大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
十七 檜ケ宿(ひのきがしゆく)
此附近(このふきん)にアヅマヒの瀧(たき)、不動(ふどう)の瀧(たき)、牛追(うしおひ)の瀧(たき)ありと。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
十七 檜ケ宿(ひのきがしゆく)
此附近(このふきん)にアヅマヒの瀧(たき)、不動(ふどう)の瀧(たき)、牛追(うしおひ)の瀧(たき)ありと。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
十八 笠捨(かさすて)(仙ケ岳(せんげだけ)
現今本山(げんこんほんざん)の入峯には、前鬼裏行場(ぜんきうらぎやうば)を修行し、其日北山村(そのひきたやまむら)に出(い)で、浦向(うらむき)に一泊(ぱく)し、翌日笠捨(よくじつかさすて)を超(こ)へて十津川村上葛川(とつかはむらかみくずかは)に出(い)づ、笠捨より怒田宿等(ぬたしゆくとう)を遥拝勤行(えうはいごんぎやう)す。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
十九 行仙岳(ぎやうせんだけ)
怒田(ぬた)よりニ里(にり)、水(みづ)ありと。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
二十 怒田宿(ぬたしゆく)
小屋(こや)あり。以前(いぜん)には前鬼山(ぜんきざん)を出(い)でゝこゝに泊(とま)まる。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
二十一 平地宿(へいぢしゆく)
大杉(おほすぎ)あり、明治廿年頃(めいじにぢうねんころ)には小屋(こや)ありしと。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
二十ニ 持経宿(ぢきやうしゆく)
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
二十三 乾光門(かんくわうもん)
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
二十七 奥守嶽(おくもりだけ)
俗(ぞく)に嫁越(よめこし)と云(い)ふ。前鬼より右方(うほう)に登(のぼ)りたる処(ところ)なり。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
ニ十八 三重瀧(さんぢうたき)
前鬼山裏行場(ぜんきざんうらぎやうば)にあり、馬頭(ばとう)、千手(せんじゆ)、不動(ふどう)の三瀧(さんたき)なり、馬頭は六十間(けん)、千手は八十間、不動は百二十間あり、三重籠(さんぢうこも)りとて、千手瀧横(せんぢうたきよこ)なる両界(りようかい)の岩屋(いはや)に籠(こも)り、三重の瀧に修行せしもの多(おほ)し、絶景(ぜつけい)なり實(じつ)に峯中(ほうちう)の霊場修行場(れいじやうしうぎやうじやう)である、この外(ほか)、垢離取の行場、屏風の横駈二十八宿の鎖等(とう)の行場あり、中就(なかんづく)二十八宿(しゆく)の鎖(くさり)は中々(なかゝ)の難行(なんぎやう)である。
前鬼山より廿五町(ちやう)と云(い)へど、往復(わうふく)三時間を要(えう)す、人数多(にんずうおほ)ければ行場に更(さら)に時間を費(つひや)やすことを注意せねばなるぬ。
現今(げんこん)はこれより、吹越(ふきごゑ)までの間(あひだ)仙ケ嶽(せんがだけ)(笠捨(かさすて))と玉置山(たまきざん)の外登(ほかのぼ)らないが、名称(めいしやう)あげる事(こと)とする。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
ニ十九 前鬼山(ぜんきざん)
深山(しんせん)より五十町(ちやう)の急阪(きうはん)を下りて前鬼(ぜんき)に達す。前鬼は、先述(せんじゆつ)の通り高祖大士(かうそだいし)に、釈迦嶽(しやかだけ)の霊山(れいざん)、深山の霊場(れいじやう)を守護(しゆご)すべく命(めい)ぜられた、五鬼(き)の子孫(しそん)が、この地(ち)を開拓(かいたく)して永住(えいじう)し今日に及べるものである。以前は森本坊(もりもとぼう)、小仲坊(こなかぼう)、不動坊(ふどうぼう)、行者坊(ぎやうじやぼう)、中の坊(なかのぼう)の五ケ坊あつたが、現今は森本坊、小仲坊のニ坊となつてゐる。歴史上尊重(れきしじやうそんちよう)すべきこのニケ坊があつて、どうか、この霊山のみは俗化(ぞくくわ)しない様に、修行者(しうぎやうしや)の為(た)め、神聖観念(しんせいかんねん)を起(おこ)さす様に、永久保護(えいきうほご)されたいものである。
本山修行には森本坊と小仲坊と隔年(かくねん)に宿泊する。本年は小仲坊に宿泊す。
大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
三十 千草岳(ちぐさだけ)
以前はこの三ケ所を迂回(うくわい)して前鬼(ぜんき)に出でたやうであるが現今(げんこん)は直(ただ)ちに前鬼に下(くだ)る。
前鬼山(ぜんきざん)に下るまでに、両童子岩の行場(ぎやうば)あり、困難なる行場なり。