天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第十三號(大正十四年七月一日發行) -  佛教お伽噺① -

2011年05月16日 18時38分57秒 | 佛教お伽噺

佛教お伽噺 その二   牛窪弘善 譯 

盲人と象

むかしむかし印度(いんど)といふ國に一人の王様がありました。或る日のこと、お家来(けらいにいひつけて一匹の象(ぞう)を牽(ひ)き出させました。そして大勢(おおぜい)の盲人をお呼び寄せになりまして、

『何だか當(あ)てゝみろ。』

とおほせられました。盲人どもはかしこまつてそろそろ象(ぞう)の體(からだ)を撫(な)で始めました。そこで王様は、

『どうだね、象という獣(けもの)は一體どんなものだ。』

すると象の牙(きば)を撫でゝゐたものは、

『象の形(かたち)は丁度、葦(あし)の根(ね)の様なもの・・・・』

と申し上げる。耳にさはつたものは、

『箕(みの)の様だ。』

といひ、頭にさわつたものは、

『石の様な形だ。』

といひ、鼻(はな)を撫(な)でまはしたものは、

『杵(きね)の様だ。』

といひ、脚(あし)をさすつたものは、

『いや、臼(うす)の様なものだ。』

といひ、背(せな)を撫でたものは、

『いやさ、床(とこ)の様だぞ。』

(はら)を撫でゝゐたものは、

『これは全(まつた)く甕(かめ)の様だ。』

(お)を撫でゝゐたものは、

『なんでも縄(なわ)の様なものだ。』

といひました。

盲人がいくら寄つてたかつても象(ぞう)の體(からだ)はどんな形(かたち)だか、ほんとにわかつて申し上げたものは、一人もなかつたのです。なぜわからなかつたかというと象(ぞう)という獣(けもの)は非常に大きくて一時にのこらず撫でまはす事が出来ないからです。

(涅槃経より)

 

 

 


修験第九号 通俗修験問答⑥- とそうの二文字について -

2011年05月16日 17時57分55秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・ところで私共は家にゐて六根を清浄にするといふ事がなかなか困難(こんなん)です。といふよりは到底不可能(とうていふかのう)のことのように思ひます。ある意味において人間の世界は不浄の世界であります。かうした世界でその日を送るのに不浄を怖(おそ)れたり嫌(きらふたりしてゐては、たゞの一日も生きてはゐられませんが、この點はどうしたものでせうか。

答・・・さア、そこです。御説の通り人間の世界は不浄(ふじょう)の世界と観(み)ることが出来ます。併しながら如何に自分の周圍(しゅうい)が不浄だからと云つて、必らずしも不浄の生活をせねばならぬことはない泥(どろ)の中にも『蓮(はす)の花』の譬(たと)へがあるやうに、心がけ如何によつては立派に清浄な生活が出来ると思ひます。眼にもろもろの不浄を見て心にもろもろの不浄を見ず、耳に鼻に舌に乃至手に足にもろもろの不浄を聽(き)いたり、嗅(か)いだり、舐(な)めたり、觸(さは)つたり、それは不浄の世にすむお互として巳むを得ないとしても、心にまでそうした不浄の數々を映(うつ)すには及ばぬことでありませう。過去の七佛も『自(みづからその意(こゝろ)を浄うせよ』と繰返(くりか)へして御説きなされた。浄意(じやうい)の二字こそ佛門修道の第一義であると共に我が修験道の所謂抖擻の肝要(かんよう)でありますお山の戸はしまりました。これから戸あけまでの間はひたすらに常行抖擻の期であります。お互に精進しませう。


修験第九号 通俗修験問答⑤ - とそうの二文字について -

2011年05月16日 12時18分09秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・修験の道がさま佛さまを相手の道であつて、而(しか)も人道に悖(もと)らないものであるということは、朧(おぼろ)げながら諒解(りょうかい)されたやうでありますから、話を元へもどして、御説の常行の抖擻について、いま少しく詳しい御説明を願ひたいと存じます。

答・・・いや、その事は私の方からお話申しあげやうと思つてゐたところです。先ほど私は、常行の抖擻とは人間としての正しい道をふんでゆくことだと申しましたが、これだけでは常行抖擻の説明として甚だ不十分ですから、これから更(あらた)めておはなし申し上げますが、併し詳(くわ)しくと云つても、さう詳細(こまか)に説明しますと、却つて解(わか)らなくなるかと思ひますから、やはり概念(がいねん)だけに止めて置(お)きます。ソコで御質問の常行抖擻でありますが、常行抖擻とは要するに『懺悔(ざんげ)々々六根清浄』の一語につきるのであります。この一語を外(ほか)にして修験道の抖擻はありません。お互は不断(ふだん)に三毒五慾(さんどくごよく)の煩悩(ぼんなう)に災(わざは)ひされて、不知不議(しらずしらずの間に多くの罪(つみ)を作つてゐます。その煩悩のために、この罪障(ざいしょう)のためにお互の心の鏡(かがみ)は常にくもりがちであります。元々お互の心の鏡はすつきりと澄(す)み渡つてゐたのですが、いつの間(ま)にやら煩悩の曇(くも)りが掛つて心の本體、鏡の正體を失つてゐるのであります。お互はどうしてもこの心の鏡にかゝつた曇(くも)りをはらひのぞかなくてはならない。でないと眞人間になれないのであります。如何に立派な風(ふうをしてゐる人でも、その人の心の中は決して立派とは限りません。恐らく十人中九人までは明るみへ出されないやうな醜(みにく)い心の持主でないでせうか。これではつまりません。高祖大士はこうした人間相(にんげんそう)を憐(あわ)れと思召(おぼしめ)して、懺悔(ざんげ)々々六根清浄――抖擻修行の道をお聞き下されたのであります。故にお互は常に六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清浄にして、もろもろの悪業罪障(あくぎょうざいしょう)を懺悔すると共に、善根(ぜんこん)を積(つ)むことに努力しなくてはなりません。これ即ち常行抖擻であります。がお互は凡夫のかなしさに、慣(な)れると兎角(とかく)なまけ易い、故に時々別時の抖擻――高祖が微妙甚深(みみやうじんじん)の秘趣(ひしゅ)によつて御荘厳(ごしょうごん)下された大峰山などに登つて懶(なま)け心を鞭撻(べんたつ)すると共に、心の鏡を砥石(といし)にかける必要があるのであります。