天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月21日 16時30分31秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山岳抖擻と保険衛生

宮城

話は変りますが、修験道は山岳に苦修練行することを眼目としますので、これについて、富田先生に、保険衛生の立場から御高説をお伺ひたいと思ひます。

医学博士 富田 精 氏

由来山岳が、治病の上に効果あることは一般に認められるところでありますが、特に近ごろのやうに交通文明が発達して何等自ら労することなく思ふまゝに、電車や自動車によつて身体を運ぶことが出来ると、歩行する必要がなくなり、遂ひには人体機能を委縮させて、少なくとも都会人は医学的に片輪になつて仕舞ふ。もちろん、そこまで到達するのは多くの時を経て後のことになりましやうが、ともかく均整を欠いた人間が、今後続出することは疑う余地がありません。交通文明の発達に伴ふて奇形体の続出することは理論の問題ではなく、現に事実として我々が目撃する処であります。これは由々しい社会問題でありまして、いはゆる種族保存などといふ上からも考慮せられねばならぬ重大問題だと存じます。そのことは別として、山岳の跋踄が健康の上に齎らす効果は顕著なものでありまして、その上に信仰が加はつたならば、一挙両得と申すべきでありませう。昔の人々は山岳の霊気に浸り、併せて健康を保持し、身心二つの鍛錬を得たのでありますが、山岳修行が、直接心臓を強剛ならしめることは実例の示す処でありまして、また心臓の強壮は全身体を強健にする根本であります。かう考へて来ると昔の人が、山岳を選んで信仰を立てたといふことは、誠に敬服すべきだと存じます。尤も同じ山でも、谷には湿気がありまして、健康上宜しくない場合もありますが、北に山を負ひ南に開けてゐる処は理想の健康地です。海は風が吹いても嵐が来ても直接であり、荒くていけませんが、山は樹木が風を遮りますので、人体に影響する処も少ないので、山に親しむことは保健上誠によいことだと存じます。この点におきまして修験道の山岳修行は精神と肉体とを同時に鍛錬することになり、特に都会人には、もつてこいの信仰であると思ひます。近ころハイキングだとか、ピクニックだとか、やかましくいはれますが信仰を本意とする山岳修行は更に一歩進んだものでありまして、千数百年の昔にかうした信仰を樹立せられた祖師の卓見に対して、私は心から敬意を表するものです。

宮城

富田先生のお話は、私共にとつて誠に結構なお説でありまして、今後布教の上に資するところが頗る多いと思ひます。

草分

昔から修験道では加持祈祷による治病を弘教の方便としてゐる者が多いのでありますが、只今のお話しによると、健康増進の方面から信仰を勧めることも出来るわけで、大変結構でした。

藤井

一時加持祈祷によつて病気を癒すなどゝいふと迷信呼ばわりしたものですが、何といつても、病は気からとの諺通り、病気に対しては精神的影響が相当大きいから、加持祈祷も信ずる人には慥かに治病の一方法でせうが、それにも増して山岳修行の健康に及ぼす効果は医学的説明ができるのだから面白いですね。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月18日 08時05分36秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

役行者の偉大なる験徳

岩井

役行者の名が書物に現はれたのは何時頃でしやう。

新村

水鏡・霊異記・続日本記などが古いところではないですか。

中村

続日本記には伊豆の大島に流れた役行者のことが出てゐますね。

宮城

役行者の伝説は行者の没後百数十年後に著された霊異記の記事が最も古いやうです。

草分

修験道の信仰が台頭し、またその勢力が一般に認められたのも、その頃からでしやうか。

藤田

その認められたといふのは、著書や、口伝といふ風な、いはゆる宣伝によつてゞはなく、神変不可思議の功徳が認められたので、この点他の宗教信仰と違つて、名よりも実が先行したのだらう。

岩井

修験道といふ名称は、もちろん後にできたのだらうが教団自体が力を得たのは平安朝も末になつてからだね。

藤井

教団として組織化されたのは、室町時代だといふ人もありますが、何しろ修験道には他の宗派のやうに立教開宗といふ筋がない。役行者を高祖と仰ぐといふけれど後人が行者を尊崇しての事で、役行者が修験道といふ―――名称は後にできたとしても、そうした法門を立てる。即ち立教開宗を宣言したわけではないから、結局長い歴史を経て、何時とはなしに教団化されたもので、先ほど宮城さんの話されたやうな教義も、誰が何時作りあげたといふことなしに、極めて自然に出来上がつたものだと思ふ。

草分

学問的には、いろいろの見方もあるでせうが、宗門として深仙灌頂の血脈―――これは修験の放流が役行者以来着々相承されてゐることになつてゐますので、それを修験者の中心生命として信じてゐるのです。

中村

教団として、それを信じないわけにはゆかぬでせうが自由な立場からは、そのいはゆる血脈に対しても批判はできる。

藤井

学問的に批判はできるが、宗門としては批判を超越した、いはゆる神聖にして冒すべからざるものだらう。ところで先ほど宮城さんから修験道の教義について、お話があつたが、昔の修験道では呪術を相当重要視してゐたやうですね。

中村

第一役行者が呪術に優れてゐたのだ、だから当時の仏教者が役行者を異端者視し、或は外道扱ひをしたのだ。続日本記に出てゐる大島配流のことなども、それがためではないですか。

宮城

怪しい書物ではありますが、道鏡の著といはれる顛末秘蔵記には、当時の仏教者が役行者を外道として讒訴したことが書かれてあります。この記事の文献的価値は別として、とにかく役行者の行蔵は当時の僧侶の眼で見て不可思議千萬のものであつたことは想像されます。何しろ密教が、まだ世に流傳してゐなかつた際に、役行者は密教を修したといふのですから、顕蜜一如とか、即身成仏とかいふやうなことは、明瞭に信仰化されてゐなかつたとしても、役行者の行動は神変不可思議であつたに違いない。

藤井

役行者は呪勤師韓国連広足といふものに讒訴されたといふのですが、呪勤師といふのはどう伝ふ職でせう。敏達天皇の時代に支那から遁甲術はつたといひますが、その遁甲術も呪術の一つでせうか。

中村

呪勤師といふのは、公に認められた職名かどうか調べて見ぬと解かりませんが、呪術といふのは、忍術、隠陽術、周易術等を一しよにしてさう呼んだのでせう。そして韓国連がこれを支配してゐたのではないですか。

藤田

藤原武智麿が韓国連から免許を得た呪術は支那のそれと同じであると伝へられてゐる。韓国連が呪術の免許権をもつてゐたのに、役行者が無免許で盛んに呪術をやつたから訴へられたのではないか。

中村

その呪術の符牒は今にをき朝鮮・台湾等に残つてをり、日本でも家の棟木等に書かれたものだ。

藤井

役行者が密教の修行によつて示した霊験が、当時の人に呪術と身られたとも考へられますね。

草分

要するに役行者が霊験を示して民間の信仰を集めたので、いろんな方面から嫉妬されたのでせう。後世の修験者のやうに験力がなかつたなら、誰も問題にしはせぬでせう。この点からいつても役行者は当時偉大なる存在であつたことが窺はれると思ひます。

岩井

新村先生、役行者の役をエンと読むのはどういふところから出たのでせう。

新村

さあなぜエンと読むのか、まだ調べたことはありませんが、言葉の上からは、異民族のやうに思はれます。エキ・ヤク等といふ語は・・・・

藤井

役はもとエと発音され、エノキミとも、いはれてゐます。

魚澄

さうです。いろんな書物に役をエと読まれてゐますから、何かのはづみにエンとなつたのではないですか。

藤井

それから小角はオヅヌと読むのだといふ人もあり、大角に対する小角で、共に笛のことで、雅楽の家であつたといふ説を立てる人もあります。

岩井

高賀茂氏であるから、加茂民族であつたのだ。

宮城

役公と云ひ、公をゆるされたのですから、よほどの豪族であつたのでせう。当麻寺の建立に家路数百町歩を寄進したといふ伝説もあります。

藤井

相当な家の出だから、容易にあれだけの勢力が得られたともいへますね。もちろん、一世を風靡する威徳をもつてゐたのでもありませうが・・・・・・・


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月15日 08時39分21秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山に霊気を感ずる信仰

新村

山の霊気に潤を受ける。或は山を神聖視するといふことは萬葉などにもある思想で、日本固有の信仰のやうでありますね。例へば持統天皇の吉野行幸の如きも、やはり山岳の霊気に浸るといふやうなことが一つの御目的であらせられたやうに見受けられます。深山高峰の霊気に浸るといふ考へは随分古くからあつたのでしやう。

中村

天武・持統両帝のころ吉野に離宮ができたのは山の霊気との関係もあるのであらうが、その一面、信仰の大峰・吉野―――即ち修験者の勢力が漸く盛んになつたので、それを利用されたといふか、ともかくもそれが一つの背景であつたと思はれる。

魚澄

白鳳時代の思想といはゆる修験道とは関係が深い、子守勝手宮の名称は修験道の勃興以前からあつたと思はれるが、少くも大和朝時代には、山に神社などを建てゝ崇敬することが盛んに行はれたらしい、その後仏教が興隆すると共に、これをうまく利用したものと考へられる。

藤井

密教なども表面に現れるまでに相当長く潜伏期があつたのではないでしやうか。

宮城

そうです。それよりもヅツと古く印度のバラモンなどが熊野へ漂流したことがあるやうでありまして、彼等は元ジャパ・スマトラ邊りから来たやうに見受けられます。勿論これ等の人が日本へ漂着するまでには色んな島々を経て這入り込んだといふことも想像されますから、お説の如く存外早くから伝へられてゐたかも知れません。

藤井

熊野へ漂着したのは印度人ではない支那人ではないのですか、いはゆる「仙」を求め「蓬莱山」を求めて熊野へ入り込むで来たものでしやう。

新村

異体の民族が漂流して来たことは度々あるやうでありますが、それ等が色んな信仰を伝へたことも見逃せますまい。

宮城

孔雀明王経は役行者よりも以前に日本へ伝へられてゐたと思はれます、といふのは役行者よりも約百年以前に支那で訳せられたことが伝へられてゐますから、当時支那から日本へ渡来する人が相当にあり、しかもその人々によつて、これ等の密教も伝へられたと観ることが妥当のやうに考へられます。

新村

修験道も弥勒の信仰を説くのでせうが、弥勒の信仰は不老不死に結ばれてゐるのではないでしやうか、奈良朝以前には弥勒の信仰が相当盛んであつたと、共に不老不死を求めるといふことも当時の信仰のすべてに織り込まれてゐたやうです。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月08日 08時40分50秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験道の地位とその教義

藤井

宮城さん、宗門の方では修験道をどう取扱つてゐるのか、また修験道の修験道観・・・・・言葉を換へていへば貴師方専門家は修験道をどう観てをられるのか、その邊の事を一つ纏めてお話になつては如何でしす。先ほどから断片的には、いろいろとお話しされた点もありますが、更めてこの際、修験道のアウトラインをはつきりして頂くと大変好都合だと思ひます。

宮城

諸先生のお話を伺ふことを主にいたしてをりましたので、手前味噌は差控へてをつたわけですが、それでは御注意にひまして、一応私共の修験道観を極めて概括的に話させて頂きます。まづ第一に宗門の上における修験道の地位でありますが、修験道は先ほども申し上げました通り、明治維新までは本当両山ともに、教団として公認されてをつたのですが、維新の際宗名を廃して、それぞれ本宗に帰入されることになつて、本山修験は天台宗寺門派に当山修験は真言宗醍醐派に属して今日に至つてをるのであります。そして、私共の方では宗制上、修験道は顕教密教と鼎立する法門として取扱つてゐる。即ち現在の天台宗寺門派は顕・蜜・修験の三法門によつて成立してゐるので、三法門の間には軽重の差はないわけであります。それでは修験道を如何に見てをるかと申しますと、修験道は役行者神変大菩薩を高祖と仰ぎ、高祖の道風、即ち顕蜜一如と申しますが、ともかくも無想三蜜十界一如の教顕を根底とし、大峰・葛城の修行を眼目として、即身成仏を期する法門と観てをります。従つて優婆塞主義による菩薩道の一つであるといつてもよいわけであります。さらに修験道の歴史的過程を顧みると、民族信仰といつたやうな色彩と皇室中心主義的な傾向とを多分にもつてをります。で私共は今日の修験道は宗派として独立した教団ではないけれど、その信仰と教風とは宗派を超越して、日本民族にぴつたりと合致してをるやうに考へてゐます。詳しくお話しすると際限がありませんが、こんなことで如何でせう。

藤井

いやよく判りました。

草分

大体修験道は、いはゆる山岳仏教でありますが、山に神秘を観じる、山を神聖視するといふことは仏教から来た信仰といふよりも寧ろ日本民族固有の信仰ではないでせうか。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月05日 08時13分37秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験から派生した新信仰

草分

 天理教も最初は聖護院に関係があつたのです。といふのは天理教々祖の縁者に本山派の信徒がありまして、今でも大和に天輪組といふ講社があり神変教会の支部になつております。

藤井

天理教も最初は天輪王の命といつたさうで、現に天輪組では自分の方が教祖の正統だと主張してゐるさうです。 

藤田

金光教も、大本教も元は修験じやないでせうか。

中村

大本教は吉田神道から出たのです。

藤井

金光教は修験に反対して起こつたものですが、御嶽教や扶桑教は確かに修験から出たものです。

岩井

役小角の時代には山岳信仰はあつてもまだ修験信仰といつたやうなものは無かつたのでせうが、その修験道が大成されたのは何時の頃でせう、平安朝末前説の熊野信仰勃興のあたりからでせうか。

宮城

験者といふ名前は随分古くからありますが修験道として大成されたのは恐らく御説の平安朝末期の頃ではないかと思はれます。

魚澄

神仏習合以前から修験道はあつたのでせう。

中村

もちろんそうでせう。(つづく)