天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第百十三号 新編寺門天台宗学読本(四) ―第一編 ―

2016年10月11日 19時42分49秒 | 新編寺門天台宗学読本

故 直林敬煩 監修

  吉田光俊   編

  第二章 宗学の組織

  第三節 五箇法門と三道(続)

  五箇法門と実行の菩薩

   上来(ぜうらい)の五箇法門(ごかのほうもん)を菩薩生活(ぼさつせいかつ)の本質(ほんしつ)と規矩(きく)に配(はい)した―即(すなは)ち五箇法門(ごかのほうもん)と三学(さんがく)の相互関係(さうごかんけい)―の次第(しだい)は宗学(しうがく)の組織(そしき)を「竪(たて)」に眺(なが)めたもので、更(さら)に「横(よこ)」の観察(かんさつ)があることを忘(わす)れてはなりません。これ一家(いつか)で強調(きよてう)する「実行(じつこう)の菩薩(ぼさつ)」を中心(ちうしん)に、次第(しだい)を追(お)ふて五箇法門(ごかのほうもん)を解釈(かいしやく)したものであります。実行(じつこう)の菩薩(ぼさつ)とは、所謂悪事(いはゆるあくじ)を己(おのれ)に向(む)け好事(こうじ)を他(た)に與(あた)へ、自(みつから)を忘(わす)れて他(た)を利(り)する慈悲(じひ)の極(きは)みなる「学生式(がくせうしき)」者(もの)である。何(なに)が故(ゆへ)にこれを強調(きよてう)するかといふに、本学法門(ほんがくほうもん)に於(おい)てはその修行(しゆげう)を凡地(ぼんち)より直(ただ)ちに佛界(ぶつかい)に頓入(とんにう)し佛行(ぶつげう)を修(しゆ)することを重視(じゆうし)するため、修徳(しゆとく)より性徳(せうとく)を中心(ちうしん)として遂(つい)には真摯(しんし)なる宗教生活(しうけうせいかつ)を軽(かる)んずる恐(おそ)れがあるからであります。例(たと)へ佛行(ぶつげう)を修(しゆ)するとしても大悲大受苦(だいひだいじゆく)の精神(せいじん)を以(もつ)て、一段下(いちだんさが)つた菩薩(ぼさつ)の位(くらひ)に於(お)いて上求菩提下化衆生(ぜうぐぼだいげせしゆぜう)の真面目(まじめ)な生活(せいかつ)を要(よう)するのでありまして、こゝに於(お)いてこそ宗教(しうけう)の輝(かゞや)きが見出(みだ)されるのであります。即(すなは)ちこれによれば五箇法門(ごかのほうもん)は信(しん)・観(かん)・行(げう)の次第(しだい)で安心(あんじん)・教学(けうがく)・行證(げうせう)の三門(さんもん)を立(た)てる、実践門本位(じつせんもんほんい)の組織(そしき)であります。


修験第百十三号 新編寺門天台宗学読本(3) ―第一編 ―

2016年10月09日 19時57分48秒 | 新編寺門天台宗学読本

  故 直林敬煩 監修

  吉田光俊   編

  第二章 宗学の組織

  第三節 五箇法門と三道

   実質的内容

   後者の実質的内容は、圓(ゑん)・蜜(みつ)・禅(ぜん)・修験(しゅげん)の四法門(しほうもん)で、その教意(けうい)は名目(めうもく)を異(こと)にしまた表現方法(へうげんほうほう)も必(かなら)ず同一(どういつ)ではないが、所詮阿字実相(しよせんあじじつそう)の原理(げんり)に帰一(きいつ)するのであります。換言(くわげん)すれば圓教(ゑんけう)及び禅(ぜん)は無相(むそう)の理観(りかん)により圓融三諦(ゑんゆうさんだい)なる中道実相(ちうだうじつさう)を證(せう)し、密教(みつけう)は有相三密(うさうさんみつ)の事業(じげう)によつて阿字(あじ)の法門(ほうもん)を悟(さと)る。実相(じつさう)といひ阿字(あじ)と称(せう)するも、之(こ)れは佛(ほとけ)の證悟(せうご)した最高真理(さいこうしんり)に付(ふ)した名称(めいせう)で、これに徹底(てつてい)することは内容(ないよう)の充実進歩(じうじつしんぽ)であり、究極(きうきよく)するところ宗教的(しゆけうてき)に完全圓満(かんぜんゑんまん)した一大人格(いちだいじんかく)に達成(たつせい)するのであり、これ則(すなは)ち即身成佛(そくしんせうぶつ)であります。圓(止観【しかん】)・密(遮那【しやな】)の教学実践(けうがくじつせん)は原則(げんそく)として出家教団(しゆつけけうだん)限定(げんてい)せられて居(を)ります。即(すなは)ち菩薩僧(ぼさつそう)としての知識向上(ちしきかうじよ)と生活(せいかつ)とを中心(ちうしん)とする。而(しか)して社会人(しやかいじん)―菩薩(ぼさつ)の君子(くんし)―を中心(ちうしん)に菩薩行(ぼさつげう)を実践(じつせん)する優婆塞教団(うばそくけうだん)を本位(ほんい)とする時(とき)は修験道(しゆげんだう)に必依(ひつい)せねばなりません。換言(くわげん)するならば、菩薩君子本位(ぼさつくんしほんい)の立場(たちば)に於(お)ける遮那止観(しやなしかん)の実修(じつしゆ)は修験道(しゆげんだう)に存(そん)するのであります。但(ただ)しこれは初心(しよしん)の菩薩(ぼさつ)の宗学(しうがく)に対(たい)する一応(いちわう)の心得方(こころへがた)で、素(もと)より生活規矩(せいかつきく)の圓戒(ゑんかい)は必ず同時(どうじ)に内容(ないよう)の充実(じうじつ)であり、圓(ゑん)・密(みつ)・禅(ぜん)・修験(しゆげん)の生活内容(せいかつないよう)は向上(こうぜう)に従(したが)つて自(みずか)ら外形的様式(がいけいてきようしき)をして佛意(ぶつち)に契合(けいがう)せしめ、更(さら)に密(みつ)・禅(ぜん)は必ずしも出家教団(しゆつけけうだん)のみでなくあらゆる方面(ほうめん)に解行(げげう)されてこそ始(はじ)めて宗教(しうけう)としての意義(いぎ)をなし、修験道(しゆけんだう)また優婆塞本位(うばそくほんゐ)を固執(こしう)するものではありません。佛教中(ぶつけうちう)の精華(せいくわ)たる大乗(だいじよ)の五箇法門(ごかのほうもん)は融通融資会(いうづういうゑ)し、この一大総合佛教(いちだいさうがふぶつけう)はその理(り)は唯一(ただいつ)の実相(じつさう)に基(もとづ)いて、菩薩道(ぼさつだう)の行(おこな)はるゝところ自(みづか)ら菩薩自身(ぼさつじしん)の実相(じつさう)に即(そく)したる生活様式(せいかつやうしき)と内容(ないやう)を充実(じうじつ)して遂(つひ)に解脱成佛(げだつせいぶつ)の理想(りさうだい)を実現(じつげん)し得(う)るのであります。

 かくの如(ごと)く健全(けんぜん)な宗教生活(しうけうせいかつ)の規範(きはん)である圓頓戒(ゑんどんかい)(戒(かい))と、真理(しんり)を知識(ちしき)した価値(かち)ある生活内容(せいかつないよう)の圓(ゑん)・密(みつ)・禅(ぜん)・修験(しゆげん)(定恵(せうゑ))との完備(かんび)は、畢竟(ひつけふ)するに三学(さんがく)の具足(ぐそく)であり、而(しか)もこれ等(ら)は阿字実相(あじじつそう)の統一原理(とういつげんり)に一元(いちげん)し、一乗菩薩(いちじよほさつ)の過程(かてい)を践(ふ)んで完成(かんせい)した圓満(ゑんまん)なる人格(じんかく)は真理(しんり)の覚者(かくしや)であつて、これ即(しなは)ち私共(わたくしども)の理想(りそう)とする「成佛(せいぶつ)」の具現(ぐげん)に外(ほか)なりません。

                                                             ―(続)―