私は3月1日に八十路を迎え、貧乏と平穏無事な人生を懐かしく振り返っています。

私は生まれたとき育った土地と建物を戦時中飛行機場に接収され、4歳では父を戦闘機で、15歳には母を肺結核で亡くしました。

天皇陛下のフィリピン訪問の期に、両国の戦没者に慰霊して、天皇と一緒に戦争をしないことを誓いましょう。

2016年01月31日 | 戦争責任

 

各務原市 学びの森の雪景色 

このたびの天皇陛下のフィイリッピンへのご訪問は「慰霊の旅」と聞いていましたが、太平洋戦争の当事国でないフィリピン人が日米戦に巻き込まれて死者が111万人も出たことを知って、愕然としています。

太平洋戦争の被害は、中国と東南アジア諸国に多大な被害を与えていることは承知していました。南洋諸島の戦いでは、米日が陸・海・空軍の戦争をしていたのだと思っていました。

私が生まれた昭和12年(以下昭和を省略)頃より、日本陸海空軍が戦力を強化し、国は、私の先祖の農地も飛行場に取り上げ、大事な父親まで戦闘機造りに徴集し、太平洋戦争開戦の3か月前に飛行機墜落で死亡しました。

親が亡くなった私は、フィリピン戦争のことは殆ど誰からも聞いていません。戦後の日本では、戦争について語る大人は私の周囲にはいませんでした。学校の教科書でも太平洋戦争の詳細については、全く取り上げて教育していませんでした。

私の4歳年上である天皇のフィリピンご訪問は、日本兵の慰霊の旅程度に思っていたのです。

天皇は出発前に空港において「マニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心におき、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。」と述べられました。

多くの死者を出したマニラ市街・レイテ島戦は、終戦の年の10~3月の6っか月間に死者は、米軍が1010人、日本軍が1万6000人、マニラ市民が10万人出ました。「東洋の真珠」と言われたマニラ市街も灰塵となりました。

フィリピンが終戦後の22年に日本軍のBC級戦犯151人を米軍から引き取り、2年間に亘る裁判で軍人79人を死刑判決にしました。

フィリピンの判決は、日本軍の民間人殺害に対しては厳罰でしたが、28年にキリノ大統領による寛大な恩赦により、死刑囚を含む108人が日本に帰国しました。

フィリピン戦中にキリノ氏は妻と3人の子供を日本軍に殺されましたが、そのキリノ大統領が 死刑囚に恩赦を命じたのです。

大統領の孫は後に日本の記者に、祖父が恩赦を命じたのは「国家の罪を、兵士個人に負わせてはならないと考えたのでしょう。フィリピンの復興には日本との良好な関係が不可欠だったこともありました。」と述べていました。

フィリピンのアキノ大統領は、今回の晩餐会のあいさつで、「天皇皇后両陛下に畏敬の念を抱いたのは、生まれながら国民から負託された重荷を担い、両国の歴史に影を落とした時期に他者が下した決断の重みを背負ってこられたということです。」と、両国の揺るぎない関係を築いてきたことに感謝と礼を述べています。

今、世界中で戦争やテロがなくならない時、苦痛や憎しみを原爆や空爆による破壊でもって、相手国に更なる恐怖心を増進する戦争を続けていてよいのでしょうか。

天皇陛下とキリノ大統領の戦争の処理策、過去の戦争の悲しい思いを知り、国を預かる者はこの歴史を学んで考えを深めて行かなくてはいけません。

フィリピン戦の概略は次の通りです。17年1月日本軍がマニラを占領。同年4月米軍降伏、バターン死の行進。18年1月フィリピン独立。19年10月レイテ島で日本軍敗北。20年2月マッカーサーがレイテに上陸。この3年間で双方116万8千人が戦闘で亡くなりました。

天皇が悲しい歴史を見つめておられることには、敬意を表します。私を始めほとんどの国民は、天皇の「慰霊の旅」に、歴史を学ぶ大切さと、平和の尊さを理解していなかったと思います。

中東和平を念じつつ、これからは平和に対する願いを、子孫に継承して行くことに心がけたいと思います。

蘇生



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