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木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

年末の第九批判を考える

2011-12-27 06:28:02 | 音楽
昨日、少しベートーベンは夏の音楽ではないかと述べたのではあるが、
その記事を書いた後、私は読響の第九コンサートに向かったわけである。

さて、当日の指揮は下野先生だったわけであるが、
下野先生は、年末になるとダイクダイクというのにご批判もあろうが、
先生は第九が好きなので、この慣習はとても良いと思う、
という趣旨のことをおっしゃられていた。

確かに、名曲を聴く機会がたくさん提供されていることは
とてもよいことな気がする。
昨日のコンサートではビオラ隊がのりにのっていたことが印象的であった。
ビバ、ビオラ隊。
合唱隊も素敵であった。オペラシティは合唱の響きがとてもいいと思う。
いや、まったく。下野先生のおっしゃる通りである。


ところで、ここから、年末の第九批判派の主張に目を移すと、
欧州では第九は、特別な機会のあるときに演奏される曲であり、
戦後、バイロイト音楽祭が復活に際して、
あるいは、ドイツ統一のお祝いの中で、というのが有名である云々。

あるいは、ウィーンフィルやベルリンフィルのメンバーに
演奏会で第九やったのいつ?と聞くと、
「うーん、いつだろう?」となるのに、
日本のオケのメンバーに聞くと、たいてい迷いもせずに
「去年の年末」と答える云々。


しかし、年末第九批判派の主張は、実は、的外れなのではなかろうか、
という説が、近年では有力である。

欧州で年末年始を過ごした経験のある方に聞くと、
クリスマスは派手に盛り上がるが、
お正月は、比較的落ち着いていたという感想が多い。

確かに日本のお正月は大変である。
12月25日をすぎると、クリスマスかざりをかたし、
お正月飾りにかえなくてはならない。
年賀状、モチ、おせち、おぞうに、初詣、おみくじ、大凶、
箱根駅伝往路、箱根駅伝復路、箱根と言えば山の神、そして大掃除。

日本で正月を迎えるというのは、とても大変なことである。
仕事が忙しく大掃除をさぼったために、
「昨年末は、新年を迎えられないことを覚悟した。」とは
ある文豪の言葉である。


このように見てくると、要するに、日本人にとって新年を迎えるというのは、
ベルリンの壁崩壊に匹敵する重大事なのではないか、とも思われる。

そうすると、年末に第九が演奏されるのは、むしろ当然と言えよう。フロイデ。

シューベルトにあってきた(1)

2011-11-10 15:57:15 | 音楽
月曜日に内田光子大先生のリサイタルにいってまいりました。
シューベルト後期ソナタ(19~21番)のオールシューベルトプログラムです。

ことはシューベルトのピアノソナタです。
おそらく、
読者のほとんどの方がシューベルトのソナタについては
一家言お持ちで、
「貴様!シューベルトについて語るなら
 その覚悟はあるのか!」とお思いでしょう。

また、演奏者は、内田光子。
「内田の演奏の真価を知るのは私だけだ!
 お前に内田の何が分かる!!!」
とお思いの方も多いでしょう。

申し訳ございません。
そのようにお思いになられる方には、
もはや何の反論もございません。

しかし、私のここは語らずにはいられない、という気持ちは、
丸山九段がパパイヤを食べずにはいられないという気持ち*にも
匹敵する
ものなのです。

 *今季、将棋竜王戦の挑戦者丸山九段は、
  おやつの時間、やまもりのパパイヤを発注することが多い。
  詳細は、竜王戦ブログ参照、又は
  「竜王戦 パパイヤ」で検索してください。



さて、シューベルトのピアノソナタの例*にもれず、
長く、場合によっては冗長で、とはいえ精神的に深く、
時にコミカルであり、時に深い悲しみが表現される、
後期三大ソナタ。

 *シューベルトのピアノソナタについては、
  17番について熱く語る
  村上春樹『意味がなければスイングはない』参照。


やや遅れ気味に会場に入りましたところ、
会場は、「上品なおばあちゃん」を中心とした空気。

これは、必ずしも年配の女性の方が多かったというわけではなく
(数えてみれば本当に多かったのかもしれませんが)
その空気の印象です。
小走りに席に着きましたが、お隣の女性は
上品に目配せをし、「間に合いましたか。よかったですね。」
と言う感じ。

独特な空気です。

そして、少し遅れ気味にステージが暗くなり
内田大先生登場。

いつもながら、同じ人間という生き物であるとは思えないくらいに
深いお辞儀。

そして、「さ、やりますよ」と言う感じで、
19番が始まります。激しく始まります。
ここから、40分近く19番です。

ただ、誠に残念かつ不遜ながら、この19番の段階では、
非常に心地よいのですが、今一つ、シューベルトが
何をしたかったのか、わからず、
もやもやを抱えて、19番が終わります。
(19番第四楽章ってなにか、こうせわしないとこありますよね)

大拍手と小休憩の後、20番です。
私、個人的には、ここからがすごかった、いや凄まじかった。

20番は、コミカルなメロディも多く、
内田先生、例によって、歌うように口を動かしながら
丁寧にひいていきます。

ただ、例によってシューベルト。
私は、なかなか世界に入っていけません。さまよっています。

しかし、第三楽章の序盤がはじまったあたりで、
急に眼がしらが熱くなります。
飛び跳ねるような高音域のメロディと、
対照的な低音域のメロディが交錯いたします。

そして、シューベルトの世界にひたりきっている内田大先生の姿を見て、
私は、突如、ここまで聴いてきた第一楽章・第二楽章を含め
「ああ、こういう世界を描くの!」とストンときてしまいます。

このあたりから、私は完全に内田大先生の姿がシューベルトに見えてきます
ピアノコンサートで、演奏者ではなく、
作曲者の姿が見えた体験は、かつてなかったのですが、
(こう文章にしてみると、当たり前もいいところです)
有名作曲家の姿そのものを見た初体験がシューベルト。

そして、感動の第四楽章。
静かに、しかし力強く演奏は前に進んでいきます。

例によって、美しいが、いつ終わるんだ、
いやここで終わってもおかしくない、
いやここで終わると物足りない気もする、
というような、一歩間違えば冗長となる楽曲が進んでいきます。

第三楽章の流れから、檀上のシューベルト大先生は、
この部分はこうやって聴け!と、
自分はピアノの前の特等席、聴衆代表そしてファン代表
という姿で、自分自身がすごく音楽を楽しんでいる様子で、弾き続けます。

じれったいような、しかし、いつまでも終わってほしくないような
そんな不思議で神々しい時間が経過し、
学術論争のような中盤を経て、しずかに語る最終盤。

シューベルト先生は、あわてずさわがず、物静かに
聴衆を盛り上げていきます。

あわてずさわがず物静か。
ベートーベン奇数番交響曲の第四楽章とは対照的ですが、
それ以上にぐぐぐ、っと聴衆は盛り上がっていきます。
見るにシューベルト大先生ご本人の盛り上がりも最高潮。

そして、最後の一小節が終わりました。

いや、本当に凄まじい演奏でした。
最後の音が終わると、定跡ですと聴衆の拍手がはじまるところですが、

この日の20番は、
終わった瞬間から拍手まで、微妙ですが決定的な「間」が開きます。
ははは。感動のあまり、拍手忘れたな。聴衆(私含む)ども。

そして、その「間」の後に、場内、大拍手。
私は、心の底から思ったわけです。
「ここは泣くところですよね。シューベルト先生。
 この演奏で泣けないやつは、今すぐ帰れ!」

そう思って、立ち上がったシューベルト=内田大先生を見ると・・・。
本人が泣いていた

              (つづく、予定です)

バラード四番

2011-09-26 14:52:34 | 音楽
知人の分類によれば、ショパンのバラードに関する派閥は
四つあるという。

ショパンは、バラードを四曲しか書いていないので、
各曲に、派閥、と呼べるような熱心なファンが存在するということになる。

しかも、バラード派は、さらに、
ルービンシュタイン会、ミケランジェリ会(主として1番派の一部)、
ツィメルンマン会、ポリーニ会、ルイサダ会と
細分化していく。

もちろん、バラード派の外には、さらに
マズルカ・スケルツォ・エチュード・ワルツと
大派閥が控え、その外には、
「そもそもショパンはチャラい」という三大B派までいる。



さて、私は、しばらく激しい抗争を忘れていたのだが、
今日、ふいに、第四番派であることを、思い出した。

この曲は、やさしく包み込むような旋律で始まる。
この旋律は、ここで終わってもおかしくないような
ろうそくが消え入る時のような余韻を残す旋律なのだが、
曲は、ここでは終わらず(冒頭の旋律なので当たり前だ)、
その余韻を膨らますように展開して行く。

ショパンのバラード派閥を分類した知人によれば、
この第四番は、「謎めいている」。

まさに、
消え入るろうそくが残した謎(どんな謎だ?)に
思いを巡らせるように、後の部分が展開し、
さらに謎は大きなものになっていく。

そして、聞き終わった後、
この曲は、
明晰な言葉で説明できるような思考は一切していないのに
深いことを考えてしまった・・・、
という奇妙な感覚を残す。

まるでボルヘスの短編ではないか。


と、いうわけで、興味を持たれた方は、
ぜひ、ショパンのバラード第四番ヘ短調Op.52を
聴いてみて下さい。

誰のピアノで聴いても損しない名曲ですが、
個人的には、
ただでさえ謎めいている曲が、さらに謎めくコルトーから入るより、
やはり、メジャーなルービンシュタイン盤から
入るのをお勧めします。

もし、「これこそ!」というOp.52のお勧め盤がありましたら
ぜひ、教えてください。

伊藤先生は誰の盤で聞いていたのか?

2011-09-20 16:56:02 | 音楽
さて、伊藤眞先生の真意ですが、もしかすると、先日コメントしたような深淵な意味ではなく、もっと軽い気持ちで書かれたのかもしれませんね。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を見てみますと、冒頭からユニゾンのホルンがffで下降音形を奏し、全オーケストラがこれまたffのユニゾンで呼応するという、勇壮な始まり方です。しかも、ソロピアノも、あの「ジャーンジャーンジャーン」という10本の指と体躯とピアノの音域をフルに使った、打楽器的なパッセージで始まり、その上を息の長いフレージングを持った雄大なメロディが流れます。

これは、伊藤先生が、初版を書かれていたときの、「これから大著を書くぞ~!」という意気込みを表しており、そのモチベーションを維持するための音楽であるわけです。


とのcolさんのご指摘を受け、少し考えてみました。

確かに、チャイコにしろ、コルトレーンにしろ、
いかにも考えすぎな空気が漂っています。

ここは伊藤先生本人に確かめたいものですが、
こういうものは、敢えて確かめずに、
どうなのだろう?と考え続ける方が楽しいように思います。

さて、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番。
雄大な曲で、これから大著を書く、
という場面にぴったりであるように思うのです。

ところで、この曲の名盤というと、やはり
ホロビッツ・トスカニーニ盤が挙げられます。
私も、長い間愛聴しています。

しかし、この名盤。
冒頭のピアノが、いくら雄大な曲といっても
これはやりすぎなのではないか、というパワーで
始まります。

ピアノから「ボカーン」と表現せざるを得ない
音が出るということを初めて認識させられた体験です。

私は長い間、これは美しくひびかせる他の盤に対する
アンチというか、問題提起だと受け取っていたのですが、
最近、むしろ、このホロビッツ盤が
この協奏曲をメジャーにしたきっかけの一つだったことを
知るに至りました。

ということは、今、何の知識もなく聞いた人には
イロモノ盤に聞こえるあのホロビッツ盤が、
むしろ、正しい解釈ということなのでしょうか?

そして、伊藤先生は、いったい誰の盤で、
協奏曲を聴いていたのでしょう?

謎はさらに深まるばかりです。




・・・。

さて、つづいてmacaroniさんの投稿です。

また、マスターがちょっと怖いので、
マスターと良好な関係を築いておられる木村先生が羨ましいです。
(以前、ジャムを大人買いしたら思い切り不審がられました。
紅茶を買わずにジャムだけだったのがいけなかったのでしょうか。)

ちなみに私の場合、
平等なき平等理論は、モーツァルトのピアノコンツェルトとの相性がよかったです
(上の方のような詳しい解説はできず漠然としててすみません)。



マスターが怖い。
まさにその通りです。
マスターは、客でも、お茶に興味を示さないと
すごく怖いです。
もっと人当りよくすればよいものを、と思いますので、
今度あったら説教をしておきたいと思います。
(たぶん、押し切られますが)

しかし、あそこのジャムおいしいですよね。
私は、助手時代、毎朝、
パンにジャム、そして濃いディンブラを一杯という
朝ごはんを食べていました。


さて、ところで、おっしゃる通り、私は
『平等なき平等条項論』を書くとき、
ミケランジェリのモーツァルトピアノコンチェルト
20&25盤を聴いておりました。

私は、論文を書くとき、
「こんなこと気にする人あんまりいないだろうけど、
 しっかり書いておかないと、
 本当に緻密な人には手を抜いてるの伝わっちゃうんだよな~」
というような毛細血管的に細かいことに
気を使うことをモットーの一つにしております。

例えば、『急所』31ページの
「この審査は、正確には、処分自体を・・・」という文章がそうで、
この記述は、細かいこと気にしない人には
まさにどうでもいい記述なのですが、
やはり、分かる人には分かるわけです。
(実は、法学セミナー最新号の山本先生の論文が
 この箇所をしっかり引用して下さっておりました。
 分かる人には分かるわけです。感謝。)

さて、しかし、こういう細かなことは、やはり面倒であるが故に
おろそかになりがち。

そういうことのないように、と考え、
自分を戒めるために、私はミケランジェリ盤をよく聴いておりました。

聴いたことのある人には伝わると思いますが、
ミケランジェリのモーツァルトは、
緻密に細部にこだわりつくすことが、いかに重要か、
ということを自覚させられる作品です。

そして、背景にミケのモーツァルトが控えていることを、
まさに感じ取ってくださる方とお話しができて、私はとてもうれしいのです。

コルトレーンと青山ティーファクトリー

2011-09-16 14:52:56 | 音楽
コルトレーンのバラードの謎を解くには、
やはり、実際に聴いてみるしかない。

というわけで、コルトレーンのバラードを聴きに
青山ティーファクトリーに行ってまいりました。

こちらのマスターはジャズ好きで、
リクエストすると、お忙しい中、CDをかけて下さいました。




青山ティーファクトリーというのは、
南青山の第一法規の近くにある紅茶屋さんです。

スリランカティーの専門店として有名なお店で、
紅茶好きの方々でいつもにぎわっています。
特に、春と秋の新茶の時期は、新作を心待ちにするファンであふれ、
ちょっとしたお祭り気分です。

早速、この秋の新茶ウヴァを飲みましたが、
ウヴァ臭は控えめで、こうばしい香りが何ともバランス良く、
味に丸みがあって、すっきりと飲めます。




 ↑こちらは、2ポット目の、春摘みのヌワラエリヤ。
  黄金色の茶色に、華やかな香り、しっかりした味でリッチな気分です。
  

私は、助手の頃、行政判例研究会という
第一法規でやっている研究会に出席していたのですが、
その行き帰りに、通っておりました。

値段はとても良心的で、ワッフルもおいしく、
もちろんお茶は天下一品なので、
お近くにお寄りの際は、ぜひ、お茶を飲みに、
また、茶葉を買いに行ってみてください。

紅茶というのは、こうやって楽しむものか~と
思います。

・・・。

コルトレーンのバラードですが、
私、ジャズには全く素人で、
専門的なことはさっぱりでしたが、
おしゃれで、ゆったりと濃密な音楽でした。

これを聴きながら、まえがきを執筆とは、
伊藤先生はずいぶんゆったりとした気持ちで
著書を仕上げられたのだなぁと。

これからは、しっかりジャズも聴いてみようと思います。

               オフロスキーのうた、を聴きながら
                  きむら そうた