私は3月1日に八十路を迎え、貧乏と平穏無事な人生を懐かしく振り返っています。

私は生まれたとき育った土地と建物を戦時中飛行機場に接収され、4歳では父を戦闘機で、15歳には母を肺結核で亡くしました。

戦争は人の生涯に何を残すか。各務原台地の記憶。

2015年06月09日 | 政界

6月9日の夕焼け 70年前の熱田の大空襲も綺麗でした。

昨日は6月9日でした。70年前の各務原台地とその南方の名古屋市の上空に見た光景を8歳だった私の記憶に基づき伝えます。

昼間でした。空襲警報が鳴り家族は避難をしたのか、私の近くには誰もいませんでした。西方の金華山上空から各務原飛行場に向かって、4機の飛行機が飛んで来きました。低いところを飛んできて突然、飛行機の窓から身を乗り出して機関銃を発射させましたので、先を見ると道路にいた人が撃たれて転倒しました。

私の頭上を飛び去って行った飛行機は、後方の警察署の屋根に作られた物見台すれすれに飛んだので、物見台で警戒に当っていた警察官は、危険を感じて階段を降りようとして足を踏み外し落下しきました。飛行機は飛行場に飛び去りましたが、間もなく飛行場に黒煙が上がりました。

その日の夕方、南方の名古屋上空を見ると、夜で飛行機の姿は見えませんが、B29爆撃機から赤鉛筆の芯を折って大量にばら撒く様子を見ました。30キロ離れていましたが、子供心にキレイだなぁと思いました。後で分かったことですが、熱田大空襲で2千人の死者が出たようです。

各務原には飛行場のほか航空支廠、川崎航空機、三菱重工業といった軍需施設がありましたが、6月22日と6月26日の2度にわたるB29による1トン爆弾攻撃で、工場・施設ともに全てが破壊、焼失してしまいました。1トン爆弾は、飛行機場に近い私の家の北と南200メートルに落とされ、各1個直径5mの大穴を作りました。

6月22日だったと思いますが、爆弾攻撃の後、警察署長の息子と一緒に、警察のトラックに乗せてもらって、飛行機場の周りの被害状況を見に行きました。当時、学徒動員で多数の人が働いていましたから、避難したと思われる100人近くの工員の屍が、道路にごろごろしていたのを見ました。

その後も、岐阜市をはじめ周辺に焼夷弾攻撃が続きましたが、私は7月に入り恵那の親戚へ預けられ学童疎開をしました。

私はまだ元気に生きていますが、私の父と祖父は各務原に飛行場ができるまでは、農業をしていました。田畑は飛行場の用地として国に提供し、父は航空支廠に勤めるようになりました。その父は、大東亜戦争が始まった昭和16年に、飛行機整備工としテスト飛行した際に、墜落事故により33歳で死亡しました。

収入源が無くなった母は、近くの工場で働くことになりますが、過労で結核に罹ってしまいます。パス・ストマイの治療薬は高価で生活保護者には使えず、7年後に39歳で亡くなります。その年に私は、中学を卒業しましたので、就職して公務員となります。そして夜間高校に進学します。

幼少期は、ひどく悪い環境にありましたが、両親健在の同級生と比べ、自立心が強く、理性・善悪識別力に富んでいましたから、先輩・友人に恵まれました。成長期は大学も夜間に進み、体調を崩して、母と同じ結核に罹りましたが、私は薬のお陰で、2年間の療養により、精神力はさらに強くなりました。

長々と自分史を書く心算はありません。戦争で私のような苦労をすることがない生活が大事です。どんな戦争をしてもだめです。集団的自衛権など戦争責任を認めるならとんでもないことです。

真珠湾、満州、中国、南洋諸島、沖縄、広島、長崎、熱田は嫌です。どの戦争も勝つためにしました。少しでも火の粉があるところへは、勝っても、負けても自衛隊は出かけないでください。

学者・弁護士の多くが、新安保法案は武力行使ができるから違憲だと政府を批判しています。これに対して、政府見解は新3要件により武力行使は認められるとしています。武力行使は戦争です。戦争は何時だって双方に正当な意図があります。

武力行使が認められる3要件は、戦争をする為の一方的な都合であって国民の生活を守るものとは思えません。

74年前に戦争を始めた軍人と政治家の子孫は、兵隊と国民300万人を犠牲にした責任を忘れてはいけません。今の自衛隊と現政府が代わって考慮すべきことです。

私の人生は、68年前に制定された憲法と共にあります。私が死んだ後まで、憲法第9条は「解釈の変更」や「改正」をしないでください。

蘇生

日本人の平均寿命80.67歳を超えました。中高大学校同級生はまだ半数以上います。戦争を知る老人は、日本について語る場が無くなりました。

憲法は、アメリカのマッカーサーに準備してもらったかもしれませんが、一院制を二院制に、土地を国有から私有に替えたのは帝国議会草案でした。 議会の審議では自衛戦争の放棄は草案の中にあり、吉田首相も正当防衛や、国の防衛権による戦争もしないと壇上で明確に述べていました。 草案は、衆議院は反対八票の絶対多数で、貴族院の満場一致で可決しました。 ただし、衆議院では九条二項に「前項の目的を達するため」を加えて修正しました。二項は戦力を保持しないとしており、後に、自衛のための戦力が議論されることになりました。 憲法改正から68年の昨年は、安保法改正で国会や、法律家、若者、お母さんが、戦争を意識させるとして、議論されるようになりました。 平和は、日本だけでなく、世界中が戦争をしない国にしないと続きません。しっかりと政治を見て行きたいと思います。