天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月21日 10時07分15秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十六  五角仙(ごかくせん)

 

 この二ケ所は深山(しんせん)より大日岳(だいにちだけ)に到(いた)る中間(ちうかん)にあり森をなし岩あり、三ケ月石と云(い)ふあり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月21日 09時37分28秒 | 大峰奥駈

  

    大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十八  深仙宿(しんぜんしゆく)

 

 (また)は神山(しんせん)とも深禅(しんぜん)とも云(い)ふ。峯中(みねちう)の中台(ちうだい)にして、釈迦嶽(しやかだけ)より二十五町下(ちやうくだ)りたる處(ところ)、大日岳(だいにちだけ)との中間(ちうかん)にあり。

 修験傳燈(しゆげんでんとう)の道場(だうじやう)にして、高祖大士以来綿々相承(かうそだいしいらいめんゝさうしやう)の深山灌頂(しんざんかんちやう)の行はれる所(ところ)である。付近(ふきん)に香精水と云ふ峯中第一の霊水(れいすい)があり、灌頂水に用(もち)ふる。行者堂(ぎやうじやだう)ありて神変尊(じんべんそん)を祭る。以前(いぜん)は灌頂堂があつたが、今はない。先年聖門主恭随大先達(せんねんせいもんしゆきよずゐだいせんだち)の灌頂せられた時(とき)は行者堂を中心として付近に幕(まく)をめぐらし、蒼天(さうてん)を天蓋(てんがい)とし、草(くさ)を敷(し)いて座(ざ)として行はれたのである。

 役行者(えんぎやうじや)が最後にこの山と分れをつける時、髭(ひげ)をおとし弟子前鬼後鬼及五鬼(でしぜんきごきおよびごき)を、五十町下(ちやうした)の前鬼山(ぜんきざん)に残してこの山の守護(しゆご)を托(たく)し、去(さ)って箕面(みのお)の天上岳(てんじやうだけ)より登天せられたと云(い)ふ。採燈大護摩供(さいとうだいごまく)を勤修(ごんしう)す。 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月19日 17時38分16秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十九  都津門(とつもん)

 

 釈迦嶽(しやかがだけ)の中腹(ちうふく)にあり、俗(ぞく)に胎内くゞりと云(い)ふ危険な行場(ぎやうば)である。幾百尺(いくひやくしやく)の絶壁(ぜつぺき)にある岩穴(いはあな)をくゞり、其端(そのはし)をまわるのである。こゝではいかなるものも、一生懸命(いつしやうけんめい)、御真言(ごしんごん)の声がでる。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月19日 12時50分19秒 | 大峰奥駈

 

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十  釈迦嶽(しやかだけ)

 

 空鉢(くうはち)より杖捨、念仏橋、馬の背の険(けん)を超えて釈迦嶽頂上(しやかだけてうぜう)に至る。

 頂上には大阪佛立会(おおさかぶつりうくわい)の建立(こんりう)せる釈尊(しやくそん)の大銅像(だいどうざう)が一昨年建立(いちさくねんこんりう)せられた。立派なものである。尚佛立会(なおぶつりうくわい)は縁(ゑん)の鼻(はな)に蔵王権現(ざうわうごんげん)の立像(りつざう)、大日嶽(だいにちだけ)に大日尊(だいにちそん)の座像(ざざう)を建立された。

 三郷講(さんごうこう)の事業と共(とも)に、峯中(みねちう)に於(お)ける称賛(しやうさん)すべき事業である。往昔(わうせき)は釈迦堂(しやかだう)あり、閻浮檀金(えんふだんこん)の釈迦三尊(しやかさんぞん)が祭(あつ)られてゐたのであるが、現今(げんこん)は前鬼山(ぜんきざん)に祭られてゐる。こゝ亦峯中(またみねちう)での眺望(てうぼう)よき處(ところ)である。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月18日 08時29分03秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十一  空鉢ケ岳(くうばちケだけ)

 

 大岸壁(だいがんぺき)の下に小祠(せうし)をまつる。孔雀岳(くじやくだけ)より、このあたりに至る、道路最大(だうろさいだい)の険阻名所亦多(けいそめいしよまたおほ)し。

 極楽の東門、孔雀より少しく行きて路(みち)の左方深(さほうふか)き谷間(たにま)にあり絶景(ぜつけい)なり。

 両部分け、岸壁(がんぺき)のさけ目をわたる。胎金両部曼荼羅(たいこんりやうぶまんだら)の分け目と云ふ。

 五百羅漢、道の左方谷間に、つくつくと奇岩兀立(きがんこつりつ)す。

 緑の鼻、眼下(ぐわんか)は絶壁の渓間(けいかん)、前方に七面山(しちめんざん)、左方に十六羅漢石(じゆうろくらかんいし)の一部をながめ、左端釈迦嶽(さたんしやかだけ)の険峰峙(けんほうそばだ)ち、峰中第一(みねちうだいいち)の絶景なり。

 十六羅漢、縁の鼻(ゑんのはな)より少しく行きて右方谷間(うほうたにま)に兀立(こつりつ)す。鉄鉢石、空鉢(くうはち)の少しく手前(てまへ)、大岸壁の上に鉄鉢(てつばち)をのせたる如(ごと)き形(かたち)あり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月17日 08時47分50秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十二  孔雀ケ岳(くじやくケだけ)

 

 こゝにて弁当(べんとう)を食す。佛性釈迦(ぶつしやうしやか)と共(とも)に八経(きやう)につぐ高峰(かうほう)である。弥山(みせん)より前鬼(ぜんき)まで約八里(り)とすれば、この辺(へん)が中央(ちうあう)であらうと思う。 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月17日 08時09分54秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十四  楊子の宿(ようしのしゆく) 

 

 此處(こゝ)の少し手前、左方(さほう)の谷に十六丈の青不動(自然の岩石にて不動尊を髣髴(ほうけつ)す)を拝(はい)する事が出来る。本年は濃霧(のうむ)の為拝(ためはい) なかつたのは残念、弥山(みせん)より約三里(やくさんり)

 こゝにて昔弥治兵衛(むかしやじべい)なるもの凍死(とうし)せしと、勤行回向(ごんぎやうえこう)する例なり。

 前日(ぜんじつ)の行者還(ぎやうじやがへ)りよりこの處十数ケ所(ところじゆうすうかしよ)までは、前年大阪三郷講(ぜんねんおおさかさんごうこう)から、石標(せきへう)、小祠(せうし)を建立(こんりう)せられたのは結構な事実であり、ことに石標に施主(せしう)の名を掲(かゝ)げる様な俗なるものではなく、風致(ふうち)に適応(てきおう)せる様につくられ、更(さら)に続行(ぞくかう)の目的であつたそうだが、ある事情(じじやう)の為(た)めこの處(ところ)にて中止されたるは残念な事であつた。峰中神聖(みねちうしんせい)の處に小祠の祀(まつ)つてあるのは心地(こゝち)のよいものである。

 尚(なほ)この事情(じじやう)のいきさつから大峰山名所旧跡保存会(おおみねさんめいしよきうせきほぞんくわい)なるものが大峰山上関係者(おおみねさんじやうくわんけいしや)によつて造(つく)られたとの事、将来共々(しやうらいともゝ)に、高尚(かうせい)にこの霊山(れいざん)の名所旧跡を保存(ほぞん)し、又廃(またすた)れたるものを興(おこ)したいものである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 09時04分12秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十五  七面山(しちめんざん)

 

 (ふね)の多和(たわ)より少しく行きて右方(うはう)に見ゆる大岩壁(だいがんぺき)の険嶺(けんれい)、遥拝(えいはい)す。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時51分52秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十九   菊の窟(きくのいはや)

 

  左方(さほう)の渓谷中(けいこくちう)にあり、峰中第一(みねちうだいいち)の魔所(ましよ)であつて、はいつたものは、誰も出て来たものがないと云(い)ふ。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時46分50秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十   明星ケ嶽(めいじやうけだけ)

 弥山(みせん)より一里半許(いちりはんばか)りもあらう。頂上(ちやうじやう)へは登らず、中腹(ちうふく)にて勤行(ごんぎやう)す。