天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第五十二号 質疑応答欄①- 十界の内「天」の境界について -

2012年08月17日 13時40分13秒 | 修験道座談会

 問・・・ 龍樹菩薩(りうじゆぼさつ)は何処(いつこ)の如何(いか)なる方でありますか、何日(いつ)が御命日か又法要の日に当たりますか、龍樹菩薩がお二方あると聞きましたが何を我が高祖の伝法せられた龍樹菩薩とするのですか。 (臥龍生)

答・・・  龍樹菩薩については色々異説(いろゝいせつ)もありますが、普通伝へられてゐる処によると、次の如き方(かた)であります。

 龍樹菩薩は仏の滅後七百年、南天竺(南印度みなみいんど)に生れ、迦毘摩羅尊者(かびまらそんじや)の弟子(でし)となりて仏門に入つた。龍樹菩薩は初め婆羅門種(ばらもんしゆ)に生れ、幼(よう)にして聡明、一切の学問を研究しよく理解した。又忍術(またにんじゆつ)をよくし一種の欲を起した為めに却(かへ)つて身危急(みききふ)に迫られたことがあつた。此時欲(このときよく)は苦の本(もと)なることを悟つて仏門に投じたと云ふことです。そして九十日間に小乗(せうぜう)の三蔵経(さんぞうけう)を読破(どくは)し、更に異経(いけう)を求めて雪山(せつざん)に入つた。此頃印度(このごろいんど)では小乗経は広く行はれてゐたが大乗仏教(だいぜうぶつけう)はあまり行はれてゐなかつたので龍樹菩薩は大乗の経典を求めたものと思はれます。かくて雪山で塔中(たふちう)に老比丘(らうびく)に遇(あ)つて大乗経典を授けられこれを諸寺(せうぢ)しましたが、更に他の経典を求めて諸国を巡(まは)り、遂に自らの教義を打立てんとしました。此時大龍王菩薩(このときだいりうわうぼさつ)と云ふのがあつて、龍樹を導き海中の宮殿(きうでん)に於て、秘密の無量の経典を読ましめた龍樹大(りうじゆおお)いに喜び大いに悟る処あり南天竺(みなみてんぢく)に出で、橋薩羅国引正王(けうさつらこくいんせうわう)の帰依(きえ)をうけ、大いに大乗仏教を広めました、そして老年にして死んだのでありますが其有名(そのゆうめい)なる著書に、大智度論(だいちどろん) 、中論十住毘婆娑論(ちうろんぢうぢうびばさろん) 、菩薩心論等(ぼさつしんろんとう)があります。非常に深い広い教理を説かれたので殆(ほとん)ど各宗で龍樹菩薩をあがめてゐます。

 龍樹菩薩の御命日(ごめいにち)は、 日となつてゐます。

 龍樹菩薩が二人あるとの説は、近頃説いてゐる人もありますが明らでありません。古来の伝説は大体今説いた龍樹菩薩お一人ですから、これを信じられてよいと思ひます。

 


修験第五十二号 質疑応答欄①- 十界の内「天」の境界について -

2012年08月15日 10時25分46秒 | 修験問答

 

 問・・・ 十界の内「天(てん)」の境界について御説明(ごせつめい)が承はりたく存じます。(白子生)

 答・・・ 天(てん)と云ふのはもとより仏教の思想であつたと云ふよりも、仏教より古い婆羅門(ばらもん)の神々を天と名けたのであります。それは人間が地面に住してゐるに対して婆羅門の神々の住居を、須弥山(すみざん)と云ふ高山(こうざん)や、又は蒼空(そうくう)に住してゐて、人間とことなる美妙(びめう)の飲食をなし勝(すぐ)れた境界であるとなした説を、仏教でもこの婆羅門の神々を排斥せずとり入れて人間の上の境界となし、更に其上(そのうえ)に仏道修行(ぶつどうしうげう)の声聞(せいもん) 、縁覚(えんがく) 、菩薩(ぼさつ) 、を置いたものであります。精神的に考へて見るならば、足(た)ることを知つて軽安自由(けいあんじいう)の境界を得たものと見てもよろしい。天については欲界(よくかい)の六天、色界(しきかい)の十八天、無色界(むしきかい)の四天等の種類が説かれてゐますが、こゝでは略することゝ致します。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月14日 08時25分53秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験の服装問題

藤井

修験の服装と天狗の服装が同一なので一寸困りますね、法螺を吹くといふことも世間では悪い意味に用ゐられてゐるし、とにかく修験道は服装について考へ直さねばならぬと思う。

宮城

修験の装束は凛々しくて私共は非常にすきですが天狗の姿に似てゐたり、芝居の勘定帳などに、禍されて尊厳味が失われてゐる点もあるやうです。

草分

修験の装束をつけて乞食をする者のあることは迷惑至極です。

藤井

乞食修験は警察で取締つて貰つたらいゝんですよ。

草分

聖護院一には派乞食修験はほとんどゐないのですが世間では見分けがつかないので同一視されて困ります。それはともかくとして服装問題も大いに研究の余地があります。第一法議を執行する場合と労務に携はる場合とは服装を変へねばいかんと思つてゐます。

宮城

青年団の団服のやうなものを労務服として制定してはどうかね。

藤井

それは面白いでせう。一つ考案することですね。

宮城

しかし、大分時間がたちましたからこの辺で打切ることに致しませう。

原門主謝辞

省略


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月13日 10時25分14秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山伏と天狗

三高教授 阪倉篤太郎 氏

山伏と修験とは全く同じものですか。

藤井

山伏と修験は本来は区別されねばならぬのですが後世は同じものになつて仕舞つたやうです。

中村

山伏は山に臥して行をすらから名つけられたのでせう。随分古くから存在してゐたやうですね。

宮城

験者とか山伏とかは御嶽精進と呼んだのが最も古いのでせう。

岩井

山伏といふのは山武士から来たのではないですか。

中村

御嶽精進を山伏と呼んだのは野に臥し山に臥し修行するところから出たのでせう。

岡田

叡山の回峰行者、北嶺修験ともいひますが、あれなどはいはゆる山伏行者の集団でせうね。

阪倉

拾遺集にも山伏といふ名称が見受けられますがかなり古くからあつたやうです。

中村

平安朝以後にも山伏の名は沢山出て来る。

藤田

山伏が修業して天狗になつたことは太平記にも書かれてありますが。

中村

山伏と天狗はその風貌がよく似てゐます、恐らく天狗は当時山伏の勢力の強かつたこと又は修業を了つた山伏が超人的な法力をもつてゐたといふことを形の上で表徴したものでしやう。

藤井

それで柿山伏の狂言が含む意味がはつきりしますよ。

藤田

徳川時代には天狗の信仰が随分盛んだつたやうだ。

藤井

今でも埼玉地方では天狗の信仰があるやうです。

富田

大津の天狗といふのもあつたと見えますね。彼の明治大帝御東行の際大津の里には鞍馬天狗は出ることならぬといつたやうな貼札が出してあつたと言ひますから。

岩井

天狗のことを ぐひん といふのは天狗の狗と賓客の賓をあてはめるのかね。

藤井

さうらしいですね。

魚澄

天魔の思想が天狗に変つたのではありませんか。

藤田

天魔 は多く悪魔といふ風に解釈せられるが天狗は必ずしも悪くは見られてゐない、例へば秋葉山半僧坊、太郎坊などは皆天狗だが悪い意味には解釈されてゐない。

中村

頼朝の話にも天下第一の大天狗なりといふ言葉があるが増長慢心を意味することに天狗といふ名称が古くから使はれたらしい。

藤井

いづれにしても天狗は外道だ。

岡田

三井寺の先徳でも慢心して天狗になり宙を飛んだといふ伝説があります。しかもその名前まで書かれてあります。

藤井

鞍馬の信仰は天狗の信仰でせうか。

藤田

あれは毘沙門天です、毘沙門天と大黒天は同じらしいです。

宮城

阪倉さん謡曲に天狗が現されたのは何時頃からでせうか。

阪倉

足利の中頃と思ひます。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月12日 08時01分59秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

僧兵的修験の勢力

岩井

大体修験道が民間に勢力を得たのは修験者即ち山伏が僧兵的の力をもつてゐたからでせう、宗教的には朝廷の信仰を得たとも観られるだらうが社会的には修験者が僧兵のやうに朝廷が武家に利用されてゐたのではないか、彼の熊野詣での如きは修験者の懐柔策であつたとも考へられる。

中村

三山検校とか別当とかの力を頼られるのだね。

魚澄

熊野三山は非常な勢力をもつてゐたもので南北朝時代にも南朝の御味方であつたやうです。

藤井

聖護院宮は三山検校職にあられた方が多いが、検校と別当とはどういふ関係にあつたのでせう。

中村

別当の上に検校があつたものですが、実権は別当が握つてゐたやうですね。

草分

検校といふのは今日の名誉総裁のやうなものだつたのではないですか。

中村

まあそんなものだつたのだらうね。

宮城

承久の乱及び元寇の時には聖護院宮がお二人も流罪に処せられてゐられます。これは後鳥羽院、後醍醐帝の御味方をせられたからでせう。

魚澄

修験者は南朝の味方だつたね。

岩井

それ等は明かに修験者が僧兵の如く利用せられたことを物語るもので一方から見れば御奉公申上げたともいへるわけですが実際は南朝が修験の勢力を利用せられたのだ叡山が勢力を張つたのは僧兵をもつてゐたからで聖護院の勢力は修験を抱へてゐたからだ、信仰の勢力といふよりも武力としての勢力であつたのだ。

中村

平安朝時代には修験が教団的に勢力を張りてゐた筈はないが、一体修験は何時ごろから集団的に纏まつたのだらう。

岡田

皇室が修験に重きを置かれたやうになつたのは後鳥羽法皇の前後からでありまして、この時代の修験者には相当名声のある高僧がゐた。三井の頼豪阿闍梨などもその一人です。とにかく顕徳の達人が皇室の信頼を受けそれが修験を統括したから次第に盛んになつたのでせう。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月11日 07時00分20秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

密教と修験

藤井

岡田さん修験道は天台真言と結合して進んで来ましたが天台では山門よりも寺門に関係が深いのはどういふわけです。

岡田

平安朝の宮中は藤原氏の全盛期で寺門には藤原出身の人が多く座主や護持僧も沢山寺門から出てゐたからでせう。

藤井

教理的にも接近する理由があるのではないですか。

宮城

教理的にも寺門の方が関係が深いでせう。

岡田

教理の根本は山門も寺門も一しよですが、山門は支那天台のほかに密教を取入れてゐて顕密の順序を立てるが寺門では顕教よりも密教に重きを置きますから当然関係が深いわけです。

藤井

寺門の修験道は寺門風であり山門の修験道は山門風醍醐の修験は醍醐風といふわけでせう、何しろ平安朝以来天台と真言によつて維持されて来たのですから、しかし、修験道発祥の歴史は天台真言と違つてゐるのだから絶対独立性がないと断ずることはできませんね。

岡田

天台、真言は実践本位で民衆済度に重きを置きますが、その準備が出来るまでは山に籠つて修行を積み、修行が足りてから平地に出て布教するといふことになつてゐますので籠山は僧侶として大切なことです。

藤井

特に密教だけが山林に縁があるといふわけではない現に伝教大師が叡山を開かれたのは入唐以前で密教はまだ伝はつてゐなかつた。

岡田

籠山は要するに化道者としての準備のためである、修験道の入峰は里へ出て働く原動力を作るためである、修験道の入峰は里出て働く原動力を作るためである。

草分

修験道の信者はそれぞれ一定の職業をもつてをるが魂の洗濯に時々入峰するので、信仰の目的は入峰することではなくて入峰は生活の修練である、この点が国民思想にぴつたりと合つて次第に教団的色彩を濃厚にするに至つたのだと思ひます。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月10日 09時03分42秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

葛城は本山独特

藤田

大峰と葛城とをもつて金剛胎蔵に形どり顕蜜二つに分けられたのでせう。

藤井

葛城は法華経中心の道場で法華経二十八品を埋められてゐます。友ケ島には序品を納めた序品窟があります。

宮城

当院では往古から大峰と共に葛城を重大視して参りましたが醍醐の方は葛城修行はやらないやうです。

藤井

明治維新直前にも葛城で夷敵退壌の祈祷が行はれたやうですね。何とかして葛城修行を盛んにするわけにはゆきませんかね。

宮城

峰中が平凡て大峰山上に相当する中心がないものですから・・・・

岩井

葛城は古くから女人に解放されてゐたのでせうか。

宮城

文献はありませんが葛城は顕の山ですから恐らく許されてゐたものでせう。

草分

大体聖護院では春は葛城修行、秋は大峰修行をすることになつてゐます。

岩井

葛城は加茂民族の根拠地だから役行者とは密接な関係があるわけだ。

中村

雄略天皇が葛城へ猟にゆかれた時長人に出会されたとか蓬仙人に逢はれたとかいふが、いはゆる長人や蓬仙人は富士の御来迎のやうなものだつたのではないかね。

岩井

雄略天皇と役行者とは時代が違ふからその話は修験道に何の関係もないではないか。

藤井

長人とか蓬仙とかいふのは道教思想から来たものでないですか。

中村

さうかも知れぬね。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月10日 08時28分35秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

大峰中心主義

草分

修験道で大峰山を尊重せねばならぬことは申すまでもありませんが、といつて大峰山に登らなければ修験道の信仰ができないやうに考へることは誤りだと思ひます。

藤井

それはお説の通りです。実際においてあまりに大峰中心主義に陥つてゐる感がある。現に近畿地方に住んでゐるものは毎年一回でも二度でも気の向いた時に入峰が出来るが、遠隔の地方にゐる人は一生に一度の入峰も思ひにまかさぬ人が少くない。それらの人でもやはり修験道の信仰者となることはできるのだから、大峰山を離れても修験道は成立するといふことをはつきり認識させるべきだと思ひます。

宮城

元来修験道は真理に立脚してゐるのだから世界的宗教でなくてはならない、われゝは修験道成立の過程において民族的色彩が濃厚なところから国民的宗教だといつてゐるが、それは中外に施してもとらない国民教であるのである、如何に大峰山が根本道場だからといつて大峰山」を中心とする近畿地方の民間信仰と観ることは大なる誤りです。

藤井

修験道の本山が大峰山にあつて全国各地に末寺とか教会とが分布してゐると都合がいゝのですが・・・・丁度高野山のやうにね。

草分

ところが大峰山と本山とが別ですから修験道の発展を期するには非常に都合が悪いのです。末寺といつてもそれぞれ独立の立場で信者をもつてゐるのですから現在の修験道は教団的にいふと末寺とは没交的の感があります。高野山の大師教会のやうに末寺を中心に結社ができてゐて本山が統括してゐるのだと都合がいゝのですが・・・・

藤井

末寺に対して神変教会の支部とか講中とかを結成さしてはどうです。

草分

理想としては結構ですが実際問題としてはさう簡単にはゆかんでせう。