Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

あ、あ、あああるどうくん、

2008年01月12日 21時12分46秒 | Weblog
有道氏のところで、 Iduborさんからの手紙を扱っています。このケースこのブログでもなんどもあつかった。
被害者はやられた、という。
被告人はやってない、という。
有罪になりました。
有道氏の資料は弁護人の提出した記録だけだそうです。で、それでもって日本の司法全体まで、糾弾している投稿を数多くだしている。

ある弁護士の人がいっていました。研修をうけて裁判を傍聴するとびっくりする。
検察の陳述を聞く。なんてひどいやつだ、筋が通っている。こんな残忍なやつはおらん。
弁護人の陳述を聞く。なんて可哀想なひとなんだ、検察は矛盾ばかりじゃないか?無実に違いない。
で、そこから事実を吟味して、裁判が下るわけです。
当たり前の話でしょう。なんでこんな幼稚なことが大人にわからないのでしょうか?

被告を援助するのはいい。しかし、冷静であるべきです。両者の見解をみないで、日本の警察はうそつきだあ!!!というのは単なるアホか、偏見の亡者です。ま、身内の方なら心情はわかりますが・・・

でコメント欄に、最初日本の警察にやられたと思われた外国人が実はどうも本当に犯人らしかった例を挙げています。
ようやくバランスのとれたコメントがでてきましたね。
逆のケースもある。被害者が訴えたが、証言があいまいで起訴を見送ったケース。容疑者は外人。先日の広島の場合ですね。

冷静にものごとをみられない一種のヒステリー状態にあるのでしょうか?

NJ、やっぱ日本語読めると評論も違う。

2008年01月12日 13時36分42秒 | Weblog
Observing Japanさんの記事。今回テロ特措法が再議決されたことについて、英語圏の報道は、福田首相が「強引に無理矢理」成立させたかのように書いているのが多いが、憲法に照らしてみても民主的手続きにそったものであった、というもの。
 どちらかと言えば、民主党寄りのトビアス氏だが、この件に関してごく普通の反応をしめされている。日本の報道はどうかと、みると、左系の朝日でさえわりに抑制された論調である。
 で、英語圏の報道の多くがこのようなものであったにもかかわらず、なぜ、トビアス氏がこうした普通の反応を示すことができたか、というとやっぱり、彼は日本語の新聞を読んでいる。(日本語の新聞の引用が多い)憲法上の手続きも承知しているーーそうした違いであろう。逆に言えば、英語圏の報道の記者が日本の憲法をしらなかったり、日本語の新聞を読んでいないんではないか、と思う。
 そういえば、TPRで日本語の新聞の引用はみたことないし、有道氏が日本語新聞を引用するのは、英語対応版があるときだけである。(SHISAKU さんは日本の新聞雑誌の引用がある)
 いろんな人に意見の相違はある。意見の相違はあってもこうして、日本語の新聞を読んだり、あるいは、憲法などの日本の制度を知っている人々に有道氏の記事やコメント欄のように、はああ?と言わせるような、とんちんかんともいえる発言はない。
 考えてみれば、おれがニューズウイークの日本語版や、アメリカ在住のアメリカに関する日本語の評論のブログを読んでアメリカ論やアメリカの制度論を論じたら、トンチンカンなものになろう。彼らはそんなことをやっているのだ。
 やっぱ、日本語の新聞を読むなり、論じる対象の法律や制度を多少なりと調査してから論じてもらいたいものだ。

リバタリアン

2008年01月12日 07時03分47秒 | Weblog
リバタリアンの要点を短く解説したサイトがあった。
要するに、
個人主義
個人の人権の尊重
自発的秩序

が要で、財産権、法の支配の侵害、権力の政府への委譲に対して反対する、
というようにまとめてある。
このブログでリンクをみつけたのだが、そのコメント欄にネオコンの祖といわれるレオ・シュトラウスのビデオのリンクがあったが、めんどくさいしそれほど聴解力がないので、調べてみるとこんなのがあった。リベラルでも、民主主義者でもなく、一種の強烈な宗教的エリート主義者だったらしい。

多文化主義2

2008年01月12日 05時40分30秒 | Weblog
多文化主義についてもうすこし考えてみたい。案外深い問題なので、これで終了というわけでもない。

前に紹介したにもこれに関するセクションがあり、ハッチングストンの文明の衝突と、映画 EAST IS EASTを引用しながら、解説吟味を加えている。
 映画の中の舞台はイギリス、イギリス人の奥さんをもったムスリムのパキスタン人の家庭が舞台である。
 で、要するに、イスラム教の伝統によれば、親が決めた女性と結婚する、ことになるが、イギリスで生まれ育った息子はそれに耐えられない。そこに葛藤があり、いわば、文明の衝突がある、というわけだ。でも、本当に衝突があるのか、あるとすれば、いかなる前提があるのか、というのがこの教科書の著者の問題意識である。
 自分が誰であるか、自分の支柱はなんであるか、という問題を自己同一性の問題と呼ぶことにしよう。で、

ある種の人々は自己同一性の問題を文化に求める。そして、
文化や文明は両立できない差異がある。とすれば、
多文化共存における、自己同一性の葛藤・衝突は不可避である。

というのがハッチントンらのおおざっぱな論理だ、とする。
しかし、これには前提があって、同一性を自足固定的なものとしてとらえていること、同一性の中に差異があり、自己同一性自体流動的、継続的に変化していくものであることを見逃している、という。例えば、映画の中の息子は単にムスリムでもなく、単にイギリス人でもなく、単にクリスチャンでもない。ムスリムであり、イギリス人であり、クリスチャンでもある。それらの地平が融合しているというわけだ。しかし、ここに、極端なナショナリズムが介入すると、自己同一性が自足的固定的なものと思念され、衝突が不可避になる、というわけだ。
 ここらへんの同一性の議論は、言語には差異しかない、というソシュールや、自足的な同一性を否定する仏教、あるいは、広松渉などを想起させるだろう。
 おれは、こうした差異を重視する思想には寛容だし、この教科書の著者のいうことにも一理ある、と思う。

しかし、疑問もある。

こうした融合を望まない、ナショナリスッテックな人々、あるいはそれを超えてそうした信念を社会、世界全体に拡げようとする原理主義者に対してどう対応するのか、という点である。
原理主義について、ちょっと確認しておこう。
Fundamentalism is style of thought in which certain principle are recognized as essential "truth"that have unchangeable and overriding authority, regardless of their content.....
Religious fundamentalism , however, is different in that it views politics (and indeed all aspects of personal and social existence) as being secondary to the 'revealed truth' of religious doctrine. From this perspective, political and social life should be organized on the basis of what are seen as essential or original religious principles, ....page 63

Fundamentalism can therefore be seen as the opposite of relativism....By this standard, certain political ideologies, notably fascism and communism, can be placed nearer the fundamentalist end of the funamentalism relativism spectrum, while liberalism in particular, disposed as it is towards scepticism by its commitment to reason and toleration , can be placed near the relativist end.page298

 要するにある聖典の解釈を絶対的な真実と信奉し、それを政治社会生活まで蔓延させようとする動きである。
で、こうした、(硬直的同一性)実体主義というか絶対主義にどう対処していくか?

 非常になんていうか、日本人にとってもおれは切実な問題だと思う。

おれとか他の多くの日本人もそうだろうけど、西洋に触れたものは西洋の英知を認めながらも、そのすべての価値観を押しつけられたくないと思っている。その意味では、価値相対主義に親和的である。(価値相対主義について改めて書きたい)
 で、日本の場合は、いままで、いろいろな問題はあったし、いまでもあるのだが、和の精神でうまく多文化との地平を融合させてきたわけだ。しかし、異文化の強烈なナショナリズムがこの社会に押し寄せてきたとき、日本はまたしても和の精神でうまく融合できるか?
困るのは融合を望んでいる相手だけではない、ということである。
おれは一部の在日韓国人や一部のアメリカ系ブロガーの中にそうした、なんていうか、そうした絶対主義的な、融合をのぞまないようなある種のナショナリスティックナな押しつけがましさを感じている。もちろん日本側も頑な対応では駄目だが。

 ただ、これと移民の問題とはまた問題が重なるところもあるが、やはり、異なる次元もある。つまり、外国人労働者、あるいは外国人受け入れに関してはこれはすでにおきていることであり、全く遮断してしまうというのは論外で、この流れはある程度必然で、問題は国家の主権の問題としてどの程度受け入れ、どのような制限を設けるか、という問題だと思う。その上でこうした多文化共生主義の問題がでてくる。

 いずれにせよ、難しい問題だと、思う。何かご意見があれば聞かせてほしい。


更新
アンポンタンさんのところで、上記映画を最悪にしたような事件を紹介していますね。