天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第十七號(大正十五年三月一日發行) -  佛教お伽噺⑤ -

2011年05月20日 07時25分00秒 | 佛教お伽噺

 

 佛教お伽噺    牛窪弘善 譯 

 なみだの教

 むかしお釈迦様(しやかさま)にラフラという一人(り)のお子(こ)がございました。此(こ)のラフラがまだお修行(しゆげう)のたりない、ちいさな時(とき)はなかなかのわんぱく者(もの)でめつたに正直(せうじき)のことをいひませんので、父(ちゝ)なる釈尊(しやくそん)は、ある日ラフラに、かういはれました

『お前(まえ)はそんなでは駄目(だめ)だから、山中(さんちう)のごく静(しづか)なお寺(てらへ行(い)つて悪(わる)いことをいはない様(やう)によく口を守(まも)れ、そして意(こころをおちつけて、いましめを書(か)いた書物(しょもつ)を読(よ)め。』

 ラフラは父(ちゝ)のいひつけだから、しかたがない。かしこまつてお礼(れい)をしてそこへ行(ゆ)きました。そして九十九日(にち)といふ永(なが)に間(あいだ、昼(ひる)も夜(よる)

『己(おれ)は、わるいことをしたものだ。実(まこと)にはづかしい。くやしくてたまらない。』

と思(おも)つて後悔(こうかい)してゐました。

 或日(あるひ)のこと、不図父(ふとちゝ)なる釈尊(しやくそん)がお出(い)でになつた。ラフラは大喜(おおよろこ)びで、はしり出(で)ておじぎをして、すぐ縄(なわ)で拵(こしら)へた敷物(しきもの)を持(も)つて来(き)ました。

 釈尊(しやくそん)は縄の敷物にお腰(こし)をかけられて、

『お― ラフラよ、たらひに水(みづ)を入(い)れて乃公(おれ)の足を洗へ。』

ラフラは『はい。』といつて、み足(あし)を洗いました。

『お前(まえ)はこの水(みづ)を見(み)たか・・・・・・。』

『はい。』

『この水で飲喰(のみくひ)できるか。口をすゝがれるか。』

『いえ、もうだめです。こんなに足を洗(あら)つたきたない水(みづ)はもうだめです。』 

 釈尊(しやくそん)は又(また)

『あゝラフラよ。お前(まえ)は王様(おうさま)の孫(まご)ではないか。いま世(よ)の中(なか)のことをすつかり、打(う)ちすてゝ出家(しゆけ)したではないか。なぜ精力(せいりよく)をだして身(み)をおさめ口(くち)を守(まも)ることを思はないのだ。お前(まえ)はいつもいつもきたない、わるい、毒(どく)の様(よう)なものに胸一杯(むねおつぱい)けがされてをる。丁度(てうど)この水(みづ)のやくにたゝないのと同(おな)じことだ。

 釈尊(しやくそん)は又(また)

『この水(みづ)をすてよ。』

といはれた。ラフラは、すぐにすてた。釈尊(しやくそん)はおことばをつゞけられて。

『もう水がない。こゝへ飲(のみ)ものや喰(くひ)ものが、もれるか。』

『いゝえ、だめです。名前(なまえ)はたらひですが、きたないものが、はいつたので・・・・。』

『そうだ。お前(まえ)は出家(しゆつけ)であるが、口にはまことのことばがない。心(こころ)はあらづよくて、精(せい)だしてお行儀(げうぎ)をつゝしまないだから人(ひと)に悪(わる)くいはれるのだ・・・・・このたらひに喰物(くひもの)がもれないのと同(おな)じことだ。』

といはれて、み足(あし)の指(ゆび)でそのたらひをはねとばす。たらひはくるつとまはつて、をどりだして下(した)の方(はふ)へ落(おち)てしまつた

『どうだ、たらひが、おしいかこはすのが惜(おし)いか。』

『いゝえ、安(やす)い物(もの)ですから、をしいことは、おしいが、そんなでもありません。」

『あゝ折角出家(せつかくしゆつけ)となつて口(くち)と意(こころ)とをつゝしまないで、あらいことばをつかつて多(おほくのお友達(ともだち)をあゝだの、こうだのとたびたび悪(わる)くいふから、お前(まえ)は人にかあいがられない。それでは立派(りつぱ)な人達(ひとたち)は、お前(まえ)を気(き)の毒(どく)に思はない。お前(まえ)の様(よう)なものは死(し)んでから大層苦(たいそうくる)しい目(め)にあつても、丁度(てうど)お前がたらひを、をしまなかつた様(よう)に誰もたすけてくれまい。』

かういはれたラフラは、もうはづかしくて、たまらない。ぶるぶる身ぶるいしてゐた。釈尊(しやくそん)は、こんど面白(おもしろ)いお話をいたされました。

『昔或国(むかしあるくに)の王様が一ぴきの大きな象(ぞう)をかつてゐたが大層強(たいそうつよ)くて、たゝかひが上手(じょうづ)であつた。其(そ)の力(ちから)をはかつて見(み)ると五百ぴきの小(ちい)さな象(ぞう)にもまさつてゐた。或時(あるとき、王様がいくさを起(おこ)こして悪(わる)い国(くに)を伐(う)たうとしました。そして象に鉄(てつ)の鎧(よろい)をきせ、二つの鋒(ほこ)をその牙(きば)にしばり二つの剣(けん)を両方(りょうほう)の耳(みみ)につなぎ、曲(まが)つた刀(かたな)を四本の足(あし)にしばりつけ、そして又、鉄(てつ)のムチをその尾(を)につけた。

 そこで、いよいよ戦争(せんそう)に出(だ)した。ところが象(ぞう)は、いつもだひじに鼻(はな)をかくして、たゝかひに用(もち)ひない。御者(ぎよしや)は象がじぶんの体(からだ)を大切(たいせつ)にまもることを知(し)つてゐるのを見(み)て喜(よろこ)んでゐた。

なぜというに象の鼻はやはらかいから矢(や)に當(あ)ると、すぐ死(し)んで仕舞(しまう)ふからだ。象は長(なが)い間(あいだ)たゝかつてゐたが今度(こんど)は鼻を出して剣を求(もと)めたが御者(ぎよしや)(あた)へない。

 この強(つよ)い象は命(いのち)を惜(おし)まず、しきりに剣を求める。象は鼻の尖(さき)に剣をつけてもらはうとするのであつた。

しかし王様やお家来(けらいは、この強(つよ)い大きな象を惜(おし)んでとうとうやらなかつたそうだ。』

 ラフラよ。人は口にをまもつて世(よ)の中(なか)の苦(くる)しみを、おそれなければならない。口をまもらない者(もの)は、丁度象(てうどぞう)が命(いのち)をなくすることを知(し)らないで鼻を出して戦(たゝか)はんとした様(やう)なものだ。 

 お行儀(げうぎ)をよくして、身(からだ)、口(くち)、意(こゝろ)の三つを、をさめて悪(わる)いことをしなければ、立派(りつぱ)な人(ひと)になれるのだ。』

ラフラは父(ちゝ)なる釈尊の深切(しんせつ)な、み教(をしえ)を聞(き)いて大層感(たいそうかん)じたので、もうそれからといふものは、よく、いましめをわすれないで一生懸命(いつしようけんめい)にお行儀(ぎょうぎ)をつゝしんで、大層(たいそう)おとなしくなられました。これから忍耐力(にんたいりよく)は強(つよ)く意(こゝは)ずつと落(お)ちついてえらいお方(かた)になつたさうです。めでたしめでたし。

(法句譬喩経より)