先日、久しぶりに「判例は神、学説はゴミ」という命題に触れた。
これは、安念教授が、
法学教室の演習欄を担当しているときに提示された命題である。
私は、かねてより、
あまりにも判例を軽視しすぎる憲法学説が多い、
と思っていたので、
安念教授の原稿を読んだとき、深い共感を覚えた。
もっとも、判例の中にも、何の理由も述べずに結論を示したり、
およそ妥当とは言い難い結論を、平然と導くものはあり、ゴミはある。
他方、学説のなかには、将来、最高裁を動かしかねない
優れた理論的洞察を示したものもあり、神のようなものもある。
この命題は、
「判例一般が神、学説一般がゴミ」と言っているのであれば、
あきらかにウソだし、
「判例の中には神がいて、学説のなかにはゴミがある」と言っているなら、
神とゴミを区別する基準が示されておらず、不十分である。
結局、安念教授は、もう少し判例をちゃんと読みましょう、という程度の
意味の議論を、過激な言葉で表現しただけだろう。
これが、「判例は神、学説はゴミ」と言う命題に対する
実務家や学者の一般的な感想だったと思う。
しかし、最近、この安念先生の命題は、もう少し奥が深いものではないか
と考えるに至った。
そもそも、「判例は神であり、学説はゴミである」という命題は、
いったい、何なのだろうか?
安念先生はマルチな才能を発揮して多方面で活躍する人ではあるが、
憲法学者の一人であることは否定しがたい。
では、この命題は「学説」なのだろうか?
もし、これが「学説」の一種なのだとすると、
これは、「私はゴミです」という意味の文章になり、
「私はうそつきだ」というような、
いわゆるクレタ人のパラドクスを生じる。
ただ、安念先生は、法学者であると同時に、弁護士である。
この命題も、「弁護士の私見」である可能性はある。
しかし、一実務家の私見が「学説」以上のものであるとは考えにくい。
そうすると、
この命題を「学説」の一種とか、「弁護士の私見」と考えることは、
この命題を「この命題はゴミだ」という命題として理解するものであり、妥当ではない。
したがって、この命題は「判例」だと考えるべきである。
ただ、こう考えると、この命題自体は、神の言葉であり、
「俺は神様だ」という意味の命題だということになる。
多くの人が指摘する通り、
古今東西、「俺は神様だ」という命題ほど胡散臭いものはない。
まるで、「俺は最高法規だ」と主張する日本国憲法98条のようではないか。
……と、いうわけで、
安念先生も厄介な問題を提起してくれたものである。
これは、安念教授が、
法学教室の演習欄を担当しているときに提示された命題である。
私は、かねてより、
あまりにも判例を軽視しすぎる憲法学説が多い、
と思っていたので、
安念教授の原稿を読んだとき、深い共感を覚えた。
もっとも、判例の中にも、何の理由も述べずに結論を示したり、
およそ妥当とは言い難い結論を、平然と導くものはあり、ゴミはある。
他方、学説のなかには、将来、最高裁を動かしかねない
優れた理論的洞察を示したものもあり、神のようなものもある。
この命題は、
「判例一般が神、学説一般がゴミ」と言っているのであれば、
あきらかにウソだし、
「判例の中には神がいて、学説のなかにはゴミがある」と言っているなら、
神とゴミを区別する基準が示されておらず、不十分である。
結局、安念教授は、もう少し判例をちゃんと読みましょう、という程度の
意味の議論を、過激な言葉で表現しただけだろう。
これが、「判例は神、学説はゴミ」と言う命題に対する
実務家や学者の一般的な感想だったと思う。
しかし、最近、この安念先生の命題は、もう少し奥が深いものではないか
と考えるに至った。
そもそも、「判例は神であり、学説はゴミである」という命題は、
いったい、何なのだろうか?
安念先生はマルチな才能を発揮して多方面で活躍する人ではあるが、
憲法学者の一人であることは否定しがたい。
では、この命題は「学説」なのだろうか?
もし、これが「学説」の一種なのだとすると、
これは、「私はゴミです」という意味の文章になり、
「私はうそつきだ」というような、
いわゆるクレタ人のパラドクスを生じる。
ただ、安念先生は、法学者であると同時に、弁護士である。
この命題も、「弁護士の私見」である可能性はある。
しかし、一実務家の私見が「学説」以上のものであるとは考えにくい。
そうすると、
この命題を「学説」の一種とか、「弁護士の私見」と考えることは、
この命題を「この命題はゴミだ」という命題として理解するものであり、妥当ではない。
したがって、この命題は「判例」だと考えるべきである。
ただ、こう考えると、この命題自体は、神の言葉であり、
「俺は神様だ」という意味の命題だということになる。
多くの人が指摘する通り、
古今東西、「俺は神様だ」という命題ほど胡散臭いものはない。
まるで、「俺は最高法規だ」と主張する日本国憲法98条のようではないか。
……と、いうわけで、
安念先生も厄介な問題を提起してくれたものである。
一実務家の私見ということになろうかと思いますが、
「一実務家の私見」というのは神なのでしょうか?ゴミなのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
私が同様の言葉を安念先生から聞いたときは、実務家として判例をどう捉えているかという文脈でその表現が使われていたように思います。実務家を目指す学生に対しておっしゃっているのだから当然といえば当然ですが。先生は、判例や学説の中身の出来不出来に着目して神だのゴミだのおっしゃっているのではありません。ですから、ゴミのような判例があるとか神のような学説があるとかいう言い方をすると、それはもう安念先生が示した命題とは無関係のいわば射程外の議論になると思います。まあそのような意味で日本の判例、学説を評価しろと言われれば、どっちもゴミばかりだと言いかねないくらい過激な方ではありますね(笑)
私のように理系出身の門外漢にとっては、法律学の胡散臭さのタネを解き明かして下さる安念先生は、ある意味神です。もちろん先生のおっしゃること全てに共感できるというわけでもありませんが。
岩波文庫のやつですよね。
何か発見があったら教えてください。
きっと民事訴訟法の理解にも、示唆するところがあると思います。
夏休みにじっくり読んでみようと思います。
ありがとうございました!
「教育者としての見解」を、
法学教育において何が適切な法的判断かを示すことを教える見解とするなら、
これは法学説です。
これに対し、それを
法学教育としての適切性の判断ではなく、
法学の素人の教育論と捉えると、
これは、まあ法学者や法学徒として真剣に
とらえるような命題ではないということになるでしょう。
というわけで、棚上げするしかないのですね。
ぜひ、ゲーデルの不完全性定理について
勉強してみてください。
視野が広がると思います。
とすると、この命題が、法学者また法曹実務家としての見解ならば、命題の判例・学説に命題それ自体が該当するかもしれません。
しかし、この命題は教育者としての見解ならば、判例・(法律学の)学説に該当しないかもしれません。
では教育者としての見解とは具体的になんぞやということになりますが、この辺で議論を「棚上げ」したいと思います。
しょーもない、質問をして申し訳ありませんでした<m(__)m>
記事にしてみました。
>高橋宏志様
判例でも、学説でもないなら、
いったいぜんたい何なのでしょう?
木村先生に(記事とは関係のない…)質問があります。
わたしは憲法学者になりたいと思っているのですが、木村先生が学者になったきっかけは何ですか?
わたしの質問も厄介かもしれませんがお返事いただけると嬉しいです。
おかしくないもw!
>奈良の踊り子様
こんにちは。神様です。
きっと、急所には憲法の神様が降臨された箇所があるのでしょう。
とてもうれしいです。
>トムさま
憲法学者は、そんな憲法自体の胡散臭さや憲法学者自身の胡散臭さを含めて研究している人々なわけですね。
自分の足元を見えていない自称憲法学者もいなくはないでしょうが。ははは。
でも、憲法の最高法規性自体が胡散臭いということは、憲法の存在自体が胡散臭くなりますね。
とすれば、胡散臭い存在の憲法を教える憲法学者も胡散臭くなり、その憲法学者の発言も胡散臭いと言わざるを得ませんね。
ということは、憲法は胡散臭い、という憲法学者の発言も十分胡散臭いことになるから、ここにもクレタ島のパラドックスが存在することになりますね。
この記事を通じて、このような論理を展開しようとするのが先生の意図だったのでしょうか。
実生活では
自分の主張が判例で認められたら現実に救われるけど、学説に認められても現実には救われない。
そういう意味では判例は神で学説はゴミだと思いました。
でも自分の主張が認められ無かったら、一生自分の主張が認められない事になる。とすると判例は悪魔みたいでもありますね。
でも視点を定期テストうつすと…………憲法の急所にむちゃくちゃ助けられました!
その意味では木村先生は神です!
なんかここからおかしいきがすw