天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第五十二号 質疑応答欄①- 十界の内「天」の境界について -

2012年08月15日 10時25分46秒 | 修験問答

 

 問・・・ 十界の内「天(てん)」の境界について御説明(ごせつめい)が承はりたく存じます。(白子生)

 答・・・ 天(てん)と云ふのはもとより仏教の思想であつたと云ふよりも、仏教より古い婆羅門(ばらもん)の神々を天と名けたのであります。それは人間が地面に住してゐるに対して婆羅門の神々の住居を、須弥山(すみざん)と云ふ高山(こうざん)や、又は蒼空(そうくう)に住してゐて、人間とことなる美妙(びめう)の飲食をなし勝(すぐ)れた境界であるとなした説を、仏教でもこの婆羅門の神々を排斥せずとり入れて人間の上の境界となし、更に其上(そのうえ)に仏道修行(ぶつどうしうげう)の声聞(せいもん) 、縁覚(えんがく) 、菩薩(ぼさつ) 、を置いたものであります。精神的に考へて見るならば、足(た)ることを知つて軽安自由(けいあんじいう)の境界を得たものと見てもよろしい。天については欲界(よくかい)の六天、色界(しきかい)の十八天、無色界(むしきかい)の四天等の種類が説かれてゐますが、こゝでは略することゝ致します。


修験第三十六號 (昭和四年五月一日發行) 質疑応答④ - 迦楼羅炎(かるらえん)の事 -

2011年05月28日 17時31分11秒 | 修験問答

 

 迦楼羅  「密教辞典 佐和隆研編  法蔵館」

 問

 不動経(ふどうきやう)の内(うち)に「迦楼羅炎を示現して業障海を焚焼す」とありますが、その迦楼羅炎(かるらえん)とはいかなる意味ですか。

 

 迦楼羅(かるら)と云(い)ふのは天竺即(てんぢくすなは)ち印度(いんど)に於(お)ける鳥(とり)の名(な)です。金翅鳥(こんじてう)とも云(い)ひます。神秘化(しんぴか)されて天龍八部衆(てんりうはちぶしゆう)の一になつてゐます。大木(たいぼく)に住んでゐて、毒蛇(どくへび)を取つて食(くら)う大きな鳥です。この迦楼羅鳥(かるらてう)の大きな翼(つばさ)を廣(ひろ)げた形の火炎(かえん)を迦楼羅炎(かるらえん)と云(い)ふたのです。ことに一面(いちめん)にはカルラ鳥(てう)は毒蛇(どくへび)を取(と)つて食(くら)ふので智恵(ちえ)の炎(ほのほが煩悩(ぼんのう)を取盡(とりつく)すことをも表示(へうじ)してあるのです。


修験第三十六號 (昭和四年五月一日發行) 質疑応答③ - 僧祇に就て -

2011年05月27日 08時46分51秒 | 修験問答

 

 僧祇に就て

 問

 修験道(しゆげんだう)の法階(ほふかい)に一僧祇(そうぎ)、二僧祇(そうぎ)、三僧祇(そうぎ)とありますが、僧祇(そうぎ)とは大体(だいたい)どう云(い)ふ意味なのですか、御尋(おたづ)ねします。

 

 僧祇(そうぎ)と云(い)ふのは経典(きやうてん)にある阿僧祇劫(あそうぎこう)と云(い)ふ言葉(ことば)から来たのでありまして阿僧祇劫(あそうぎこう)と云ふのは無数時(むすうじ)と云ふ事であります。ある長い長い年月と云ふ意味です。お釈迦様(おしやかさま)が前生(ぜんせい)に於(お)いて三阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行(しゆうぎやう)をせられて、遂(つゐ)に成佛(じやうぶつ)せられたと云(い)はれてゐます。而(しか)して修験道(しゆげんどう)に於(お)いて僧祇(そうぎ)を法階(はふかい)の名称(めいしよう)にしたのは、三ケ度(ど)の入峰修行(にふぶしゆうぎやう)に於(お)いて阿僧祇(あそうぎ)の功(かう)を積(つ)むと云ふ意味で、入峰修行(にふぶしうぎやう)の功徳(くどく)を釈尊前生(しやくそんぜんせい)の修行(しゆぎやう)にたとへたものであります。無数時(むすうじ)と云ふのも、必(かなら)ずしも時計(とけい)の上(うへ)からの時(とき)のみを云(い)ふのでなく、精神修養上(せいしんしうやうじやう)について考へねばならないのであつて、西方十萬億里等(さいほうじうまんおくどなど)と云ふ事も、方角(ほうがく)の西(にし)の方(ほう)十萬億里(じうまんおくり)の彼方(あなた)と物質的(ぶつしつてき)に解(かい)するよりも、霊界(れいかい)を以(もつ)てながめねばならないのであります。  


修験第三十五號 (昭和四年三月一日發行) 質疑応答②- 一念三千の意味 -

2011年05月25日 08時38分21秒 | 修験問答

 

 問

 「一念三千」と云(い)ふことを、ごく解(わか)り易(やす)く教(をし)へて下(くだ)さい。

 

 これは天台宗(てんだいしう)の教理(けうり)でも随分深(ずゐぶんふか)いところをといたものですから、ごく解(わか)りやすく、而(しか)も簡単(かんたん)にお話する事(こと)は中々困難(なかなかこんなん)で、解(わか)りやすくお話(はなし)しやうとすれば自然詳(しぜんくわ)しくなります。詳(くわ)しくなると、到底此欄上(とうていこのらんじやう)でお話(はなし)することは出来(でき)ませんが、その名数(めいすう)だけでも簡単(かんたん)に申(まう)しますと、先(ま)ず衆生(しゆじやう)の境界(きやうかい)を十界即(じゆつかいすなは)ち、地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしやう)、修羅(しゆら)、人間(にんげん)、天(てん)、声聞(せいもん)、縁覚(えんかく)、菩薩(ぼさつ)、佛(ぶつ)の十種(じゆつしゆ)に分(わか)ちます。そして、この十界(かい)が各々十界(おのおのじゆつかい)を具(ぐ)する。即(すなは)ち地獄界(ぢごくかい)にも性(しやう)として・・・・・・菩薩佛(ぼさつぶつ)までを具(そな)へ・・・・・各十界を具してゐるから百界(かい)になる。この百界がそれぞれ十如是(によぜ)を具(ぐ)する(十如是の事(こと)は本誌戸田氏の文章を参照して下さいここには名目(めいもく)をはぶく)それで千如(によ)となる。然(しか)るに世間(せけん)を分(わか)ちて、国土世間(こくどせけん)、衆生世間(しゆじようせけん)、五陰世間(ごいんせけん)、がある、これは国土(こくど)も衆生(しゆじよう)と、佛心(ぶつしん)と見てよろしい。かくて千如(によ)が各々(おのおの)この三種世間(さんしゆせけん)にあるから三千となる。この三千が而(しか)も吾等(われら)の一心中(しんちう)にある。この自己(じこ)の心に三千を具(ぐ)する事(こと)を観念(かんねん)するのが一念三千観(いちねんさんぜんかん)であります。三千と云(い)ふのは一切萬物(いつさいばんぶつ)と見(み)てよろしい。一切萬物が自己(じこ)の心をはなれて存在(そんざい)しないのであります。                                                              これだけのお答(こた)へでは充分(じうぶん)でありませんが、充分なることはお出(い)でになればお話致(はなしいた)します。


修験第三十五號 (昭和四年三月一日發行) 質疑応答①- 度牒(どてう)の意味 -

2011年05月24日 20時37分32秒 | 修験問答

 

「度牒」の意味

   

 御本山(ごほんざん)で得度(とくど)を受けました節御書付(せつおかきつけ)を下(くだ)されました上包(うはづゝみ)に「度牒(どてう)」と書かれてある理由(わけ)をお尋(たづ)ね致します。

   

 度牒(どてう)と云(い)ふのは得度のしるしと云ふ意味(いみ)である。得度と云ふ言葉(ことば)すでに御存知(ごぞんぢ)であらうと思(おも)ふが、念(ねん)の為(た)めに申しあげて置(お)く。得度とは、佛弟子(ぶつでし)になる入門(にふもん)の儀式(ぎしき)である。

 そして得度と云ふ言葉の意味は度(ど)を得(う)る事(こと)、度(ど)とはわたると云ふことです。わたるとは、迷(まよ)ひのこの岸(きし)から、さとりの彼(か)の岸きし、涅槃(ねはん)の彼(か)の岸(きし)に渡(わた)る事(こと)である。

 そして佛道入門(ぶつだうにふもん)の目的(もくてき)はこゝにあるのです。故(ゆゑ)に得度と云ひ、得度の式(しき)には、五戒(ごかい)とか十戒(じゆつかい)とか云う戒(いまし)めをうけますから得度受戒式(とくどじゆかいしき)とも云ひ、又度牒(またどてう)の事を戒牒(かいてう)とも云ひます。


修験第九号 通俗修験問答⑥- とそうの二文字について -

2011年05月16日 17時57分55秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・ところで私共は家にゐて六根を清浄にするといふ事がなかなか困難(こんなん)です。といふよりは到底不可能(とうていふかのう)のことのように思ひます。ある意味において人間の世界は不浄の世界であります。かうした世界でその日を送るのに不浄を怖(おそ)れたり嫌(きらふたりしてゐては、たゞの一日も生きてはゐられませんが、この點はどうしたものでせうか。

答・・・さア、そこです。御説の通り人間の世界は不浄(ふじょう)の世界と観(み)ることが出来ます。併しながら如何に自分の周圍(しゅうい)が不浄だからと云つて、必らずしも不浄の生活をせねばならぬことはない泥(どろ)の中にも『蓮(はす)の花』の譬(たと)へがあるやうに、心がけ如何によつては立派に清浄な生活が出来ると思ひます。眼にもろもろの不浄を見て心にもろもろの不浄を見ず、耳に鼻に舌に乃至手に足にもろもろの不浄を聽(き)いたり、嗅(か)いだり、舐(な)めたり、觸(さは)つたり、それは不浄の世にすむお互として巳むを得ないとしても、心にまでそうした不浄の數々を映(うつ)すには及ばぬことでありませう。過去の七佛も『自(みづからその意(こゝろ)を浄うせよ』と繰返(くりか)へして御説きなされた。浄意(じやうい)の二字こそ佛門修道の第一義であると共に我が修験道の所謂抖擻の肝要(かんよう)でありますお山の戸はしまりました。これから戸あけまでの間はひたすらに常行抖擻の期であります。お互に精進しませう。


修験第九号 通俗修験問答⑤ - とそうの二文字について -

2011年05月16日 12時18分09秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・修験の道がさま佛さまを相手の道であつて、而(しか)も人道に悖(もと)らないものであるということは、朧(おぼろ)げながら諒解(りょうかい)されたやうでありますから、話を元へもどして、御説の常行の抖擻について、いま少しく詳しい御説明を願ひたいと存じます。

答・・・いや、その事は私の方からお話申しあげやうと思つてゐたところです。先ほど私は、常行の抖擻とは人間としての正しい道をふんでゆくことだと申しましたが、これだけでは常行抖擻の説明として甚だ不十分ですから、これから更(あらた)めておはなし申し上げますが、併し詳(くわ)しくと云つても、さう詳細(こまか)に説明しますと、却つて解(わか)らなくなるかと思ひますから、やはり概念(がいねん)だけに止めて置(お)きます。ソコで御質問の常行抖擻でありますが、常行抖擻とは要するに『懺悔(ざんげ)々々六根清浄』の一語につきるのであります。この一語を外(ほか)にして修験道の抖擻はありません。お互は不断(ふだん)に三毒五慾(さんどくごよく)の煩悩(ぼんなう)に災(わざは)ひされて、不知不議(しらずしらずの間に多くの罪(つみ)を作つてゐます。その煩悩のために、この罪障(ざいしょう)のためにお互の心の鏡(かがみ)は常にくもりがちであります。元々お互の心の鏡はすつきりと澄(す)み渡つてゐたのですが、いつの間(ま)にやら煩悩の曇(くも)りが掛つて心の本體、鏡の正體を失つてゐるのであります。お互はどうしてもこの心の鏡にかゝつた曇(くも)りをはらひのぞかなくてはならない。でないと眞人間になれないのであります。如何に立派な風(ふうをしてゐる人でも、その人の心の中は決して立派とは限りません。恐らく十人中九人までは明るみへ出されないやうな醜(みにく)い心の持主でないでせうか。これではつまりません。高祖大士はこうした人間相(にんげんそう)を憐(あわ)れと思召(おぼしめ)して、懺悔(ざんげ)々々六根清浄――抖擻修行の道をお聞き下されたのであります。故にお互は常に六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清浄にして、もろもろの悪業罪障(あくぎょうざいしょう)を懺悔すると共に、善根(ぜんこん)を積(つ)むことに努力しなくてはなりません。これ即ち常行抖擻であります。がお互は凡夫のかなしさに、慣(な)れると兎角(とかく)なまけ易い、故に時々別時の抖擻――高祖が微妙甚深(みみやうじんじん)の秘趣(ひしゅ)によつて御荘厳(ごしょうごん)下された大峰山などに登つて懶(なま)け心を鞭撻(べんたつ)すると共に、心の鏡を砥石(といし)にかける必要があるのであります。


修験第九号 通俗修験問答④ - とそうの二文字について -

2011年05月15日 20時09分15秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・さういたしますと、修験道の修行と世間の道徳とは歸するところ同じですか。同じだとすれば別に修験道の一門(いちもん)をたてるのは變ではありませんか。

答・・・これは又面白い御質問です。勿論修験の道は世間の人倫道徳に違背(いはい)せず、世間の人倫道徳は修験の道に悖(もと)らない。この點から申しますと、世間の道徳と修験道とは畢竟(ひっきょう)同じでありますが、同時にまたソコに違(ちが)ふ點があるのであります。御承知の通り世間の人倫道徳は人間と人間との約束事(やくそくごと)でありますが、修験の道は人間とさまとの約束事です。尤もこれは獨(ひと)り修験道のみに限つたことではなくて、凡ての宗教がみなそうでありまして、宗教の特色は實はこゝにあると云つていゝのであります。今一度繰返(くりかへ)して申しますと世間の道徳は、限りある智慧と限りある能力とを有する人間を相手の道でありますが宗教は全智全能のさまを相手の道であります。こゝに宗教の根深いところがあり、強味があるのであります。


修験第九号 通俗修験問答③ - とそうの二文字について -

2011年05月15日 19時26分16秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・常行の抖擻などゝ承(うけたまわ)りますと、如何にもむづかしい修行のやうに思はれますが、實を申しますと、私共はお山へ登る時でさへ、兎(と)もすれば精進が悪く、なまけ勝ちなのですから、家にゐてはとてもむづかしい修行といふようなことは出来かねます。殊にそれぞれ職業をもつてゐますので、毎日の仕事に追はれて、朝夕のお勤(つと)めさへも碌々(ろくろく)出来ないという有様ですから、到底(とうてい)私共には實行不可能なことではないでせうか。

答・・・いえいえ私のいふ常行抖擻は決して、ソンナにむづかしいことではありません。言葉がかたくるしいので、さようにむづかしく考へられたのであろうと思ひますが、實は常行抖擻などゝ云つても、別段異つた修行を積むのではなく、たゞ平(ひら)たく云へば人間としての道を正しく履(ふ)んでゆくといふことに歸するのです。如何にお山へ登つて入峰修行の度數を重ねましても家にゐて、その日その日の暮らしをたてる上に、人間としての正しい道をふまず、邪道(よこみち)ばかりを歩むやうでは、折角の入峰修行、別時(べつじ)の抖擻が何にもならない。かくては修験道信者として高祖に申譯(もうしわけ)がないのみか、日本の國民としても陛下に相すまず、われとわが身が恥(はづ)かしい次第ですから、お互は何が何でも不断に、人間としての正道を辿(たど)り、人間としての完成を念願(ねんがん)してその日その日を送ることが肝要です。これやがて修験道の所謂常行抖擻であります。


修験第九号 通俗修験問答② - とそうの二文字について -

2011年05月15日 13時14分34秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

  

▼問・・・抖擻の字義はそれでよく解(わか)りましたが、そうしますと抖擻する――煩悩悪魔をはらひのぞくには、どうすればいゝのですか。入峰抖擻といひますから、大峰山や葛城山に登って修行すれば、それで抖擻になるのかとも思ひますが、お山の戸がしまって後、又は家庭の事情や、地理的関係から、そうそうお山へ登ることが出来ないものは、どうしたらいゝのでせうか。

▼答・・・まことに御尤もなお尋ねです。元来修験道でいふ所の抖擻は、これを二つに分けて考えるとよく解(わか)ります。その一つは別時(べつじ)の抖擻、即ち入峰修行のことで、他は常行(じょうぎょう)の抖擻、即ちお山へ登ると否とに拘(かかは)らず、平素家(へいそいへにゐて不断(ふだん)に抖擻することです。高祖の末流(まつりゅう)をくむお互として、この別時の抖擻―― 入峰修行を怠ってならぬことは申すまでもありませんが、同時に又、この常行抖擻を忘れては、修験道信者としての面目がたちません。だからお山の戸がしまって後や、いろいろの事情でお山へ登ることの出来ない方は、不断にこの常行の抖擻を励まれることが肝要だと存じます。


修験第九号 通俗修験問答① - とそうの二文字について -

2011年05月15日 12時37分53秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

▼問・・・修験道では入峰抖擻(にゅうぶとそう)とか、抖擻修行とか云って抖擻といふことを大層(たいそう)やかましくいふようですが、一體抖擻とはどういふ意味のことですか。

▼答・・・なるほど、抖擻の二字は平素(へいそ)あまり見なれない文字ですので、そうしたお尋ねは無理からぬことですが、抖擻とは抖も擻も共に『はらひのぞく』と云つたような意味の文字で、要するにお互いの心の鏡をくもらすところの煩悩(ぼんのう)――悪魔をはらひのぞいて、汚れた心を美しくはらひ浄(きよ)めることだと思って差支ないでせう。