多文化主義についてもうすこし考えてみたい。案外深い問題なので、これで終了というわけでもない。
前に紹介した
本にもこれに関するセクションがあり、ハッチングストンの
文明の衝突と、
映画 EAST IS EASTを引用しながら、解説吟味を加えている。
映画の中の舞台はイギリス、イギリス人の奥さんをもったムスリムのパキスタン人の家庭が舞台である。
で、要するに、イスラム教の伝統によれば、親が決めた女性と結婚する、ことになるが、イギリスで生まれ育った息子はそれに耐えられない。そこに葛藤があり、いわば、文明の衝突がある、というわけだ。でも、本当に衝突があるのか、あるとすれば、いかなる前提があるのか、というのがこの教科書の著者の問題意識である。
自分が誰であるか、自分の支柱はなんであるか、という問題を自己同一性の問題と呼ぶことにしよう。で、
ある種の人々は自己同一性の問題を文化に求める。そして、
文化や文明は両立できない差異がある。とすれば、
多文化共存における、自己同一性の葛藤・衝突は不可避である。
というのがハッチントンらのおおざっぱな論理だ、とする。
しかし、これには前提があって、同一性を自足固定的なものとしてとらえていること、同一性の中に差異があり、自己同一性自体流動的、継続的に変化していくものであることを見逃している、という。例えば、映画の中の息子は単にムスリムでもなく、単にイギリス人でもなく、単にクリスチャンでもない。ムスリムであり、イギリス人であり、クリスチャンでもある。それらの地平が融合しているというわけだ。しかし、ここに、極端なナショナリズムが介入すると、自己同一性が自足的固定的なものと思念され、衝突が不可避になる、というわけだ。
ここらへんの同一性の議論は、言語には差異しかない、というソシュールや、自足的な同一性を否定する仏教、あるいは、広松渉などを想起させるだろう。
おれは、こうした差異を重視する思想には寛容だし、この教科書の著者のいうことにも一理ある、と思う。
しかし、疑問もある。
こうした融合を望まない、ナショナリスッテックな人々、あるいはそれを超えてそうした信念を社会、世界全体に拡げようとする原理主義者に対してどう対応するのか、という点である。
原理主義について、ちょっと確認しておこう。
Fundamentalism is style of thought in which certain principle are recognized as essential "truth"that have unchangeable and overriding authority, regardless of their content.....
Religious fundamentalism , however, is different in that it views politics (and indeed all aspects of personal and social existence) as being secondary to the 'revealed truth' of religious doctrine. From this perspective, political and social life should be organized on the basis of what are seen as essential or original religious principles, ....page 63
Fundamentalism can therefore be seen as the opposite of relativism....By this standard, certain political ideologies, notably fascism and communism, can be placed nearer the fundamentalist end of the funamentalism relativism spectrum, while liberalism in particular, disposed as it is towards scepticism by its commitment to reason and toleration , can be placed near the relativist end.page298
要するにある聖典の解釈を絶対的な真実と信奉し、それを政治社会生活まで蔓延させようとする動きである。
で、こうした、(硬直的同一性)実体主義というか絶対主義にどう対処していくか?
非常になんていうか、日本人にとってもおれは切実な問題だと思う。
おれとか他の多くの日本人もそうだろうけど、西洋に触れたものは西洋の英知を認めながらも、そのすべての価値観を押しつけられたくないと思っている。その意味では、価値相対主義に親和的である。(価値相対主義について改めて書きたい)
で、日本の場合は、いままで、いろいろな問題はあったし、いまでもあるのだが、和の精神でうまく多文化との地平を融合させてきたわけだ。しかし、異文化の強烈なナショナリズムがこの社会に押し寄せてきたとき、日本はまたしても和の精神でうまく融合できるか?
困るのは融合を望んでいる相手だけではない、ということである。
おれは一部の在日韓国人や一部のアメリカ系ブロガーの中にそうした、なんていうか、そうした絶対主義的な、融合をのぞまないようなある種のナショナリスティックナな押しつけがましさを感じている。もちろん日本側も頑な対応では駄目だが。
ただ、これと移民の問題とはまた問題が重なるところもあるが、やはり、異なる次元もある。つまり、外国人労働者、あるいは外国人受け入れに関してはこれはすでにおきていることであり、全く遮断してしまうというのは論外で、この流れはある程度必然で、問題は国家の主権の問題としてどの程度受け入れ、どのような制限を設けるか、という問題だと思う。その上でこうした多文化共生主義の問題がでてくる。
いずれにせよ、難しい問題だと、思う。何かご意見があれば聞かせてほしい。
更新
アンポンタンさんのところで、上記映画を最悪にしたような
事件を紹介していますね。