私は3月1日に八十路を迎え、貧乏と平穏無事な人生を懐かしく振り返っています。

私は生まれたとき育った土地と建物を戦時中飛行機場に接収され、4歳では父を戦闘機で、15歳には母を肺結核で亡くしました。

傘寿を迎えて、野坂昭如さんと我が生涯を並べてみたくなりました。

2015年12月31日 | 貧乏の中の幸

 

木曽三川公園138タワー・イルミネーション 

あけましておめでとうございます。良い正月をお迎えのことと思います。

昨年は、このブログで安保法改正、戦後70年談話、多発テロ事件、ISへの空爆、自衛隊海外派兵等、戦争と平和について、歴史を学習しながら気づいたことを書いてきました。

今年は、経済の状況が心配ですが、私は経済は専門ではありません。生活を中心にいろいろと、 多分野に手を広げたいと思います。楽しみにしています。

「焼け跡闇市派」野坂昭如さんが85歳で亡くなりました。野坂昭如さんほどの反骨精神は、私(満79歳)にはありません。野坂昭如さんとの6歳の違いは大きいのです。単に、幼児期の境遇が野坂昭如さんに似ている程度です。

私の祖先が住んでいた田地田畑は、私が生まれた昭和12年頃に飛行場滑走路を拡張するため徴用され、住んでた家は強制的に飛行機工場近くに移転させられました。その頃に父は陸軍技手となって飛行場で飛行機の修理工として働きました。

昭和16年に父は、仕事で飛行機に乗って八日市飛行場で墜落死しました。引っ越したばかりの私の家は、昭和18年には戦争が激しくなり、飛行機の増産をする工場の拡張で、再度の移転を命じられます。

同20年に軍需工場を狙うB29爆撃機の空襲を受け、工場に近い我が家は危険だったので、私は田舎へ学童疎開をしました。戦後、母は慣れなれない木工会社で働き、過労で結核に罹って長期間の療養を続けて亡くなりました。

戦後の伊勢湾台風では家屋一部が倒壊しましたが、私は奮起して公務員となり、奨学金のお陰で高校と大学に進学しました。どちらも夜間通学でした。

大学の奨学金は卒業後、毎月きちんと支払い完済しました。今の学生は、貧困の連鎖を教育で断ち切るため、国の給付型補助があってもよいとしている。私は教育は自ら向上心を養うもので、国や人の善意によって修得するのでは役に立たないと思ています。

私は大学卒業後、間もなく喀血し、2年間、結核治療をしました。職場への復職は30歳でした。この間も奨学金を返していました。

成長するまでは、収入のない祖父一人に育てられました。私が15歳で就職するまでは、収入源は33歳で死亡した父の遺族年金と、国の生活扶助だけでした。国の援助は私の姉妹が生きるため必要でした。貧乏ではありましたが、戦中戦後は近所の人が援けてくれました。

高校2年生の時、祖父は脳溢血で倒れて5年間病床に伏せたため、家事をする者が居なくなりました。私は大学2年生で結婚をしました。妻は、子を二人生んでくれました。

幼少期は野坂昭如さんに似ていても、祖父がいたことで、私の心は「いじける」ことはありませんでした。軍を恨むことも、米機を憎むこともありませんでした。

私を遊んでくれた近隣の先輩たちは、戦後の混乱の中で、悪事ばかりを働いていましたが、当時は警察も忙しく事件になることはありませんでした。

子供だった私を次から次へと襲ってくる難事に、いつも、落ち着いて最善の対応、先を見る力が自然と備わって行ったとしか考えられません。友達は多くいました。両親のある子は、多くは両親を非難してばかりでした。両親の言動、悪行を私に伝えて父を非難します。父がいない私は、自分で考えて行動できることに寧ろ幸に感じていました。

中学生の頃より、処世術として「清く、正しく、美しく」をモットーとしていました。15歳で私は大人に成長していました。姉二人と妹の結婚については、私が未成年で紋付き袴を着て、親代わりをしました。

世の中、終戦直後で、世が混乱していました。自分の身辺に起きることは事件、事故、喧嘩、競争、ギャンブル、カッパライ、供応などの不正・悪行を多く見ていました。

子供が一人で生きて行くには、他人を頼って生きて行くことも必要ですが、頼った他人の意思に逆らうことはでないことがあります。他人との人間関係のため自分の意思を変える必要が生じます。しかし、それでは強く、正しく生きて行くことはできません。

少年時代の私と母が、結核になったのは、栄養失調が原因だったと思います。当時は大学に学生食堂がありませんでしたので、コッペパン1個で夜食を済ませていました。大学は学生活動が盛んな頃で、哲学や政治学は唯物論の教授に偏っていましたので、私も影響を受けました。

私の中高時代は、戦争直後で日本史は戦前の教科書を墨で黒塗りしてありました。教科の「修身」も無くなり、戦国時代の歴史は殆ど教わっていません。結核の療養中に、ベットで小説を読んで武士の名を知ったくらいです。

世界史についても、学校では勉強したことがありませんでした。安倍内閣の安保法改正の動きの中で、世界の歴史を研究することで、戦争はどうして起きるのかが判るようになりました。

野坂昭如さんは、亡くなる3日前にラヂオ番組に手紙を寄せていました。

野坂さんは、日本が真珠湾を攻撃した今年の記念日12月8日を前に、手紙に「軍が日本の行き詰まりを打開せんとして、ハワイ攻撃をして戦争を始めた。近頃の日本は、かなり物騒がせな世の中になってきた。平和国家は1日で生まれるが、同じく1日で、平和とやらを守ると言う名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。」と死ぬ直前まで日本を心配していました。

そして、野坂さんは「ヒョイとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない。」と300万人も亡くなった太平洋戦争のように今の日本がまたなるのでないか、酷く心配をしていました。

「戦争をしてはならない。」野坂さんの死に際の国民に対する痛切な叫びは、葬儀に集まった参列者600人の顔ぶれからも、毎月一回の定例化した「戦争をさせない市民委員会」や若者らでで作る「シリーズ」のデモに集まる人たちも同じ思いです。違憲な安保法だけは廃止にすべきです。

私は今年、傘寿を迎えます。ブログを始めた4月が来ると3年になります。10日に1回程度の投稿を続けて来ました。そろそろ100回目の投稿になります。

ブログの左側のカテゴリーを見ていただくと分かりますが、第1には憲法を中心にした法律を清く、正しく、美しい運用を求めています。

第2には、健康で楽しい生活です。経歴で触れましたが、2年間の闘病生活をしています。手術をしましたので半年くらいは痛みがありましたが、激しい痛みは手術の翌日だけで、後はよく食べて体力を付けるだけでした。人生の中ではいい休養期間でした。

生涯健康であるためには海馬がある前脳を鍛え、運動、薬事、食事、経験を重ねます。そして医療、保険から健康をどう取り入れて行くか見て行きたいと思います。

第3は、自然環境についてです。地球にも寿命があります。地震と火山は、地球が生きている姿であります。気候の変化により生ずる強風、竜巻、大雨、洪水、砂漠化、解氷、津波、海面の上昇をどう防ぐのか。身近のところで考えて行きたいとおもいます。

蘇生

 

 

 



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