天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第百十一号 新編寺門天台宗学読本(1) ―第一編 ―

2013年09月06日 19時18分08秒 | 新編寺門天台宗学読本

第一章 序 章

傳教大師(でんげうだいし)

 日本天台を創(はじ)められ、眞俗一貫(しんぞくいちかん)の菩薩道(ぼだいどう)を提唱(ていせう)しまして、圓(ゑん)の三学の宗教を確立された方は宗祖傳教大師最澄(でんげうだいしさいてう)その人であります。大師は入唐(にふとう)せられて圓(ゑん)・密(みつ)・禅(ぜん)・戒(かい)の四宗(ししう)を比叡山に将来(せうらい)され、延暦廿五年一月廿六日年分度者二人(にちねんぶんどしやふたり)を桓武天皇(かんむてんわう)より賜はりました。この日を以(もつ)て本宗(ほんしう)の開宗記念日(かいしうきねんび)としますが、爾来大師(じらいだいし)は一乗教(いちぜうけう)の宣布(せんぷ)と戒壇建設(かいだんけんせつ)に努められ、遂に弘仁十三年五十六歳を以て示寂(じじやく)された。六月四日はその御命日(ごめいにち)でありますので、山家会(さんげゑ)を虔修(けんしう)して恩徳(おんどく)を鑽仰(さんかう)して居ります。著書「法華秀句(ほつけしうく)」「守護国界章(しゆごこくかいせう)」「顕戒論(けんかいろん)」は一宗の原典(げんてん)で、有名な「山家学生式(さんげがくせうしき)」は一向大乗教団(いちこうだいぜうけうだん)の指導原理と清規(せいき)とを示すものとして非常に尊重されて居ります。

 この様に如来所説(によらいしよせつ)の法華・大日の両経(れいけう)は龍樹菩薩(りうじゆぼさつ)が之を紹隆(せうりう)し、天台・一行(いちげう)の両師(れうし)は能くこれを組織せられたのであります。聖徳太子は日本民族の宗教として採用し給ひ、また神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)は優婆塞菩薩(うばそくぼさつ)の君子(くんし)を主に、宗祖(しうそ)は菩薩僧(ぼさつそう)を中心に圓(ゑん)の三学仏教を建設しましたが、その目的とする所は鎮護国家(ちんごこくか)の一に存するのであります。惟(おも)ふに嚢祖立教(のうそりつけう)の縁由(えんゆう)するところ、聖徳太子の眞俗一貫した国体仏教(こくたいぶつけう)に基き、遠く龍樹・天台・一行・神変等の諸先徳(しよせんどく)の深意(しんい)を窺(うかが)ふて圓密一致(ゑんみついつち)を宗とし、宗祖(しうそ)の眞意を察し給ふて三学一元(さんがくいちげん)の五箇法門(ごかのほうもん)を稟傳(りんでん)されたのであります。されば門末(もんまつ)の吾等(われら)は上記の方々を高祖師(かうそし)として深く帰命(きめい)し、報恩謝徳(ほうおんしやとく)の誠(まこと)を捧(さゝ)げることが肝要(かんよう)であります。


修験第百十一号 新編寺門天台宗学読本(1) ―第一編 ―

2013年09月05日 19時11分08秒 | 新編寺門天台宗学読本

第一章 序 章

神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)

 太子の眞精神(しんせいしん)を継承して優婆塞教団即(うばそくけうだんすなは)ち在家(ざいけ)を中心に、惟神(ゆゐしん)の大道(だいどう)を緯(ゐ)とし、阿字実相(あじじつそう)の要諦(えうたい)を経(けい)として、修験道(しゆげんどう)を創(はじ)め給ふたのは神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)であります。菩薩は世傳(よつた)へて役行者(えんのげうじや)といひ 舒明天皇の六年大和(やまと)に生れ、大峰葛城(おほみねかつらぎ)に斗藪(とそう)しまた箕面山(みのもやま)にて龍樹菩薩(りうじゆぼさつ)の霊感に接して峰中法流(ぶちうほふりゆう)を相承(そうせう)されましたが、その教條(けうでう)は無相三密(むそうさんみつ)・十界一如(じうかいいちによ)を基(もと)とし、山岳霊地(さんがくれいち)に修行することにより六根(ろくこん)を浄化(じょうげ)して即身(そくしん)に験徳(けんどく)を得ることを主眼(しゆがん)とするのです。毎年六月七日は菩薩の御忌(おんぎ)に当たりますので、高祖会(こうそえ)を修(しう)して法徳(ほふどく)を偲(しの)び奉(たてまつ)ることになつて居(を)ります。


修験第百十一号 新編寺門天台宗学読本(1) ―第一編 ―

2013年09月04日 19時45分20秒 | 新編寺門天台宗学読本

第一章 序 章

聖徳太子(せうとくたいし)

 民族精神に契合(けいがう)した国体宗教(こくたいしうけう)として仏教を採用せられたのは聖徳太子の御卓見(ごたくけん)であります。しかしてその中心をなす指導理念は実に法華経(ほつけけう)を根拠とせられ、太子は法華経こそ如来出世(によらいしゆつせ)の本懐(ほんかい)をつくし萬善同帰(ばんぜんどうき)を宗(しう)とする一大教説(いちだいけうせつ)となし、眞俗一貫(しんぞくいつかん)して実践することにより国民の道心を啓発し、国家なる一大目標に総てを帰納(きのう)させ、以て国家をとこしへに鎮護(ちんご)せんと明示(めいじ)し給ふた。太子の正法普及(せいほうふきふ)による国家理念の具現(ぐげん)こそ、寺門法流の「鎮護国家する」理念と合致するものであり、嚢祖(のうそ)が「かの上宮(ぜうぐう)の義いま天台宗正(まさ)しくこれに依学(えがく)す」と明示され一家の高祖師(こうそし)と仰ぐ所以(ゆえん)であります。


修験第百十一号 新編寺門天台宗学読本(1) ―第一編 ―

2013年09月03日 19時24分54秒 | 新編寺門天台宗学読本

第一章 序 章

一行阿闍梨(いちげうあじやり)

 天台大師の滅後百余年、秘密の大教が始めて支那に伝はつて、大日(胎)、金剛界(金)の両経が将来された。一行阿闍梨は両経の将来者であります善無畏(ぜんむい)、金剛智両三蔵(こんがうちれうさんぞう)の大法を受けられ、新来(しんらい)の密教に対して最初に哲学体系を与へその教理を組織された方であつて、唐の開元(かいげん)十五年四十五歳にして示寂(じじやく)せられた。名著「大日経義㚖釈(だいにちけうぎしやく)」十四巻は一字一句悉く珠玉(じゆぎよく)であり実に日本天台の基礎をなす不朽の力作で、その功績は龍樹(りうじゆ)、天台に比肩(ひけん)するものであります。