天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年05月19日 19時15分12秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

究極の目的は即身成仏

宮城

天台、真言とも最後の目的は違いませんが、修験道の求むる処は即身成仏といふ処をねらつております。即ち凡夫のまゝで成仏するといふ処にあるのです。

中村

その信仰の中には延命長寿を求めるといふやうなことも含まれてゐるのですか。

本山執事 草分顕眞 氏

もちろん、さうした現世利益も含まれてゐるわけだせう。

藤井

それよりも、原始修験道には道教の仙を得るといふ信仰があつたと思ひます。少なくも役行者の思想的背景には道教があつたと信ぜられます。

中村

神道でも死ねば神になると信じられてゐる。仏教の即身成仏とは多少異つてゐるけれども人間が神になるといふ点は甚だよく似てゐる。とことが道教では信仰の究極の目的は仙術を得ることのやうに聞いて居ります。殊に古い道教の説きかたでは死後は現世の延長であると見做し、生と死との間には観念的には段階を認めないやうであります修験道の信仰もかうした思想の影響を受けて、いはゆる仙術を得て、現世をそのまゝ引延ばす、即ち不老長寿を求めるといふことが中心となつてゐるのではないでせうか、大峰山を寂光浄土と観じる点など、死後の浄土ではなくこの世の浄土観で仏教渡来当時の浄土の観念とは大分違つてゐる。

宮城

密教の即身成仏は死後の成仏ではなくこの身このまゝ成仏することで、仙術を得るといふのとは内容が違います。

草分

修験道では大峰山を寂光浄土と観るのではなく胎金両部の曼荼羅と見るのです。

 


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年05月17日 20時54分42秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

(前省略)

修験の碩学「行智」と「即傳」

京大教授 文学博士 新村出氏

私のようなさむがりが、而も苦練行なさる修験道の座談会に出席させて戴くということは既にさむがりといふ処に資格が欠けてをります。実はこの席も寒いと辛抱が出来ないと存じまして「寒くはないでせうか」と伺ひましたら「温くしてありますから大丈夫!」とのことでしたので寄せて頂いたやうな次第です伺つて見ますと、かやうに立派な室で、私のやうな寒がりを容るゝに足る暖かい御設備を願つてゐますので大いに意を安じてゐる次第ですところがこの席では私が修験道について一番門外漢で、この点からも私はこの席に列なる資格がないように考へるのでありますが、たゞ私は平安朝の文学に関する書物を読んだ際、修験とか、山伏とかのことを書いたものに接し少なからず興味をひいたこともありましたし、また、幼少の頃、母から御嶽山のことや、御岳行者の祈祷の霊験あることを話されたりしたことを朧気ながら覚えて居ります。殊に山伏と因縁のある「百草」を呑まされたことを仄かに承知致しております。たゞそれ位なことの外別段取りたてゝ申上げる程のものはないのであります。殊に文学に現はれた修験道については阪倉さんあたりから有益なお話を承り、幾分でも修験に関する知識を得たいと思う次第であります、たしか修験の流派は二つあるやうに承りますが。・・・・・

本山執事 修験社主幹 宮城信雅 氏

左様で御座います。大体昔から天台、真言で即ち本山派、当山派に分かれて居りまして、聖護院は本山派の本山であり醍醐の三宝院は当山派の本山であります。そのほか羽黒、彦山、金峰山などにも修験が集団をなしてゐたやうです。

新村

私が学生時代に、東京浅草の延命院で行智といふ人の伝記を調べたことがありましたが、どうもその延命院は当山派であつたやうですが、それはともかく、行智といふ修験は非常な学者で、単に修験道とか仏教とかの方面のみではなく、蘭学にも関係があり、チッベット語や満州語にも通じてゐたやうです。一人行智のみならず昔は修験者の中にもなかなか学者が多かつたやうに想像されます。

宮城

行智の著書は「踏雲録」や「木の葉衣」などがあり当山にも所蔵されてゐますが、いづれもその表現がきう幕時代としては批判的であり考證的であり稀に見る立派な学者だつたと存じます。

新村

著書があれば他日拝見させて頂きたいものです。悉曇学も詳しかったやうです。

大阪毎日新聞社京都支局次長 藤井覚猛 氏

本山派にも昔は学者が多かつた。殊に彦山の即傳などは修験道の教理を体系つけた第一人者といつてもよいと思います。ところでその行智がゐたといふ延命院は今でも残つてゐますか。

新村

銀杏八幡といつて今でも浅草にあると存じます。たしか今の浅草よりずつとこちらの蔵前あたりかと思います。

京大助教授 中村直勝 氏

「木の葉衣」は和文ですか。

宮城

さようです和文です。中村先生、歴史上について特に山伏に興味をおもちになつて点をお話し願います。

中村

歴史の方面からは魚澄さんの御高説を承はりたいと存じますが、それに先立ちました、一体修験道信仰は究極は何を得やうと云ふんでしやう。 

 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年05月12日 08時43分07秒 | 大峰奥駈

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

大峰の道路に就いて

これで七十五靡(なびき)の名所(めいしよ)を説明したが、最後に峯中(みねちう)の道路の事について一言(げん)してこの稿(かう)をとづる事とする。

奥駈峯中(おくかけぶちう)を通つた人々は、峯中の道路の困難にして、帰つてからもいかなる道路であるかを説明するに苦しむだらう。先(ま)づ峯中で最も険阻(けんそ)なる処(ところ)をあげるならば、七曜嶽(しちようだけ)を中心として前後約一里の間、釈迦嶽(しやかだけ)の手前約一里の間であらうが、この附近の道はなんと形容してよいかわからぬ。高きは数丈(すうじやう)より低きは二三尺に至る大岩石(だいがんせき)を無秩序(むちつじよ)につみあげたとして、其岩石(そのがんせき)の間に幾百年来(いくひやくねんらい)の草木が生(は)えてゐる様なものだ草木に覆(おほ)はれてゐる処もあれば、岩石が突兀(とつこつ)としてゐる処もある。そして然(しか)も左右は千尋(せんじん)の断崖(だんがい)である、この処を渡るに決して一直線には進み得ない、或(あるひ)は草木の間をくゞり、或は岩石によぢのぼり、或は木の根をつたつて下る。そしてこの困難な道が四十度以上の角度に傾斜(けいしや)してゐるのである。実際道路と云ふよりは足跡(あしあと)を伝つて行くのである。そしてこの足跡は千二百数十年前高祖大士(せんにひやくすうじうねんぜんこうそだいし)の踏まれたまゝの足跡なるを思へば、千古変(せんこかは)らぬ大峯の霊山(れいざん) 、誠に崇高(すうこう)のきわみである。

尚かゝる険阻(けんそ)ならぬ処に於(お)いて困難なるは篠(ささ)や荊(いばら)の間を分け行くに、大木の倒るゝにあひ、或はこれをまたげ、或(あるひ)は其下(そのした)をくゞり、等(など)して行かねばならぬ、或は石につまづき、或は木の枝に頭をうたれる、七里余(しちりあまり)の一日の行程に十二時近くも費(つひ)すのは無理(むり)もない。この千古不伐(せんこふばつ)の山に、兎(と)に角(かく)足跡(あしあと)の存(そん)する事は、信仰(しんこう)の賜(たまもの)であるを思はねばならない。この千古変(せんこかは)らぬ山岳を保存するにつき、鍬(くわ)を用(もち)ふる事が禁じられてあつて、聖護院(しやうごいん)の宮が御通(おとほ)りになる時でさえ熊笹(きまざさ)を切り開いて、其切(そのきりかぶ)を槌(つち)で打ちひしげたと云ふに止(とどま)る。

これは鍬を用ふれば自然山崩(しぜんやまくず)れを起こす原因となるからである。又峯通(またみねとほ)り両側八町(りやうがわはちちやう)は伐木(ばつぼく)を禁じてあつた、然(しか)るに近時往々銘木(きんじおうおうめいぼく)の斬伐(ざんばつ)されたるものあるを見るは遺憾(いかん)に堪(た)えない。どうかこの千古不易(せんこふえき)の名山の保護に対(たい)して、各関係方面(かくかんけいほうめん)の御尽力(ごじんりよく)を希望してやまない。

 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2012年05月10日 12時32分55秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程     宮城信雅 

 

 この三つを熊野三山(くまのさんざん)と云(い)ふ。古来中(こらいなか)に熊野詣(くまのまう)での盛(さかん)なりし所(ところ)である。もと聖護院三山検校宮(しやうごいんさんざんけんぎやうみや)の御支配(ごしはい)であつたのである。

 現今(げんこん)の入峯修行(にふぶしうぎやう)では、吹越(ふきごえ)で護摩ごま)をたき、川(かはを渡(わた)りて本宮(ほんぐう)に致(いたりて参拝(さんぱいし、それより湯峰(ゆのみね)に至(いた)りて宿泊(しゆはく)し、薬師堂前(やくしだうまえ)にて採燈護摩(さいとうごま)を修(しう)し、翌日(よくじつ) 、川舟(かわふね)にて新宮(しんぐう)に下(くだ)り速玉神社(はやたまじんてや)に参拝(さんぱい)し、新宮(しんぐう)に宿泊(しゆくはく)し、その翌日、那智(なちさん) 、飛龍権現(ひりうごんげん) 、那智観音(なちかんおん) 、夫順美神社(ふすみじんてや)に参拝し勝浦(かつうら)に出(い)で、汽船(きせん)にて帰(かへ)る事(こと)となつている。