馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

54年前 昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

2021-12-25 07:40:41 | 日記

毎年12月24日 クリスマスイヴの晩は想い出ずる。
そうして、、ブログに毎年、心に刻む。
1967年 昭和42年12月24日
その日、石川さゆり 津軽海峡冬景色の歌はまだなかった。
上野発 夜行列車20時35分発急行黒部に乗車した。
富山に向かった。
54年前のことだ。
現在74歳。
私は逆境を生き延びた。
多くの辛い体験をくぐり抜けた。
波乱万丈壮絶な幾年月。
幸運もあったが、
厳冬期 立山から槍ヶ岳縦走の完遂は
生き抜く精神的原点 拠りどころであった。


ある医師の言葉
人生の長い旅路を歩むうちに
人々は様々な困難に直面します。
ある人は過去の辛い経験を生かして乗り越えることが
できるかもしれません。
一方でこれまで順風満帆の人生を送ってきた人は
「克服できない」と諦めてしまいがちです。
しかしどんな場合でも人は
絶望の向こうに希望を見て
再び歩み始めるものです。
どんな苦しいときでも一度立ち止まって
自分に向き合い
「今やるべきこと、やりたいこと、やれること」を考えれば
やがて解決の糸口が見えてくるものです。
これが多くの癌患者から学んだことの一つです。


いつかはやって来る別離。
人生には満足する完結はない。
全てが道半ばだ。


鈍重、愚か、手際が悪く
何事も人より遅く馬鹿にされたが
我慢、耐える事、
屈辱は決して忘れず
必ず見返すこと。
執念で生きてきた。




辛く苦しく、ギリギリ追い詰められても
あの山行を思い浮かべて耐えた。
あの時代、十分な装備食料もなかった
縦走記録は 山岳雑誌
「岳人」に3度掲載された。
ヒマラヤより困難とされる。
人生を生き抜くということは
平地を青信号で横切るのとは違う。
目の前に、悪魔が絶えず機会を窺っている。



再掲

昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

 2015-12-24 20:29:31

12月24日(木)クリスマスイブ

この年齢になると、クリスマスイブとは縁がとんとありません。

20代の頃も女の子とクリスマスイブを過ごすこともなく

キリスト教系の学校だったが、敬虔なクリスチャンでもなく

キャンパスラウンジでクリスマスダンスパーティーも開かれたが

誘うべき彼女もいなかった。

 

書棚から

昭和45年1月発行の山岳月刊誌

岳人を引っ張りだした。

 

 

黄ばんだ表紙に 特集「積雪期縦走」の見出し。

 

大学体育会山岳部の記録が掲載された。

あの日の暗い思い出を見つめた

クリスマスイブの想い出に浸る。

 

今から48年前1967年 昭和42年12月24日

上野駅 20時35分発急行黒部に乗車した。

恐怖の厳冬積雪期 縦走の始まりだった。

サポート無しで立山から槍ヶ岳までの縦走。

4年生4名3年生2名2年生3名1年生2名。

11名の隊列。

過去にこのコースでの長距離縦走の記録は無かった。

私は1年部員

1年部員は8人に入部したが

この山行に恐れをなして退部する者、拒否する者がいて

1年生は二人だけとなった。

下山後、1年部員が二人だけだったのは

足手まといにならず遭難への危険が回避されたと思った。

富山駅から富山地鉄に乗り千寿ケ原からケーブルをアイゼンで登り

美女平に着いた。

ここから、白一色の世界を彷徨うことになった。

弥陀ヶ原の雪原を40キロのリュックを背負い

ラッセルして豪雪 猛吹雪、視界ゼロでの正しく雪中行軍で

6日間かけて室堂に到着。

12月31日 立山アタック。

見上げる急峻な氷の峰

アイゼンが食い込まない堅氷

氷を油で塗装したような40度の斜面を

ピッケルとアイゼンで3点確保しながら登攀。

立山下山中 私の眼の前で、2年生が烈風でよろけてスリップ

下で止めようとした二人も巻き込み滑落した。

私は恐怖の叫び声と泣き声を発した。

幸い岩に3人共激突して制止。

捻挫の状態のまま縦走を続行。

大晦日から 吹雪で動けず

寒さと恐怖で眠れずツエルトで紅白歌合戦を聞く。

 

 

一乗越し、五色小屋、スゴ乗越を走破して

翌年、1月6日薬師岳山頂に立つ。

当時4年前に薬師岳で愛知大学山岳部が

遭難して全部員13名が死亡した。

日本山岳登山史上最悪の遭難死だった。

 

幕営した時の温度はマイナス18度

 

烈風での体感温度はマイナス36度になる。

1月12日双六岳の小屋に入る。

その日から猛吹雪が続き、一歩小屋を出ると吹き飛ばされる状況。

 

6日間停滞する。

18日が最終帰京日だったが、トランシーバーでの応答も出来ず

伝令も出せなかった。

1月19日 午前2時 星空だ。

風も止んでいた。

 

主将が「良し 行ぞう」

極度の緊張はマイナス18度の体感も感じなくなっていた。

紺青の空に槍ヶ岳の穂先は雪も寄せ付けず

凛として仁王立ちしていた。

 

青氷壁にアイゼンを食い込ませながら登攀するが

疲労でピッチはあがらない。

 

槍の肩に11時40分着く。

槍沢はデブリの海だ。

 

 

雪崩発生を防ぐため、2年生を先頭に、4メートル間隔で

声を出さず、静かに駆け下る。

 

疲労と栄養失調と凍傷で

顔面はただれ、目は飛び出していた。

先頭でのラッセル交代も5m程で交代。

17時半 横尾避難小屋着。

ここから2名の伝令を上高地に出すが

疲労のため途中でビバーク。

 

1月20日 吹雪のない雪道を

気力だけでラッセル。

誰もが無言。

釜トンネル手前で登山者が数名登って来る。

 

目の前に現れたのは、OBの捜索隊。

OBから「おい、お母さんが心配しているぞ」

私は、堪えきれずに声を出して泣いた。

 

1月21日 中の湯に宿泊。

頭上に焼岳の煙を眺めながら露天風呂に浸かった。

22日 帰京。

学長先生 顧問教授 OB関係者

新聞記者 TV局報道部が新宿駅で出迎えた。

 

大学と個人宅に報道関係の電話が入ったのを

後で聞いたのだ。

帰京日が私の誕生日だった。

30日間の行程は未だ破られていない。

 

現在のような冬山登山装備もなく

羽毛寝袋、羽毛服ではない

綿入れのジャンバー

テトロンの防風衣

 

間もなく 半世紀

セピア色になった写真を今宵

当時のクリスマスイブに想いを馳せる。

三途の川を渡った先輩達もいる。

1年部員で現在も在籍は私だけ。

転落死、病死、退学、退部で

一人になってしまった。

 

昭和43年 3月 4年生卒業写真 部室にて
当時の4年生 二人物故
同期の一年生 二人物故

粗雑なパソコンデスク上の
山で逝った
二人に
毎朝、毎晩 挨拶する。

山岳部長 物故
76年の歴史ある山岳部は部員がいなくなり廃部となった。


 

 


 いつかある日  

 

 

 

 

 


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5 コメント

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Unknown (錫杖)
2016-06-15 18:36:40
急行 黒部があったんですね。
それにしても凄まじい冬山合宿ですね
鉄の集団と呼ばれた山岳同志会以上の行動を行っているのではありませんか
 室堂迄6日間のラッセル 40kgもの荷物を背負って想像を絶します。
 冬期小屋が当時はありがたかったことでしょうね 厳冬期の西鎌尾根を槍ケ岳に向って一歩一歩標高を稼ぎとっていく様子。
よくぞご無事で上高地に帰還されたことか
 夏路を知ってるわたしにはあのロングトレイル ただただ感動するしかありません。 横尾街道も長かったことでしょうね
芳野満彦さんが徳沢に越冬していたくらいの話ですね
 感銘しました。
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Unknown (ガーベラ)
2021-12-25 16:27:03
当時と今では装備その他諸々隔世の感があります。
山を通して培われた強靱な思いは芝信用金庫との闘いの素地を作られたのでしょう。
あの頃は純粋に山に対峙していましたね
其れを誇らしく思っていましたから。
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一心さん、こんばんわ (たか)
2021-12-25 17:27:45
昭和42年と言えば谷川岳や妙義を友人と登っていた頃でした。
谷川岳と言っても一般ルートですのでハイキング気分だったでしょうか。
その頃、一心さんは厳冬のアルプスに挑んでいたのですね。

最後の「いつかある日」しみじみと聴かせて頂きました。つい涙が出てしまう感動の歌です。
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Unknown (馬鹿も一心です。)
2021-12-26 07:12:27
ガーベラさん コメントありがとうございます。
自然も人間も怒り荒れ狂うと制御不可能。
静まるまで、頭下げて静かに待ちます。
怒涛が収まった段階でじっくり間合いをとって
脱出するか、間隙をぬって攻撃するかを
厳冬の北アルプスで学びました。
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Unknown (馬鹿も一心です。)
2021-12-26 07:28:18
タカさん 優しいお言葉ありがとうございます。
私がいた山岳部は8人が山で亡くなり
二人は谷川岳厳冬期滑落死
発見まで2年間かかりました。
同期は掴んだ石が抜け滑落死。
生死の運命を司るのは何故か?
74歳にして迷うのです。
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