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ミヤマフキバッタの食事



むちゅうにアジサイの葉を食べるミヤマフキバッタ。
うちは花農家ではないので、面白がってこういう生き物を観察していられますが、これを花市場に出荷するとしたら、商品を傷つける憎っくき敵として、即殺害しなくてはならないでしょう。葉の上にいるのを見つけてからでは遅い。彼らが寄りつかないように、予防として農薬を散布しておくしかないでしょう。虫食いあとのある花を買ってくれる消費者はまあ無いからです。



エンジェルファームの玄関先のアジサイの葉を食べ終わって満足げなミヤマフキバッタ。



コアオハナムグリも玄関先のアジサイに。

思えば、石油が現代文明の爆発的な発展につながりました。けれどこれは地球と人間と他の生き物を痛めることにもなりました。原子力発電が生まれましたが、これもまた多くの人々と多くの生物を苦しめる深刻な事態を生んでいます。

現代の化学農薬は、第一次世界大戦で使用された化学兵器(毒ガス)が起源だといいます。人殺しの兵器が昆虫殺しの兵器に応用された。もともと人殺しの兵器だから人間に害があるのは当然です。

一昨日の6月27日は、オウム真理教にサリンがまかれ8人が死亡した「松本サリン事件」から20年という日でした。あのとき農薬を持っているというだけで、被害者の夫が疑われました。通常、農薬というものは1000倍希釈して散布されるようですが、もし原液を使用したら、人を殺せるだけの力を持っていると警察が認識していたということだと思います。

蜘蛛糸の水玉



今朝、雨やんで蜘蛛糸にからむ水玉輝く。
エンジェルファーム玄関先のギンモクセイ。



ハッサクの葉の蜘蛛糸にも水玉。



前庭のギボウシの花にも。

アジサイアパート



エンジェルファーム玄関先のアジサイ。
左下にミヤマフキバッタでしょうか。





ふと見ると、別の花房にカナヘビ。
頭部はヘビそのものですが、前足後ろ足があってトカゲの仲間。



これが自然界。
アジサイが咲いていればバッタ類がそこを住居とします。そのバッタ類を捕食しようとカナヘビたちがやって来る。そういうこともあってバッタ類だけが異常繁殖することはありません。だからアジサイの葉が食べ尽くされることはありません。バランスのとれた自然界では一種類の生物だけが異常繁殖することはありません、カナヘビのような天敵もいるので、微妙なバランスがとられてきたわけです。

樹齢千年



先日(6月12日)、めったに行かない湯布院に行って
樹齢千年の大杉に出会いました。

オフシーズンということもあってか、久々に行った湯布院は、韓国、台湾、香港からの観光客のかたの多さが印象的でした。もし彼らがいなかったら、街は閑散としていたのではないでしょうか。お店もかなり変化していました。私たちが気に入っていた店がなくなり、飲食店や土産物店になっていた・・・



実は、大分県でもっとも大きな杉が湯布院にあることを知りませんでした。今回たまたま、車から「大杵社の大杉」というごくごく小さな標示を見かけたことによって、この巨樹に会うことができました。湯布院が「樹齢千年の大杉」をアピールしていないおかげで、ここに観光客は誰も来ない。誰にも邪魔されずに、この樹の力強い気、波動、エナジーにふれることができました。

老いること



木喰(もくじき)、90歳の自刻像。
今年2014年2月4日のブログで話題にしました。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/9ee08fbff2cc5ef24a2218d733cf64a5

1718年(享保3年)に山梨の貧しい農家に生まれ14歳で家出。
出家したのが22歳。全国行脚の旅に出たのが56歳。仏像を彫りだしたのが60歳。「円空仏」に並ぶ「木喰仏」として後世に残る独特の作品が生まれるのは80歳をこえてから。91歳までの作品が残っています。

1810年7月6日(文化7年6月5日)、92歳にのたれ死んだという。平均寿命が長くなかった江戸時代に、のたれ死とはいえ92歳の天寿をまったとうした。木喰にしてみれば、のたれ死にこそ本望であったことでしょう。

昨日も話題にしました坂村真民は明治42年1月6日熊本県に生まれ、平成18年12月11日、97歳の天寿をまっとうされました。彼に「老いること」や「晩年」という詩があります。


「老いること」

老いることが

こんなに美しいとは知らなかった

老いることは

鳥のように

天に近くなること

花のように

地に近くなること

しだれ桜のように

自然に頭のさがること

老いることが

こんなに楽しいとは知らなかった



(C)Luxt Design


「晩年」

人生の晩年になって

何をバタバタするか

静かに座して

宇宙無限の

恩恵に感謝し

日の光

月の光

星星の光を

吸飲摂取して

明るく

楽しく

生きてゆけ

尊いのは足の裏である



2012年7月21日のブログに掲載しました。
エンジェルファームでフットセラピーを学ぶワーク生の手と足。

坂村真民(さかむらしんみん 1909~2006)には「尊いのは足の裏である」と題された詩があります。


尊いのは
頭でなく
手ではなく
足の裏である

一生人に知られず
一生きたないところと接し
黙々として
その努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの

しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ


頭から
光が出る
まだまだだめ

ひたいから
光が出る
まだまだいかん

足の裏から
光が出る
そのようなかたこそ
本当に偉い人である


桂子はもともと20代の初期に東京エステティック学院(現在廃校)でフットを初めとする全身のマッサージを学び、それを生かしてきたのでキャリアは長いのですが、さらに自分の技を深めるために2011年から2012年の冬場にかけて、正統的なリフレクソロジーをアメリカで学んだ先生に学ぶため東京に通いました。実はその先生から坂村真民の「尊いのは足の裏である」という詩を教えられたのでした。

このブログでもその成果の一部をアップしました。

2012年9月3日個人レッスン
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/a6c4bcca3be4d3f3b28ce6af37f289ca
2012年7月28日サムウォーク
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/0ba8e2a60c097246ce9bcc4ec1acd0bd
2012年7月21日プロ養成講座
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/c54284a0d05411216fb3b05a434341d7
2012年7月17日フットセラピー・トレーニング
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/3337ae13c1d9300ecdebec5417204825
2012年2月20日フットセラピー
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/2c20a0a4b84c7f93c97db9a434b60644

私たちはヘッドセラピーの普及に務めていきたいと考えていますが、「足も大切。足も奥が深い」と桂子は言います。アタマ重視の時代だからこそ、足に意識を向けるフットセラピーが重要だと考えるわけです。



インド・ガンダーラ地方に残る紀元1世紀の「仏足石(ぶっそくせき)」。
インドではもともと仏像は作られず、このような仏陀の足形を作り、これを仏陀として礼拝しました。これまさに足の裏です。

霊山寺



昨夜、坂村真民(1909~2006 熊本県荒尾市出身)の「あじさいの花」という詩をご紹介しましたが、それは彼の「念ずれば花ひらく」という詩集に収められています。以前ブログで話題にしました「タンポポ魂」も彼の詩です。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/687002252317b58596d74a69a7763977

「念ずれば花ひらく」

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった


上の写真は先月5月28日、初めて大分市の霊山寺(りょうぜんじ)を訪ねたときに境内で見かけた石碑。



関西人の私は奈良の霊山寺をよく覚えています。私は「れいざんじ」と呼んでいましたが「りょうせんじ」「りょうぜんじ」とも呼ばれるようです。奈良の霊山寺には国宝や重要文化財が残っていますが、大分の霊山寺は、薩摩(鹿児島)との戦争や、領主であった大友公の没落によって衰退しました。けれど樹齢約400年のこの大杉はこれこそ国の宝、いや地球の宝です!





この大分霊山寺には、思いがけず山頭火(1881~1940)の句碑がありました。



しぐるるや
しぐるる山へ
歩み入る

昭和4年(1929)、山頭火は霊山寺を訪ねた。
そしてその年こそ私の母が生まれた年
「世界大恐慌」の年でした。

まるくまるく



去年6月15日のブログに掲載しました坂村真民の詩「あじさいの花」・・・
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/484d44f2df84eedee3cd34fca093218f

あじさいの花

まるくまるく
形のよいものに
なろうとする
やさしい心の
あじさいの花

きのうよりも
きょうと
新しい色に
なろうとする
雨の日の
あじさいの花


山口蓬春の「まり藻と花」(1955年)と題された上の日本画は“まるくまるく”がテーマになっています。

アジサイの花、花瓶、丸いグラス、グラスの中の丸い毬藻(マリモ)、丸いテーブル、すべてが丸い、その丸い存在者たちが黒い輪郭によって、ひとつに結びつけられています。広大な宇宙に浮かぶ丸い地球の丸い存在者たちが、ひとつの世界にまとめられている。別々の性質、別々の質感を持つ存在者たちが、“まるくまるく”という造形と、青と緑、淡い紫、花瓶の土色、輪郭と影の黒の色彩の調和のなかで、丸い丸いワンワールドを実現しています。

山口蓬春のアジサイ



現代日本画の大家・山口蓬春(ほうしゅん 1893~1971)の絵。
素敵な優れた絵だと思いますが、私たちと共に生きるエンジェルファームのアジサイはこういう姿ではありません。



玄関先のアジサイの葉にバッタ(ミヤマフキバッタでしょうか?)の子供。葉は彼らにかじられています。アジサイのおかげで、多様な生き物がここを住居とし、食堂とし、休憩の場所とします。

なぜか花弁がかじられることがないのが不思議です。葉は少々かじられますが、何故か少々だけです。アジサイにとってダメージになるほどかじられたのは見たことがありません。



アジサイの葉の裏に逆さまに立つカマキリの子供。



キリギリスの若者。まだ中学生か高校1年ぐらいでしょうか。



これは去年の6月15日のブログで話題にしたベニシジミ。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/484d44f2df84eedee3cd34fca093218f

アジサイにアマガエル



エンジェルファームの玄関先
アジサイにアマガエル。

もしアジサイがなかったら、日本の梅雨は淋しかったと思います。庭仕事をしていてつくづく思います。

私たち人間は植物なしには生きていけません。

第一は酸素。植物が酸素をもたらしてくれます。第二に食物。お米や麦、野菜、果物・・・。第三は住居。樹木が建物の建材や家具をもたらしてくれます。

魚たち、昆虫たち、鳥たち、あらゆる動物・・・植物はあらゆる生き物に恩恵をもたらします。そのことによって私たち人間が生きることのできる環境が維持されます。

植物は生存の基盤をもたらしてくれている。植物なしには生きられない。

でも植物は生存の問題だけでなく“美の感性”をもたらした・・・、つまり人間の心を育ててきたといえるかも知れません。

skype開始



skypeのことは以前より気になっていましたが後回しになっていました。それがとうとう昨日、skypeを利用した個人セッションを開始することができました。今日も行うことができました。

いざやってみると全然難しくありません。
対面でセッションというのが理想ですが、セッションのために九州の奥豊後まで旅するのは困難なことです。従来は電話を利用いただいてきましたが、これからは通信費のかからないskyapeを利用してください。顔を映すこともできるし、録音することもできるのでセッションの内容をくりかえし聞くことができます。

ソフトはskypeのHPから無料ダウンロードできます。
使い方はskypeで検索いれたらいろいろ出てきます。



skypeのskyは空のスカイでした。ロゴマークも空や雲をイメージしているんですね。県境や国境にしばられない自由なイメージでしょうか? 

私たちもそのようでありたいと思います。私たちは都道府県とか国籍とか民族というような薄っぺらな“衣装”が私たちだと思いがちですが、私たちの本当の本質は無限に広がる空のようなものでした・・・