天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第九号 通俗修験問答⑤ - とそうの二文字について -

2011年05月16日 12時18分09秒 | 修験問答

通俗修験問答   - 抖擻(とそう)の二文字について -  藤井大瞋

 

問・・・修験の道がさま佛さまを相手の道であつて、而(しか)も人道に悖(もと)らないものであるということは、朧(おぼろ)げながら諒解(りょうかい)されたやうでありますから、話を元へもどして、御説の常行の抖擻について、いま少しく詳しい御説明を願ひたいと存じます。

答・・・いや、その事は私の方からお話申しあげやうと思つてゐたところです。先ほど私は、常行の抖擻とは人間としての正しい道をふんでゆくことだと申しましたが、これだけでは常行抖擻の説明として甚だ不十分ですから、これから更(あらた)めておはなし申し上げますが、併し詳(くわ)しくと云つても、さう詳細(こまか)に説明しますと、却つて解(わか)らなくなるかと思ひますから、やはり概念(がいねん)だけに止めて置(お)きます。ソコで御質問の常行抖擻でありますが、常行抖擻とは要するに『懺悔(ざんげ)々々六根清浄』の一語につきるのであります。この一語を外(ほか)にして修験道の抖擻はありません。お互は不断(ふだん)に三毒五慾(さんどくごよく)の煩悩(ぼんなう)に災(わざは)ひされて、不知不議(しらずしらずの間に多くの罪(つみ)を作つてゐます。その煩悩のために、この罪障(ざいしょう)のためにお互の心の鏡(かがみ)は常にくもりがちであります。元々お互の心の鏡はすつきりと澄(す)み渡つてゐたのですが、いつの間(ま)にやら煩悩の曇(くも)りが掛つて心の本體、鏡の正體を失つてゐるのであります。お互はどうしてもこの心の鏡にかゝつた曇(くも)りをはらひのぞかなくてはならない。でないと眞人間になれないのであります。如何に立派な風(ふうをしてゐる人でも、その人の心の中は決して立派とは限りません。恐らく十人中九人までは明るみへ出されないやうな醜(みにく)い心の持主でないでせうか。これではつまりません。高祖大士はこうした人間相(にんげんそう)を憐(あわ)れと思召(おぼしめ)して、懺悔(ざんげ)々々六根清浄――抖擻修行の道をお聞き下されたのであります。故にお互は常に六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清浄にして、もろもろの悪業罪障(あくぎょうざいしょう)を懺悔すると共に、善根(ぜんこん)を積(つ)むことに努力しなくてはなりません。これ即ち常行抖擻であります。がお互は凡夫のかなしさに、慣(な)れると兎角(とかく)なまけ易い、故に時々別時の抖擻――高祖が微妙甚深(みみやうじんじん)の秘趣(ひしゅ)によつて御荘厳(ごしょうごん)下された大峰山などに登つて懶(なま)け心を鞭撻(べんたつ)すると共に、心の鏡を砥石(といし)にかける必要があるのであります。


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