佛教お伽噺 牛窪弘善 譯
りこうな亀
むかし印度(いんど)という國(くに)にお釋迦様(しやかさま)という大層立派(たいそうりつぱ)なお方(かた)がをられました。その頃(ころ)、一人(にん)の行者(ぎやうじや)がありまして、河(かわ)の傍(そば)の樹(き)の下(もと)で修行(しゆぎやう)してゐました。十二年(ねん)といふ長(なが)い間(あひだ)、頗(すこぶ)るなんぎな修行をしてゐましたが、この行者は、かんじんな心(こころ)が落付(おちつ)かないで、いつもいつも六つの欲心(よくしん)がムクムクおこつてまいるました。六つの欲心(よくしん)といふのは、
目(め)で綺麗(きれい)なものを見(み)たがり、
耳(みみ)でよい聲(こゑ)を聞(き)きたがり、
鼻(はな)でよい香(かほり)を嗅(か)ぎたがり、
口(くち)でおいしい物(もの)を喰(た)べたがり、
身體(からだ)には柔(やはらか)い物(もの)を着(き)たい、
意(ここゝ)は、いつも『どうしやう、どうしやう。』
と思つてゐるのだ。
であるから意(こころ)も身體(からだ)も一向落付(いつこうおちつ)かないで唯(たゞ)ウカウカしているのです。随(したが)つて安心(あんしん)して修行をつゞけることが出来(でき)ないのです。お釋迦様(しやかさま)と申(もう)すお方(かた)は、丁度(ちやうど)おとうさんや、おかあさんが、皆(みな)さんを可愛(かあい)がつて下(くだ)さる様(よう)に大層(たいそう)おなさけぶかいお方(かた)であるから、
『どうかして、あの行者が立派(りつぱ)に修行が出来る様(やう)にしてやりたい。』
と思(おも)はれて、ワザワザそこへお出(い)でになつて一緒(しょ)に樹(き)の下(した)で宿(やど)をとられました。ところが間(ま)もなく一匹(ぴき)の亀(かめ)が、河(かわ)の中(なか)からザワザワはつて出(で)る、そして樹(き)の下(した)までやつて来た。そこへ又一羽(は)の水狗(かはぜみ)がヒヨツクリ出て来た。お腹(なか)がへつてたまらない所(ところ)へ、亀に出(で)つくはしたものだから、すぐその亀を喰(く)はうとした。ドツコイそうはいかない。亀はすぐ頭(あたま)も尾(お)も四本の脚(あし)もみんな縮(ちゞ)めて甲(こう)の中(なか)へかくしてしまつた。もう喰(く)ふことは出来ない。亀の甲は鎧(よろひ)の様(やう)にかたいものだから、水狗(かはぜみ)は
『これは妙(めい)なものだ、とても駄目(だめ)だなア。』
と思つて少(すこ)し歩(あゆ)むと亀はまた頭や尾を出して歩いていく。
水狗(かはぜみ)は『くやしくてたまらない。』がどうすることも出来ないものだから、とうとう外(ほか)へ逃(に)げていつてしまつた。亀はほんとによい命(いのち)びろひをしたものだ。行者はさつきから此(こ)の様子(ようす)をじつと見(み)てゐて
『此(こ)の亀(かめ)には命(いのち)をまもる鎧(よろい)がある。だから水狗(かはぜみ)はどうすることも出来(でき)ないのだ。』
そこで、お釋迦様(しやかさま)が其(そ)の行者に教(をし)へられますには、
『よく考(かんが)へて御覧(ごらん)、この世(よ)の中(なか)には、さつきの亀にも及(およ)ばない人(ひと)が、たくさんゐます・・・・人(ひと)といふものは、いつもこの六つの欲心(よくしん)をだすものだから、悪(わる)い者(もの)がつけ込(こ)んで来(く)る。そして大層苦(くる)しい目(め)にあつて、おまけに命(いのち)まで、とられてしまうのだ。この六つの欲心(よくしん)は心から出た錆(さび)といふものだ。こんな悪(わる)い意(こゝろ)をとつてしまへば安心(あんしん)して世(よ)の中(なか)に樂(たのし)むことが出来(できる)るものだ。
といはわれて、つぎのやうな歌(うた)をうたはれました。
『 六つの欲(よく)をかくせ、人(ひと)たち、 亀(かめ)のごと。』
『 悪意(あくい)をば、ふせげ、人(ひと)たち、城(しろ)のごと。』
『 智惠(ちえ)と、悪意(あくい)と、たゝかひて、悪意(あくい)にかたば、うれひなからん。』
めでたし めでたし
(法句経心意品より)