)めて葛城山(かつらぎざん)に登つて修行せられ、次で白雉(はくち)三年十九歳にして大峰山に分け入られた。御歳(おんとし)については或(あるひ)は二十一歳と云(い)ふ説(せつ)、或は三十四歳と云ふ説もあるが、こゝでは十九歳説をとつておく、而(しか)して高祖は先(ま)づ本邦宗廟(ほんぽうしうびやう)の地である熊野(くまの)に詣(もう)で、熊野路(くまのじ)から大峰山に分け入られた、抑(そ)も高祖の御修行(ごしゆぎよう)は山岳(さんがく)に抖擻(とそう)して身心(しんしん)を練磨浄化(れんまじやうけ)し本具(ほんぐ)の曼荼羅(まんだら)を開顕(かいけん)するにあつたので、その御修行は中々(なかなか)なみなみのものではなかつた。或は木(こ)の果草(みくさ)の葉を食ひ、木の葉を衣(い)とし、樹下石上(じゆかせきじやう)に座臥(ざぐわ)せられ、順逆回峰(じゆんぎやくくわいほう)三十三度に及んだと云はれてゐる、尚高祖(なほこうそ)はこの大峰山を諸佛(しよぶつ)の浄土(じやうど)となし、胎金曼荼羅(たいこんまんだら)を配當(はいとう)せられた、熊野より縁(えん)の鼻の付近両部分(ふきんれいぶわ)けまでは胎蔵界(たいぞうかい)、それより北は金剛界(こんごうかい)となつている。現今諸尊(げんこんしよそん)を諸山(しよざん)に配當された詳細の状態を知るに困難であるが、兎(と)に角(か)、この霊山(りやうせん)を諸佛の浄土となし、この霊山に入るものは肉身(にくしん)を以(つ)て直(たゞ)ちに諸佛の浄土に参(さん)じ身心浄化(しんしんじやうけ)されて即身成佛(そくしんじやうぶつ)すと云ふ信仰(しんこう)を有(いう)せられたに相違(そうい)ない。
それで、熊野より吉野(よしの)に出(い)づるを順峰(じゆんぶ)と云ひ、従因至果(じゆういんしくわ)の修行となし、吉野より熊野に出づるを逆峰(ぎやくぶ)と云ひ、従果向因(じゆうかこういん)の修行と云つてゐる、尚又高祖(なおまたこうそ)は、多くの高山(こうざん)を開かれたる内(うち)、特に大峰山の修験(しゆげん)の根本道場(こんぽんだうじやう)となし、山上嶽湧出(さんじやうがくゆうしゆつ)の峰(みね)には、末世剛悪(まつせがうあく)の衆生を済度(さいど)すべき蔵王権現(ざわうごんげん)を勧請(かんぜう)し、釈迦嶽(しやかがだけ)と大日嶽(だいにちがだけ)の中間(ちうかん)を大峰の中臺(なかだい)となし、弟子義学(でしぎがく)に修験最秘(しゆげんさいひ)、深仙潅頂(しんせんくわんちやう)をさづけ、弟子五鬼(でしごき)を前鬼山(ぜんきざん)に止めて大峰修行者(おおみねしゆぎようじや)の守護指導(しゆごしだう)を命ぜられ遂(つい)に箕面(みのも)の天上岳(てんじやうがく)に至つて登天(とうてん)せられたのである。高祖の芳躅(ほうじよく)をしたひて、大峰山に修行するもの年々盛(ねんねんさかん)になつて行くは喜ばしい事である。
尚役行者(なおえんぎやうじや)が本邦宗廟(ほんぽうしうびよう)の地(ち)たる熊野・山神地祇(さんしんちぎ)を祭れる吉野の神霊(しんれい)の地を両端(れうたん)として其間(そのかん)の高峰(こうほう)を通じ、諸佛の浄土と観(かん)ぜられた事は、一般国民(いつぱんこくみん)の山岳(さんがく)を崇敬(すうけい)し神霊をまつる信仰と、佛教の信仰とを一致せしむる、神佛一致(しんぶついつち)の思想(しそう)を高調(こうてう)したもので、後(のち)の山岳佛教のみならず本地垂迹説(ほんぢすいじやくせつ)の先駈をなしたものであらう。