以前紹介した慰安婦問題に関するコメント欄での討論がいつのまにか終了していた。どうもある種のフェミニストは単なる反日運動家ではないか?という疑問をいだかせる、内容である。被害女性が誰の犠牲者によるかで、救済するかしないかに別れるらしい。
因みに、苺畑さんがある種のフェミニストは反ユダヤ主義ではないか、という問題提起をされているが、ある種のフェミニストたちは、こうした偏向があるのだろうか。
ま、おれは前にも言ったがフェミニズムというものを入門程度しか知らんから、全般について何もいえないが・・・
で、慰安婦問題に話しを戻すと、要するに、慰安婦も問題は各国で行き詰まりがある。アメリカ韓国日本ドイツオランダそれぞれ加害者としての慰安婦問題を抱えている。日本は謝罪と補償を提供したが、批判もある。そんななか、欧米は日本に対してさらなる謝罪をするように求めた。
日本としては、自国はすでに謝罪したのだから、さらなる謝罪を求めるとすれば、お前らも謝罪するのが筋だろう、と言いたい。
他国のなかには、日本よ、お前加害国のくせして、他国のことを云々するのは責任回避の目くらましやらかしているのではないか、というものもいる。
で、いずれにせよ、欧米韓国などの元性的奴隷たちはなんらの謝罪も救済もないまま、薄汚れた女性として歴史のなかに埋まっている。
どっち向いてても、にっちもさっちも動きがとれない状態にある。
で、このような行き詰まり状態を前提に、上記討論で出されている提案が、
というものだ。
で、これにみんなに協力を呼びかけ、また協力していこうではないか、というものである。
しかし、当該フェミニストはそれはできない、という。
なんとなれば、彼女の加害国側にたつ「ポジショナリティ」の故に。
つまり、何万といるかもしれない権利を剥奪された被害者女性を救済する必要は認めるもの、自分のポジショナリティ故にそれはできない、というのである。
冷酷で偏向した立場だとは思いませんか?
そもそも、それなら米国や韓国などのフェミニストも加害国側にたつのだが、随分窮屈な活動を強いられることになる。
で、多くの被害女性の権利を回復に対する協力を拒むほどの、そのとっても大切なポジショナリティとは何か、というと、当該論者によれば、
ということだそうです。
ちょっと、哲学百科を調べてみると、
要するに、不易で、自存的非歴史的非社会的な女性性なるものがないことを前提に、女性を平等な権利や機動性を剥奪された立ち位置にいるものとして、かつまた、こうした不正を是正し、女性を再定義していく出発点としての立ち位置、というくらいな意味で使っているフェミニストがいるようだ。
とすれば、むしろ女性の連帯を呼びかけるものであり、この論者は他のフェミニストとは異なる意味で使っているのだろう。
他のフェミニストによるネットにおける使用例をみると、例えば
ここでも当該論者とは全く逆の意味で使われている。本件に即して言えば、加害国側の人間としての自覚を持ちつつも人種を越えて女性と連帯していく愛じゃないのか?
当該論者だけが単に偏屈なのだ、と言ってしまえばそれまでだが、しかし、ドイツ米国オランダ韓国のフェミニストが自国の性的奴隷問題に関して沈黙しているところをみると、また苺畑さんの記事などを読むと、いわゆるフェミニストと呼ばれる人々は、かなり偏向したものがあるともいえるのかもしれない。
もっとも、こういったところで、フェミニスト一般に当てはめるつもりはないし、日本の男女に関する公平な扱いに関しては、こうした偏向したフェミニストとはべつに、どんどん推進にしていくべきだ、と思っている。
因みに、苺畑さんがある種のフェミニストは反ユダヤ主義ではないか、という問題提起をされているが、ある種のフェミニストたちは、こうした偏向があるのだろうか。
ま、おれは前にも言ったがフェミニズムというものを入門程度しか知らんから、全般について何もいえないが・・・
で、慰安婦問題に話しを戻すと、要するに、慰安婦も問題は各国で行き詰まりがある。アメリカ韓国日本ドイツオランダそれぞれ加害者としての慰安婦問題を抱えている。日本は謝罪と補償を提供したが、批判もある。そんななか、欧米は日本に対してさらなる謝罪をするように求めた。
日本としては、自国はすでに謝罪したのだから、さらなる謝罪を求めるとすれば、お前らも謝罪するのが筋だろう、と言いたい。
他国のなかには、日本よ、お前加害国のくせして、他国のことを云々するのは責任回避の目くらましやらかしているのではないか、というものもいる。
で、いずれにせよ、欧米韓国などの元性的奴隷たちはなんらの謝罪も救済もないまま、薄汚れた女性として歴史のなかに埋まっている。
どっち向いてても、にっちもさっちも動きがとれない状態にある。
で、このような行き詰まり状態を前提に、上記討論で出されている提案が、
戦時性性的奴隷問題に関して、日本は改めて、欧米韓国などは初めて共通の基準に従って謝罪補償をすべきだ
というものだ。
で、これにみんなに協力を呼びかけ、また協力していこうではないか、というものである。
しかし、当該フェミニストはそれはできない、という。
なんとなれば、彼女の加害国側にたつ「ポジショナリティ」の故に。
つまり、何万といるかもしれない権利を剥奪された被害者女性を救済する必要は認めるもの、自分のポジショナリティ故にそれはできない、というのである。
冷酷で偏向した立場だとは思いませんか?
そもそも、それなら米国や韓国などのフェミニストも加害国側にたつのだが、随分窮屈な活動を強いられることになる。
で、多くの被害女性の権利を回復に対する協力を拒むほどの、そのとっても大切なポジショナリティとは何か、というと、当該論者によれば、
ポジショナリティーー社会や歴史を生きることによって否応なく背負わせられている権力構造上の立ち位置
ということだそうです。
ちょっと、哲学百科を調べてみると、
Postmodern challenges to the idea of a stable self and to the coherence of the category woman’ have sparked a lively debate about the relation between gender and the self. If there is no such thing as a self with persistent attributes, it seems that gender cannot be a feature of every woman's identity. But if there is nothing that all women have in common, it seems that there are no interests that all women share, and there is nothing for feminism to be about. Several feminist philosophers have proposed accounts of the relation between gender and the self that aim to rescue feminism from this reductio. Linda Alcoff rejects both the universalized conceptions of gender that cultural feminists advocate and the deconstructions of the category ‘woman’ that poststructuralist feminists tender. Her alternative is to construe femininity as "positionality." Positionality has two dimensions (Alcoff 1994). First, it is the social context that locates the individual and that deprives her of power and mobility. Second, it is a political point of departure ― the affirmation of women's collective right to take charge of their gendered identity. To be a woman is, then, to be deprived of equality, and to be a feminist is to take responsibility for redressing this wrong and for redefining the meaning of being a woman. Alcoff salvages the category ‘woman’ by defending an interpretation of the social meaning of being assigned to that category
要するに、不易で、自存的非歴史的非社会的な女性性なるものがないことを前提に、女性を平等な権利や機動性を剥奪された立ち位置にいるものとして、かつまた、こうした不正を是正し、女性を再定義していく出発点としての立ち位置、というくらいな意味で使っているフェミニストがいるようだ。
とすれば、むしろ女性の連帯を呼びかけるものであり、この論者は他のフェミニストとは異なる意味で使っているのだろう。
他のフェミニストによるネットにおける使用例をみると、例えば
女性の解放運動は、単なる白人女性の解放運動ではなく、人種差別撤廃運動にもならざるを得なかったのだ。「姉妹愛sisterhood」は、人種をとわず、女を愛することであれば、「有色」女性を苦しめている人種差別を撤廃する運動に発展しないといけなかったのだ。
「女」=中流階級の白人と思い込んでいた白人女性は「中立」の立場に立てられなくなり、はじめて「有色」女性と同じように、人種の問題を考えないといけなかったのだ。変わったのは、日常的に自らの「人種」を意識させられる「有色」女性と同じように自らの「人種」を意識し始めたということだけである。
そのなかから、「ポジショナリティ」という概念が成立したのでは、という気がする。自分がどの立場に立っているかって、友達になりたい女性や「連帯」したい相手を見て、考える。本格的にフェミニズムをやりたければ、フェミニズムは当然白人女性だけのものでるかのように独占するではなく、白人至上主義が「有色」女性を苦しめてきたという現実をみないといけない。一応、最低限の礼儀としてリンク。
ここでも当該論者とは全く逆の意味で使われている。本件に即して言えば、加害国側の人間としての自覚を持ちつつも人種を越えて女性と連帯していく愛じゃないのか?
当該論者だけが単に偏屈なのだ、と言ってしまえばそれまでだが、しかし、ドイツ米国オランダ韓国のフェミニストが自国の性的奴隷問題に関して沈黙しているところをみると、また苺畑さんの記事などを読むと、いわゆるフェミニストと呼ばれる人々は、かなり偏向したものがあるともいえるのかもしれない。
もっとも、こういったところで、フェミニスト一般に当てはめるつもりはないし、日本の男女に関する公平な扱いに関しては、こうした偏向したフェミニストとはべつに、どんどん推進にしていくべきだ、と思っている。