天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年05月12日 08時43分07秒 | 大峰奥駈

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

大峰の道路に就いて

これで七十五靡(なびき)の名所(めいしよ)を説明したが、最後に峯中(みねちう)の道路の事について一言(げん)してこの稿(かう)をとづる事とする。

奥駈峯中(おくかけぶちう)を通つた人々は、峯中の道路の困難にして、帰つてからもいかなる道路であるかを説明するに苦しむだらう。先(ま)づ峯中で最も険阻(けんそ)なる処(ところ)をあげるならば、七曜嶽(しちようだけ)を中心として前後約一里の間、釈迦嶽(しやかだけ)の手前約一里の間であらうが、この附近の道はなんと形容してよいかわからぬ。高きは数丈(すうじやう)より低きは二三尺に至る大岩石(だいがんせき)を無秩序(むちつじよ)につみあげたとして、其岩石(そのがんせき)の間に幾百年来(いくひやくねんらい)の草木が生(は)えてゐる様なものだ草木に覆(おほ)はれてゐる処もあれば、岩石が突兀(とつこつ)としてゐる処もある。そして然(しか)も左右は千尋(せんじん)の断崖(だんがい)である、この処を渡るに決して一直線には進み得ない、或(あるひ)は草木の間をくゞり、或は岩石によぢのぼり、或は木の根をつたつて下る。そしてこの困難な道が四十度以上の角度に傾斜(けいしや)してゐるのである。実際道路と云ふよりは足跡(あしあと)を伝つて行くのである。そしてこの足跡は千二百数十年前高祖大士(せんにひやくすうじうねんぜんこうそだいし)の踏まれたまゝの足跡なるを思へば、千古変(せんこかは)らぬ大峯の霊山(れいざん) 、誠に崇高(すうこう)のきわみである。

尚かゝる険阻(けんそ)ならぬ処に於(お)いて困難なるは篠(ささ)や荊(いばら)の間を分け行くに、大木の倒るゝにあひ、或はこれをまたげ、或(あるひ)は其下(そのした)をくゞり、等(など)して行かねばならぬ、或は石につまづき、或は木の枝に頭をうたれる、七里余(しちりあまり)の一日の行程に十二時近くも費(つひ)すのは無理(むり)もない。この千古不伐(せんこふばつ)の山に、兎(と)に角(かく)足跡(あしあと)の存(そん)する事は、信仰(しんこう)の賜(たまもの)であるを思はねばならない。この千古変(せんこかは)らぬ山岳を保存するにつき、鍬(くわ)を用(もち)ふる事が禁じられてあつて、聖護院(しやうごいん)の宮が御通(おとほ)りになる時でさえ熊笹(きまざさ)を切り開いて、其切(そのきりかぶ)を槌(つち)で打ちひしげたと云ふに止(とどま)る。

これは鍬を用ふれば自然山崩(しぜんやまくず)れを起こす原因となるからである。又峯通(またみねとほ)り両側八町(りやうがわはちちやう)は伐木(ばつぼく)を禁じてあつた、然(しか)るに近時往々銘木(きんじおうおうめいぼく)の斬伐(ざんばつ)されたるものあるを見るは遺憾(いかん)に堪(た)えない。どうかこの千古不易(せんこふえき)の名山の保護に対(たい)して、各関係方面(かくかんけいほうめん)の御尽力(ごじんりよく)を希望してやまない。

 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年05月10日 12時32分55秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

 

 この三つを熊野三山(くまのさんざん)と云(い)ふ。古来中(こらいなか)に熊野詣(くまのまう)での盛(さかん)なりし所(ところ)である。もと聖護院三山検校宮(しやうごいんさんざんけんぎやうみや)の御支配(ごしはい)であつたのである。

 現今(げんこん)の入峯修行(にふぶしうぎやう)では、吹越(ふきごえ)で護摩ごま)をたき、川(かはを渡(わた)りて本宮(ほんぐう)に致(いたりて参拝(さんぱいし、それより湯峰(ゆのみね)に至(いた)りて宿泊(しゆはく)し、薬師堂前(やくしだうまえ)にて採燈護摩(さいとうごま)を修(しう)し、翌日(よくじつ) 、川舟(かわふね)にて新宮(しんぐう)に下(くだ)り速玉神社(はやたまじんてや)に参拝(さんぱい)し、新宮(しんぐう)に宿泊(しゆくはく)し、その翌日、那智(なちさん) 、飛龍権現(ひりうごんげん) 、那智観音(なちかんおん) 、夫順美神社(ふすみじんてや)に参拝し勝浦(かつうら)に出(い)で、汽船(きせん)にて帰(かへ)る事(こと)となつている。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年03月03日 19時29分12秒 | 大峰奥駈

   大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

   一  證誠殿(しようせいでん)

 

  本宮(ほんぐう)、熊野座神社(くまのざじんじや)の事なり。

  この三つを熊野三山(くまのさんざん)と云(い)ふ。古来中ゝ(こらいなかゝ)に熊野詣(くまのまう)での盛(さかん)なりし所(ところ)である。

  もと聖護院三山検校宮(しやうごゐんさんざんけんぎやうみや)の御支配(ごしはい)であつたのである。

  現今(げんこん)の入峯修行(にふぶしぎやう)では、吹越(ふきごゑ)で護摩(ごま)をたき、川を渡りて本宮(ほんぐう)に致(いた)りて参拝

  (さんぱい)し、それより湯峯(ゆのみね)に至(いた)りて宿泊(しゆくはく)し、薬師堂前(やくしどうまえ)にて採燈護摩(さいとうごま)を修(しう)し、

  翌日(よくじつ)、川舟(かわふね)にて新宮(しんぐう)に下り速玉神社(はやたまじんじや)に参拝(さんぱい)し、新宮(しんぐう)に宿泊(しゆくはく)し、

  その翌日(よくじつ)、那智山(なちさん)、飛龍権現(ひりうごんげん)、那智観音(なちくわんのん)、夫順美神社(ふすみじんじや)に参拝(さんぱい)

  して勝浦(かつうら)に出(い)で、汽船(きせん)にて帰(かえ)事になつてゐる。

 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年03月03日 19時28分26秒 | 大峰奥駈

     大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

    4  吹越山(ふきこしざん)

 

   現今本山修行(げんこんほんざんしぎやう)は水呑宿(みづのみしゆく)あたりより右(みぎ)して、御里村(みさとむら)に下(くだ)

   吹越山(ふきこゑざん)に登(のぼ)る。

   すべて、現今通過(げんこんつうか)してゐない処(ところ)は道(みち)、茂(しげ)りて到底通過(とうていつうか)すべからず、道刈

   (みちかり)、小屋普請等(こやふしんとう)に費(つひや)す処莫大(ところばくだい)なるを以(もつ)て遺憾乍(いかんなが)ら谷道

   (たにみち)を通過(つうか)す、何(なん)とかして従来(じうらい)の道(みち)を復興(ふくこう)したいものだと考えてゐる。

   吹越(ふきこゑ)にて採燈大護摩供修行(さいとうだいごまくしうぎやう)


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年03月02日 19時33分35秒 | 大峰奥駈

   大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅  

   十   玉置山(たまおきざん)

 

   維新(いしん)までは高室院(かうしつゐん)と云(い)ひ聖護院末寺(しやうごいんまつじ)であつたが、今(いま)は玉置山神社(たまきじんしや)とて

  十津川村(とつかはむら)の郷社(ごうしや)になつてゐる。中々立派(なかヽりつぱ)な社殿(しやでん)である。

   本山入峯(ほんざんにふぶ)には、例年浦向(れいねんうらむかい)を出(い)で笠捨(かさすて)を超(こ)え、葛川(くずかは)よりこの峯(みね)に登(のぼ)

  りて宿泊(しゆくはく)する事(こと)となつてゐたが、本年(ほんねん)は瀞八丁(どろはちちやう)に回(まわ)りてこヽに宿泊し、其翌日瀞(そのよくじつどろ)

  より、玉置山に登り、吹越(ふきこし)に下(くだ)る事となつた。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年03月01日 22時05分12秒 | 大峰奥駈

     大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅  

   十一  如意殊岳(によいしゆだけ)

 

   これより児(ちご)の森(もり)、岩(いは)の口(くち)、横峯金剛(よこみねこんがう)、片岡八郎(かたをかはちろう)の花折塚(はなをりづか)を通(とほ)り、玉置山(たまおきざん)に至(い)たる。

   


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年03月01日 21時49分00秒 | 大峰奥駈

   大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅  

   十二  古屋宿(ふるやしゆく)

 

   三本杉(さんぼんすぎ)とも云(いふ)と。これよりすこしく行(ゆ)きて水呑ノ金剛と云(い)ふあり、行仙(ぎやうせん)よりこヽまで水(みづ)なし、

 この附近(ふきん)に、岩(いは)の塔(たう)、天倉(あまくら)、貝吹野等云(かいふきのとうい)ふ所(ところ)あり。

  明治二十四年の本山入峯日誌(ほんざんにふぶにつし)には靡道(なびきみち)を全部通過(ぜんぶつうくわ)し、こヽより十津川村葛川(とつかはむらくずかは)

 に出(いでヽ一泊(はく)し更(さら)に、靡道(なびきみち)に登(のぼ)りて進(すヽ)みしと。