天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第五十二号 質疑応答欄①- 十界の内「天」の境界について -

2012年08月17日 13時40分13秒 | 修験道座談会

 問・・・ 龍樹菩薩(りうじゆぼさつ)は何処(いつこ)の如何(いか)なる方でありますか、何日(いつ)が御命日か又法要の日に当たりますか、龍樹菩薩がお二方あると聞きましたが何を我が高祖の伝法せられた龍樹菩薩とするのですか。 (臥龍生)

答・・・  龍樹菩薩については色々異説(いろゝいせつ)もありますが、普通伝へられてゐる処によると、次の如き方(かた)であります。

 龍樹菩薩は仏の滅後七百年、南天竺(南印度みなみいんど)に生れ、迦毘摩羅尊者(かびまらそんじや)の弟子(でし)となりて仏門に入つた。龍樹菩薩は初め婆羅門種(ばらもんしゆ)に生れ、幼(よう)にして聡明、一切の学問を研究しよく理解した。又忍術(またにんじゆつ)をよくし一種の欲を起した為めに却(かへ)つて身危急(みききふ)に迫られたことがあつた。此時欲(このときよく)は苦の本(もと)なることを悟つて仏門に投じたと云ふことです。そして九十日間に小乗(せうぜう)の三蔵経(さんぞうけう)を読破(どくは)し、更に異経(いけう)を求めて雪山(せつざん)に入つた。此頃印度(このごろいんど)では小乗経は広く行はれてゐたが大乗仏教(だいぜうぶつけう)はあまり行はれてゐなかつたので龍樹菩薩は大乗の経典を求めたものと思はれます。かくて雪山で塔中(たふちう)に老比丘(らうびく)に遇(あ)つて大乗経典を授けられこれを諸寺(せうぢ)しましたが、更に他の経典を求めて諸国を巡(まは)り、遂に自らの教義を打立てんとしました。此時大龍王菩薩(このときだいりうわうぼさつ)と云ふのがあつて、龍樹を導き海中の宮殿(きうでん)に於て、秘密の無量の経典を読ましめた龍樹大(りうじゆおお)いに喜び大いに悟る処あり南天竺(みなみてんぢく)に出で、橋薩羅国引正王(けうさつらこくいんせうわう)の帰依(きえ)をうけ、大いに大乗仏教を広めました、そして老年にして死んだのでありますが其有名(そのゆうめい)なる著書に、大智度論(だいちどろん) 、中論十住毘婆娑論(ちうろんぢうぢうびばさろん) 、菩薩心論等(ぼさつしんろんとう)があります。非常に深い広い教理を説かれたので殆(ほとん)ど各宗で龍樹菩薩をあがめてゐます。

 龍樹菩薩の御命日(ごめいにち)は、 日となつてゐます。

 龍樹菩薩が二人あるとの説は、近頃説いてゐる人もありますが明らでありません。古来の伝説は大体今説いた龍樹菩薩お一人ですから、これを信じられてよいと思ひます。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月14日 08時25分53秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験の服装問題

藤井

修験の服装と天狗の服装が同一なので一寸困りますね、法螺を吹くといふことも世間では悪い意味に用ゐられてゐるし、とにかく修験道は服装について考へ直さねばならぬと思う。

宮城

修験の装束は凛々しくて私共は非常にすきですが天狗の姿に似てゐたり、芝居の勘定帳などに、禍されて尊厳味が失われてゐる点もあるやうです。

草分

修験の装束をつけて乞食をする者のあることは迷惑至極です。

藤井

乞食修験は警察で取締つて貰つたらいゝんですよ。

草分

聖護院一には派乞食修験はほとんどゐないのですが世間では見分けがつかないので同一視されて困ります。それはともかくとして服装問題も大いに研究の余地があります。第一法議を執行する場合と労務に携はる場合とは服装を変へねばいかんと思つてゐます。

宮城

青年団の団服のやうなものを労務服として制定してはどうかね。

藤井

それは面白いでせう。一つ考案することですね。

宮城

しかし、大分時間がたちましたからこの辺で打切ることに致しませう。

原門主謝辞

省略


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月13日 10時25分14秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山伏と天狗

三高教授 阪倉篤太郎 氏

山伏と修験とは全く同じものですか。

藤井

山伏と修験は本来は区別されねばならぬのですが後世は同じものになつて仕舞つたやうです。

中村

山伏は山に臥して行をすらから名つけられたのでせう。随分古くから存在してゐたやうですね。

宮城

験者とか山伏とかは御嶽精進と呼んだのが最も古いのでせう。

岩井

山伏といふのは山武士から来たのではないですか。

中村

御嶽精進を山伏と呼んだのは野に臥し山に臥し修行するところから出たのでせう。

岡田

叡山の回峰行者、北嶺修験ともいひますが、あれなどはいはゆる山伏行者の集団でせうね。

阪倉

拾遺集にも山伏といふ名称が見受けられますがかなり古くからあつたやうです。

中村

平安朝以後にも山伏の名は沢山出て来る。

藤田

山伏が修業して天狗になつたことは太平記にも書かれてありますが。

中村

山伏と天狗はその風貌がよく似てゐます、恐らく天狗は当時山伏の勢力の強かつたこと又は修業を了つた山伏が超人的な法力をもつてゐたといふことを形の上で表徴したものでしやう。

藤井

それで柿山伏の狂言が含む意味がはつきりしますよ。

藤田

徳川時代には天狗の信仰が随分盛んだつたやうだ。

藤井

今でも埼玉地方では天狗の信仰があるやうです。

富田

大津の天狗といふのもあつたと見えますね。彼の明治大帝御東行の際大津の里には鞍馬天狗は出ることならぬといつたやうな貼札が出してあつたと言ひますから。

岩井

天狗のことを ぐひん といふのは天狗の狗と賓客の賓をあてはめるのかね。

藤井

さうらしいですね。

魚澄

天魔の思想が天狗に変つたのではありませんか。

藤田

天魔 は多く悪魔といふ風に解釈せられるが天狗は必ずしも悪くは見られてゐない、例へば秋葉山半僧坊、太郎坊などは皆天狗だが悪い意味には解釈されてゐない。

中村

頼朝の話にも天下第一の大天狗なりといふ言葉があるが増長慢心を意味することに天狗といふ名称が古くから使はれたらしい。

藤井

いづれにしても天狗は外道だ。

岡田

三井寺の先徳でも慢心して天狗になり宙を飛んだといふ伝説があります。しかもその名前まで書かれてあります。

藤井

鞍馬の信仰は天狗の信仰でせうか。

藤田

あれは毘沙門天です、毘沙門天と大黒天は同じらしいです。

宮城

阪倉さん謡曲に天狗が現されたのは何時頃からでせうか。

阪倉

足利の中頃と思ひます。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月12日 08時01分59秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

僧兵的修験の勢力

岩井

大体修験道が民間に勢力を得たのは修験者即ち山伏が僧兵的の力をもつてゐたからでせう、宗教的には朝廷の信仰を得たとも観られるだらうが社会的には修験者が僧兵のやうに朝廷が武家に利用されてゐたのではないか、彼の熊野詣での如きは修験者の懐柔策であつたとも考へられる。

中村

三山検校とか別当とかの力を頼られるのだね。

魚澄

熊野三山は非常な勢力をもつてゐたもので南北朝時代にも南朝の御味方であつたやうです。

藤井

聖護院宮は三山検校職にあられた方が多いが、検校と別当とはどういふ関係にあつたのでせう。

中村

別当の上に検校があつたものですが、実権は別当が握つてゐたやうですね。

草分

検校といふのは今日の名誉総裁のやうなものだつたのではないですか。

中村

まあそんなものだつたのだらうね。

宮城

承久の乱及び元寇の時には聖護院宮がお二人も流罪に処せられてゐられます。これは後鳥羽院、後醍醐帝の御味方をせられたからでせう。

魚澄

修験者は南朝の味方だつたね。

岩井

それ等は明かに修験者が僧兵の如く利用せられたことを物語るもので一方から見れば御奉公申上げたともいへるわけですが実際は南朝が修験の勢力を利用せられたのだ叡山が勢力を張つたのは僧兵をもつてゐたからで聖護院の勢力は修験を抱へてゐたからだ、信仰の勢力といふよりも武力としての勢力であつたのだ。

中村

平安朝時代には修験が教団的に勢力を張りてゐた筈はないが、一体修験は何時ごろから集団的に纏まつたのだらう。

岡田

皇室が修験に重きを置かれたやうになつたのは後鳥羽法皇の前後からでありまして、この時代の修験者には相当名声のある高僧がゐた。三井の頼豪阿闍梨などもその一人です。とにかく顕徳の達人が皇室の信頼を受けそれが修験を統括したから次第に盛んになつたのでせう。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月11日 07時00分20秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

密教と修験

藤井

岡田さん修験道は天台真言と結合して進んで来ましたが天台では山門よりも寺門に関係が深いのはどういふわけです。

岡田

平安朝の宮中は藤原氏の全盛期で寺門には藤原出身の人が多く座主や護持僧も沢山寺門から出てゐたからでせう。

藤井

教理的にも接近する理由があるのではないですか。

宮城

教理的にも寺門の方が関係が深いでせう。

岡田

教理の根本は山門も寺門も一しよですが、山門は支那天台のほかに密教を取入れてゐて顕密の順序を立てるが寺門では顕教よりも密教に重きを置きますから当然関係が深いわけです。

藤井

寺門の修験道は寺門風であり山門の修験道は山門風醍醐の修験は醍醐風といふわけでせう、何しろ平安朝以来天台と真言によつて維持されて来たのですから、しかし、修験道発祥の歴史は天台真言と違つてゐるのだから絶対独立性がないと断ずることはできませんね。

岡田

天台、真言は実践本位で民衆済度に重きを置きますが、その準備が出来るまでは山に籠つて修行を積み、修行が足りてから平地に出て布教するといふことになつてゐますので籠山は僧侶として大切なことです。

藤井

特に密教だけが山林に縁があるといふわけではない現に伝教大師が叡山を開かれたのは入唐以前で密教はまだ伝はつてゐなかつた。

岡田

籠山は要するに化道者としての準備のためである、修験道の入峰は里へ出て働く原動力を作るためである、修験道の入峰は里出て働く原動力を作るためである。

草分

修験道の信者はそれぞれ一定の職業をもつてをるが魂の洗濯に時々入峰するので、信仰の目的は入峰することではなくて入峰は生活の修練である、この点が国民思想にぴつたりと合つて次第に教団的色彩を濃厚にするに至つたのだと思ひます。

 


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月10日 09時03分42秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

葛城は本山独特

藤田

大峰と葛城とをもつて金剛胎蔵に形どり顕蜜二つに分けられたのでせう。

藤井

葛城は法華経中心の道場で法華経二十八品を埋められてゐます。友ケ島には序品を納めた序品窟があります。

宮城

当院では往古から大峰と共に葛城を重大視して参りましたが醍醐の方は葛城修行はやらないやうです。

藤井

明治維新直前にも葛城で夷敵退壌の祈祷が行はれたやうですね。何とかして葛城修行を盛んにするわけにはゆきませんかね。

宮城

峰中が平凡て大峰山上に相当する中心がないものですから・・・・

岩井

葛城は古くから女人に解放されてゐたのでせうか。

宮城

文献はありませんが葛城は顕の山ですから恐らく許されてゐたものでせう。

草分

大体聖護院では春は葛城修行、秋は大峰修行をすることになつてゐます。

岩井

葛城は加茂民族の根拠地だから役行者とは密接な関係があるわけだ。

中村

雄略天皇が葛城へ猟にゆかれた時長人に出会されたとか蓬仙人に逢はれたとかいふが、いはゆる長人や蓬仙人は富士の御来迎のやうなものだつたのではないかね。

岩井

雄略天皇と役行者とは時代が違ふからその話は修験道に何の関係もないではないか。

藤井

長人とか蓬仙とかいふのは道教思想から来たものでないですか。

中村

さうかも知れぬね。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年08月10日 08時28分35秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

大峰中心主義

草分

修験道で大峰山を尊重せねばならぬことは申すまでもありませんが、といつて大峰山に登らなければ修験道の信仰ができないやうに考へることは誤りだと思ひます。

藤井

それはお説の通りです。実際においてあまりに大峰中心主義に陥つてゐる感がある。現に近畿地方に住んでゐるものは毎年一回でも二度でも気の向いた時に入峰が出来るが、遠隔の地方にゐる人は一生に一度の入峰も思ひにまかさぬ人が少くない。それらの人でもやはり修験道の信仰者となることはできるのだから、大峰山を離れても修験道は成立するといふことをはつきり認識させるべきだと思ひます。

宮城

元来修験道は真理に立脚してゐるのだから世界的宗教でなくてはならない、われゝは修験道成立の過程において民族的色彩が濃厚なところから国民的宗教だといつてゐるが、それは中外に施してもとらない国民教であるのである、如何に大峰山が根本道場だからといつて大峰山」を中心とする近畿地方の民間信仰と観ることは大なる誤りです。

藤井

修験道の本山が大峰山にあつて全国各地に末寺とか教会とが分布してゐると都合がいゝのですが・・・・丁度高野山のやうにね。

草分

ところが大峰山と本山とが別ですから修験道の発展を期するには非常に都合が悪いのです。末寺といつてもそれぞれ独立の立場で信者をもつてゐるのですから現在の修験道は教団的にいふと末寺とは没交的の感があります。高野山の大師教会のやうに末寺を中心に結社ができてゐて本山が統括してゐるのだと都合がいゝのですが・・・・

藤井

末寺に対して神変教会の支部とか講中とかを結成さしてはどうです。

草分

理想としては結構ですが実際問題としてはさう簡単にはゆかんでせう。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月21日 16時30分31秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山岳抖擻と保険衛生

宮城

話は変りますが、修験道は山岳に苦修練行することを眼目としますので、これについて、富田先生に、保険衛生の立場から御高説をお伺ひたいと思ひます。

医学博士 富田 精 氏

由来山岳が、治病の上に効果あることは一般に認められるところでありますが、特に近ごろのやうに交通文明が発達して何等自ら労することなく思ふまゝに、電車や自動車によつて身体を運ぶことが出来ると、歩行する必要がなくなり、遂ひには人体機能を委縮させて、少なくとも都会人は医学的に片輪になつて仕舞ふ。もちろん、そこまで到達するのは多くの時を経て後のことになりましやうが、ともかく均整を欠いた人間が、今後続出することは疑う余地がありません。交通文明の発達に伴ふて奇形体の続出することは理論の問題ではなく、現に事実として我々が目撃する処であります。これは由々しい社会問題でありまして、いはゆる種族保存などといふ上からも考慮せられねばならぬ重大問題だと存じます。そのことは別として、山岳の跋踄が健康の上に齎らす効果は顕著なものでありまして、その上に信仰が加はつたならば、一挙両得と申すべきでありませう。昔の人々は山岳の霊気に浸り、併せて健康を保持し、身心二つの鍛錬を得たのでありますが、山岳修行が、直接心臓を強剛ならしめることは実例の示す処でありまして、また心臓の強壮は全身体を強健にする根本であります。かう考へて来ると昔の人が、山岳を選んで信仰を立てたといふことは、誠に敬服すべきだと存じます。尤も同じ山でも、谷には湿気がありまして、健康上宜しくない場合もありますが、北に山を負ひ南に開けてゐる処は理想の健康地です。海は風が吹いても嵐が来ても直接であり、荒くていけませんが、山は樹木が風を遮りますので、人体に影響する処も少ないので、山に親しむことは保健上誠によいことだと存じます。この点におきまして修験道の山岳修行は精神と肉体とを同時に鍛錬することになり、特に都会人には、もつてこいの信仰であると思ひます。近ころハイキングだとか、ピクニックだとか、やかましくいはれますが信仰を本意とする山岳修行は更に一歩進んだものでありまして、千数百年の昔にかうした信仰を樹立せられた祖師の卓見に対して、私は心から敬意を表するものです。

宮城

富田先生のお話は、私共にとつて誠に結構なお説でありまして、今後布教の上に資するところが頗る多いと思ひます。

草分

昔から修験道では加持祈祷による治病を弘教の方便としてゐる者が多いのでありますが、只今のお話しによると、健康増進の方面から信仰を勧めることも出来るわけで、大変結構でした。

藤井

一時加持祈祷によつて病気を癒すなどゝいふと迷信呼ばわりしたものですが、何といつても、病は気からとの諺通り、病気に対しては精神的影響が相当大きいから、加持祈祷も信ずる人には慥かに治病の一方法でせうが、それにも増して山岳修行の健康に及ぼす効果は医学的説明ができるのだから面白いですね。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月18日 08時05分36秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

役行者の偉大なる験徳

岩井

役行者の名が書物に現はれたのは何時頃でしやう。

新村

水鏡・霊異記・続日本記などが古いところではないですか。

中村

続日本記には伊豆の大島に流れた役行者のことが出てゐますね。

宮城

役行者の伝説は行者の没後百数十年後に著された霊異記の記事が最も古いやうです。

草分

修験道の信仰が台頭し、またその勢力が一般に認められたのも、その頃からでしやうか。

藤田

その認められたといふのは、著書や、口伝といふ風な、いはゆる宣伝によつてゞはなく、神変不可思議の功徳が認められたので、この点他の宗教信仰と違つて、名よりも実が先行したのだらう。

岩井

修験道といふ名称は、もちろん後にできたのだらうが教団自体が力を得たのは平安朝も末になつてからだね。

藤井

教団として組織化されたのは、室町時代だといふ人もありますが、何しろ修験道には他の宗派のやうに立教開宗といふ筋がない。役行者を高祖と仰ぐといふけれど後人が行者を尊崇しての事で、役行者が修験道といふ―――名称は後にできたとしても、そうした法門を立てる。即ち立教開宗を宣言したわけではないから、結局長い歴史を経て、何時とはなしに教団化されたもので、先ほど宮城さんの話されたやうな教義も、誰が何時作りあげたといふことなしに、極めて自然に出来上がつたものだと思ふ。

草分

学問的には、いろいろの見方もあるでせうが、宗門として深仙灌頂の血脈―――これは修験の放流が役行者以来着々相承されてゐることになつてゐますので、それを修験者の中心生命として信じてゐるのです。

中村

教団として、それを信じないわけにはゆかぬでせうが自由な立場からは、そのいはゆる血脈に対しても批判はできる。

藤井

学問的に批判はできるが、宗門としては批判を超越した、いはゆる神聖にして冒すべからざるものだらう。ところで先ほど宮城さんから修験道の教義について、お話があつたが、昔の修験道では呪術を相当重要視してゐたやうですね。

中村

第一役行者が呪術に優れてゐたのだ、だから当時の仏教者が役行者を異端者視し、或は外道扱ひをしたのだ。続日本記に出てゐる大島配流のことなども、それがためではないですか。

宮城

怪しい書物ではありますが、道鏡の著といはれる顛末秘蔵記には、当時の仏教者が役行者を外道として讒訴したことが書かれてあります。この記事の文献的価値は別として、とにかく役行者の行蔵は当時の僧侶の眼で見て不可思議千萬のものであつたことは想像されます。何しろ密教が、まだ世に流傳してゐなかつた際に、役行者は密教を修したといふのですから、顕蜜一如とか、即身成仏とかいふやうなことは、明瞭に信仰化されてゐなかつたとしても、役行者の行動は神変不可思議であつたに違いない。

藤井

役行者は呪勤師韓国連広足といふものに讒訴されたといふのですが、呪勤師といふのはどう伝ふ職でせう。敏達天皇の時代に支那から遁甲術はつたといひますが、その遁甲術も呪術の一つでせうか。

中村

呪勤師といふのは、公に認められた職名かどうか調べて見ぬと解かりませんが、呪術といふのは、忍術、隠陽術、周易術等を一しよにしてさう呼んだのでせう。そして韓国連がこれを支配してゐたのではないですか。

藤田

藤原武智麿が韓国連から免許を得た呪術は支那のそれと同じであると伝へられてゐる。韓国連が呪術の免許権をもつてゐたのに、役行者が無免許で盛んに呪術をやつたから訴へられたのではないか。

中村

その呪術の符牒は今にをき朝鮮・台湾等に残つてをり、日本でも家の棟木等に書かれたものだ。

藤井

役行者が密教の修行によつて示した霊験が、当時の人に呪術と身られたとも考へられますね。

草分

要するに役行者が霊験を示して民間の信仰を集めたので、いろんな方面から嫉妬されたのでせう。後世の修験者のやうに験力がなかつたなら、誰も問題にしはせぬでせう。この点からいつても役行者は当時偉大なる存在であつたことが窺はれると思ひます。

岩井

新村先生、役行者の役をエンと読むのはどういふところから出たのでせう。

新村

さあなぜエンと読むのか、まだ調べたことはありませんが、言葉の上からは、異民族のやうに思はれます。エキ・ヤク等といふ語は・・・・

藤井

役はもとエと発音され、エノキミとも、いはれてゐます。

魚澄

さうです。いろんな書物に役をエと読まれてゐますから、何かのはづみにエンとなつたのではないですか。

藤井

それから小角はオヅヌと読むのだといふ人もあり、大角に対する小角で、共に笛のことで、雅楽の家であつたといふ説を立てる人もあります。

岩井

高賀茂氏であるから、加茂民族であつたのだ。

宮城

役公と云ひ、公をゆるされたのですから、よほどの豪族であつたのでせう。当麻寺の建立に家路数百町歩を寄進したといふ伝説もあります。

藤井

相当な家の出だから、容易にあれだけの勢力が得られたともいへますね。もちろん、一世を風靡する威徳をもつてゐたのでもありませうが・・・・・・・


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月15日 08時39分21秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

山に霊気を感ずる信仰

新村

山の霊気に潤を受ける。或は山を神聖視するといふことは萬葉などにもある思想で、日本固有の信仰のやうでありますね。例へば持統天皇の吉野行幸の如きも、やはり山岳の霊気に浸るといふやうなことが一つの御目的であらせられたやうに見受けられます。深山高峰の霊気に浸るといふ考へは随分古くからあつたのでしやう。

中村

天武・持統両帝のころ吉野に離宮ができたのは山の霊気との関係もあるのであらうが、その一面、信仰の大峰・吉野―――即ち修験者の勢力が漸く盛んになつたので、それを利用されたといふか、ともかくもそれが一つの背景であつたと思はれる。

魚澄

白鳳時代の思想といはゆる修験道とは関係が深い、子守勝手宮の名称は修験道の勃興以前からあつたと思はれるが、少くも大和朝時代には、山に神社などを建てゝ崇敬することが盛んに行はれたらしい、その後仏教が興隆すると共に、これをうまく利用したものと考へられる。

藤井

密教なども表面に現れるまでに相当長く潜伏期があつたのではないでしやうか。

宮城

そうです。それよりもヅツと古く印度のバラモンなどが熊野へ漂流したことがあるやうでありまして、彼等は元ジャパ・スマトラ邊りから来たやうに見受けられます。勿論これ等の人が日本へ漂着するまでには色んな島々を経て這入り込んだといふことも想像されますから、お説の如く存外早くから伝へられてゐたかも知れません。

藤井

熊野へ漂着したのは印度人ではない支那人ではないのですか、いはゆる「仙」を求め「蓬莱山」を求めて熊野へ入り込むで来たものでしやう。

新村

異体の民族が漂流して来たことは度々あるやうでありますが、それ等が色んな信仰を伝へたことも見逃せますまい。

宮城

孔雀明王経は役行者よりも以前に日本へ伝へられてゐたと思はれます、といふのは役行者よりも約百年以前に支那で訳せられたことが伝へられてゐますから、当時支那から日本へ渡来する人が相当にあり、しかもその人々によつて、これ等の密教も伝へられたと観ることが妥当のやうに考へられます。

新村

修験道も弥勒の信仰を説くのでせうが、弥勒の信仰は不老不死に結ばれてゐるのではないでしやうか、奈良朝以前には弥勒の信仰が相当盛んであつたと、共に不老不死を求めるといふことも当時の信仰のすべてに織り込まれてゐたやうです。


修験第二十號(昭和十年三月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月08日 08時40分50秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験道の地位とその教義

藤井

宮城さん、宗門の方では修験道をどう取扱つてゐるのか、また修験道の修験道観・・・・・言葉を換へていへば貴師方専門家は修験道をどう観てをられるのか、その邊の事を一つ纏めてお話になつては如何でしす。先ほどから断片的には、いろいろとお話しされた点もありますが、更めてこの際、修験道のアウトラインをはつきりして頂くと大変好都合だと思ひます。

宮城

諸先生のお話を伺ふことを主にいたしてをりましたので、手前味噌は差控へてをつたわけですが、それでは御注意にひまして、一応私共の修験道観を極めて概括的に話させて頂きます。まづ第一に宗門の上における修験道の地位でありますが、修験道は先ほども申し上げました通り、明治維新までは本当両山ともに、教団として公認されてをつたのですが、維新の際宗名を廃して、それぞれ本宗に帰入されることになつて、本山修験は天台宗寺門派に当山修験は真言宗醍醐派に属して今日に至つてをるのであります。そして、私共の方では宗制上、修験道は顕教密教と鼎立する法門として取扱つてゐる。即ち現在の天台宗寺門派は顕・蜜・修験の三法門によつて成立してゐるので、三法門の間には軽重の差はないわけであります。それでは修験道を如何に見てをるかと申しますと、修験道は役行者神変大菩薩を高祖と仰ぎ、高祖の道風、即ち顕蜜一如と申しますが、ともかくも無想三蜜十界一如の教顕を根底とし、大峰・葛城の修行を眼目として、即身成仏を期する法門と観てをります。従つて優婆塞主義による菩薩道の一つであるといつてもよいわけであります。さらに修験道の歴史的過程を顧みると、民族信仰といつたやうな色彩と皇室中心主義的な傾向とを多分にもつてをります。で私共は今日の修験道は宗派として独立した教団ではないけれど、その信仰と教風とは宗派を超越して、日本民族にぴつたりと合致してをるやうに考へてゐます。詳しくお話しすると際限がありませんが、こんなことで如何でせう。

藤井

いやよく判りました。

草分

大体修験道は、いはゆる山岳仏教でありますが、山に神秘を観じる、山を神聖視するといふことは仏教から来た信仰といふよりも寧ろ日本民族固有の信仰ではないでせうか。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年07月05日 08時13分37秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験から派生した新信仰

草分

 天理教も最初は聖護院に関係があつたのです。といふのは天理教々祖の縁者に本山派の信徒がありまして、今でも大和に天輪組といふ講社があり神変教会の支部になつております。

藤井

天理教も最初は天輪王の命といつたさうで、現に天輪組では自分の方が教祖の正統だと主張してゐるさうです。 

藤田

金光教も、大本教も元は修験じやないでせうか。

中村

大本教は吉田神道から出たのです。

藤井

金光教は修験に反対して起こつたものですが、御嶽教や扶桑教は確かに修験から出たものです。

岩井

役小角の時代には山岳信仰はあつてもまだ修験信仰といつたやうなものは無かつたのでせうが、その修験道が大成されたのは何時の頃でせう、平安朝末前説の熊野信仰勃興のあたりからでせうか。

宮城

験者といふ名前は随分古くからありますが修験道として大成されたのは恐らく御説の平安朝末期の頃ではないかと思はれます。

魚澄

神仏習合以前から修験道はあつたのでせう。

中村

もちろんそうでせう。(つづく)


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月12日 18時15分23秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

修験の教風は民族信仰の進化

藤田

護摩の祈祷には甘木を焚いて一家の繁栄を希ひ、苦木を焚いて怨敵を退散せしめるといふが、その作法は今日でも伝はつて居りますか。

中村

三角の壇を作るのは呪の場合だといひますね。

宮城

今日では呪ひの祈祷といふやうなことはやりません。本山の護摩は宝祚無窮を萬民康寧を祈願するために、修行しています。

藤井

徳川時代には熊野御師といふものが地方的に分散してお札をもつて歩いたり祈祷等をしたりして生計を立てゝゐたものです。

中村

修験者も竈の浄祓をしたもので、全国的にそれぞれ縄張りがあつたらしいですね。

藤井

徳川時代における修験道の組織は本山派と当山派と多少違ひますが本山派では本山の下に院家、院室といふものがあり、その下に三十六先達とが年行事、準年行事などいふ役付の修験が居りさらにその配下に霞下といつて平修験がゐたわけで、そうした組織が自ら縄張りを形作つてゐたのでせう。

藤田

大体日本の民間信仰は浄め祓ひが中心となつてゐるもので、修験も結局はその類だらう。また今日の神道では手を叩いて神さまを拝むが、修験道でもやはり拍手する。これは民間信仰の儀式で、源に遡ればさうむづかしいものではないのだが平安朝以後、次第に勿体をつけて免許だとか皆伝だとかいつて事が面倒になつて来たもので、密教なども要するに儀式を秘密にするところから面倒になつたのだと思う。

宮城

お説の通り修験道の起りは一種の民間信仰に基礎を置いてゐると思はれますので、日本に未だ表面密教の渡来せぬ以前から修験道、この名は後のものとしても役行者によつて開かれた宗教は、古くから、それ独自の教風伝統を有し、諸国の山々に苦行練行したものと考へる、奈良朝から平安朝へかけての宗教は、教理が中々煩瑣で、むつかしく又正式の得度授戒等も中々困難であつたので、一般民衆はこれに近づくことが不可能の状態にありましたので、一般民衆として仏教の修行に入る人は諸国の山々に住んでゐた行者に近づき、その弟子となりそれより法をうけたものでこゝに修験行者と民衆といふものが固く結縁したと見られます。そしてその行者の儀式作法も天台、真言の影響を受けてからは一定の型が出来、やがて教団を結ぶに至り今日に及んだものと存じます。

藤田

それでその信仰生活における儀式が漸次民間の行儀作法にも転じ、他面儀式に用ひる衣裳法具神器等も一定されるやうになつて来たので、例へば慈雲尊者の神道目録にある神式作法の如き修験道の儀式によく似てをり天理教の儀式にも似てゐる。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月10日 18時48分05秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

本山修験と熊野大峰の関係

藤田

大体、本山派は贈誉大僧正が熊野三山の検校となりその修行が中心となつて勃興したのだと思はれる、平安朝には平城天皇や白川法王を始めとして、高貴の方々が熊野参籠によつて霊験を亨けさせられ事が多かつたので、自然熊野が霊地として一般に認められるやうになり、従つて役行者の信仰も盛んになつたものでせう。その後も白川天皇は九十度、後鳥羽天皇は三十三度熊野に御参籠の事があつて。益々高貴の御信仰を得ることになつたやうですが斯く高貴の方々が熊野参籠の志を起させられたのはいふまでもなく、深山霊峰には神秘のことが多く、殊に山伏の修行する護摩が悪疫を滅ぼし、怨敵を退散せしむるにいやちこな霊顕があり、更に皇家や貴族の繁栄を招来せしめたといふことが民間に伝はり漸次修験の信仰が盛んになつたものと思はれる。

藤井

その熊野に対する信仰は本山とか当山とかいふ派別以前からのもので、いはば修験道は熊野信仰をもつて発祥したといつてもいゝと思ひます。もう一つ突つ込んでいへば熊野の信仰は役行者以前からあつたいはゆる古有の民族信仰で役行者は、この民俗信仰と自分が体験された信仰とを巧みに融合されて、こゝに、熊野に対する新しい信仰が成立したと観るべきだと思ひます。

宮城

それから修験道では熊野と大峰山とを一つのものに観るのです。一般に大峰山といへば山上ケ嶽のことのやうに思つてゐますが吾々のいふ大峰山は吉野山から熊野に至る一体の山脈を総称していふので熊野も大峰であり吉野も大峰です。

新村

順の峰とか、逆の峰とかいふのはどういふことですか。

宮城

熊野から吉野へ出るのを順峰といひ、吉野から熊野へ向かふのを逆峰といひます。修験道では大峰に胎金両峰の曼荼羅を配置して、金剛界から胎蔵界へ向かふをの逆峰といひ、胎蔵界から金剛界に向かふのを順峰といひまして、この順逆は従果向因、従因向果といふ教理上の説明もつけれれるわけですが帰するところは因果不二で順峰も逆峰も同じことです。

藤井

昔は地理的関係で、熊野が表で、吉野が裏で」あつたのでせうが、今日では交通的に観て吉野が表で熊野が裏のやうになつてしまひました。しかしどちらが表でも裏でも大峰山そのものに異りはない。順峰といひ逆峰といひ、要するに因果の連鎖を意味するものでどちらでもいゝわけですね。

 新村

さう承ると順の峰と逆の峰がよく判ります。


修験第二十號(昭和十年一月一日発行) ― 修験道座談会 ―

2012年06月07日 20時14分35秒 | 修験道座談会

十二月五日聖護院門跡に於いて

在家仏教の先駆

藤井

大峰に対立する葛城には仏教渡来以前から道家の人が立籠つてゐたらしい。

中村

さうらしいね。雄略天皇が葛城山で鷹狩をせられた時長人を御覧になつたといひ、その長人は蓬仙に似てゐたといふやうなことも伝へられてゐるがこれなどは道教のことなんだね。

藤井

多武峰にも道教の観があつたといひますね。

中村

観は天宮のことで天を拝するところに名づけたものらしい。久米仙人がゐた久米寺も道教に関係があると思はれる。

藤井

醍醐の純浄観なども建物の名称としては他に例がない道教から来た名前ではないでせうか。

岩井

しかし観といふことは仏教ではやかましくいふのではないか。

藤井

勿論仏教の行法では観をやかましくいひますが建物を観と呼ぶのはおかしい。話が逆戻りしてまた道教が問題になつたが、私はどうも修験道といふよりも役行者の信仰には道教が混つてゐたと思はれてはならぬ。

宮城

密教は日本へ来る前に支那で道教と結びついてゐたやうですね。役行者は道教と結びついた密教を信じられたのではないでせうか。

岩井

要するに修験道は、天台、真言の教理が難解なところから平易を求めて一向宗が生まれたやうに、仏教渡来当時のむづかしい学問仏教を避けて平易簡易を求めて成立したのではないですか。

宮城

岩井さんの御説は御尤もで、修験道では役行者は聖徳太子の御精神を平民の立場で継承されたものとしてゐるのです。

本山執事 草分 氏

出家仏教ではなくて、優婆塞仏教、在家仏教が修験道の本領ですから、その点は真宗などゝ形が似ています。