私は3月1日に八十路を迎え、貧乏と平穏無事な人生を懐かしく振り返っています。

私は生まれたとき育った土地と建物を戦時中飛行機場に接収され、4歳では父を戦闘機で、15歳には母を肺結核で亡くしました。

米国元大統領トルーマンは、原爆投下の指示して広島・長崎市民35万人殺害したが、終戦で両国兵士と住人の命約1000万人を助けた。

2016年08月07日 | 戦争責任

 

愛知県江南市 すいとぴあ江南から養老山脈を望む 

NHKは広島原爆の日に「決断なき原爆投下」と題してアメリカが日本の広島市に原子爆弾を投下した状況を資料と証言で明らかにしました。

ルーズベルト大統領の急死で、副大統領のトルーマンが大統領になり、僅か4か月後の広島への原爆投下を指示しましたが、短期間に、どうして決断したのか。

マンハッタン原爆開発計画は秘密裏に進められ、軍部のグローブズ准将が主導して科学者オッペンハイマーなど、多くの学者と最高責任者のルーズベルト大統領の間で進められました。

トルーマン大統領就任の10日後、グローブズ准将は大統領執務室にトルーマンを訪ねて、マンハッタン計画書を示します。大統領は原爆開発計画書は見たくないと言います。

准将は一旦始めた計画や作戦は止められないので、大統領の机上に置いて帰ります。

1か月後、ナチスが降伏直前になり、グローブズ准将はトルーマン大統領に手紙を送り「原爆投下目標検討委員会の方針」を送ります。

原爆投下目標検討委員会は、広島は、人口集中地域5キロ以内、周囲に山があり収束作用があるとして適地とします。

しかし、グローブズ准将は5月末以降、陸軍長官スティムソンに6回以上会って、目標地を広島でなく京都にしたいと伝えます。

スティムソンは、グローブズ准将に「ヒットラーの残虐性と変わらない行為、無差別都市攻撃により原爆投下することにならないか。」京都はだめだ。と答えています。

トルーマン大統領は、戦争が長引くことの不安から、自国の兵士の犠牲の拡大の心配もあり、ナチスの敗戦間近であったことがあり、無差別大量破壊攻撃と非難を受けたくないとの思いが強くあったのです。

この後、トルーマン大統領は、戦争を早く終わらせて、米兵を救うためには原爆投下もやむをえないと決断しました。

その判断の後から、トルーマンは「日本市民の犠牲を少なくしたい。」「日本の女性や子供には慈悲の思いがある。」「攻撃は対象は軍事施設にしたい。」と言っていました。

日本国民の戦後の評判では、マカーサー司令官に較べると、トルーマンは南洋諸島や沖縄での戦闘、内地の都市無作為爆撃を見ていたので、悪い大統領だと思っていました。

しかし、私はNHKジャーナルを見て、トルーマン大統領を人間的に見直しています。

NHKジャーナルが「決断なき原爆投下」と題していますが、大統領の決断をテーマにする意味も分かりますが、原爆を兵器にした科学者達も、人を殺すためだけでなく、戦争をいかに早く終わらせるかを考えて作ったとしたら凄いと思います。

日本に原爆投下をしたことをトルーマン大統領は、太平洋戦後、米国での演説で自己弁護であるかも知りませんが、広島と長崎の2個の原爆は、終戦により、米兵と日本で50万人の命を救ったと述べています。

2個の原爆を見るまでは、日本国民1億人総動員令で、本土決戦を覚悟をしていました。

長崎から6日後の、天皇陛下の「終戦の勅語」を受け入れる人は少なかったことからも、本土決戦の神風が止むまでに日米双方で1000万人以上の戦死者を出したのでないでしょうか。

私たちが今、平和に生きていることを、トルーマン大統領の決断に感謝しなければなりません。

蘇生

 

 



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