Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

慰安婦問題を通じてーーーーある種のフェミニストの女性に対する残酷な偏向さーー

2008年01月16日 15時10分00秒 | Weblog
以前紹介した慰安婦問題に関するコメント欄での討論がいつのまにか終了していた。どうもある種のフェミニストは単なる反日運動家ではないか?という疑問をいだかせる、内容である。被害女性が誰の犠牲者によるかで、救済するかしないかに別れるらしい。

  因みに、苺畑さんがある種のフェミニストは反ユダヤ主義ではないか、という問題提起をされているが、ある種のフェミニストたちは、こうした偏向があるのだろうか。

 ま、おれは前にも言ったがフェミニズムというものを入門程度しか知らんから、全般について何もいえないが・・・

 で、慰安婦問題に話しを戻すと、要するに、慰安婦も問題は各国で行き詰まりがある。アメリカ韓国日本ドイツオランダそれぞれ加害者としての慰安婦問題を抱えている。日本は謝罪と補償を提供したが、批判もある。そんななか、欧米は日本に対してさらなる謝罪をするように求めた。

 日本としては、自国はすでに謝罪したのだから、さらなる謝罪を求めるとすれば、お前らも謝罪するのが筋だろう、と言いたい。

他国のなかには、日本よ、お前加害国のくせして、他国のことを云々するのは責任回避の目くらましやらかしているのではないか、というものもいる。

で、いずれにせよ、欧米韓国などの元性的奴隷たちはなんらの謝罪も救済もないまま、薄汚れた女性として歴史のなかに埋まっている。

どっち向いてても、にっちもさっちも動きがとれない状態にある。
で、このような行き詰まり状態を前提に、上記討論で出されている提案が、
戦時性性的奴隷問題に関して、日本は改めて、欧米韓国などは初めて共通の基準に従って謝罪補償をすべきだ

というものだ。
で、これにみんなに協力を呼びかけ、また協力していこうではないか、というものである。
しかし、当該フェミニストはそれはできない、という。
なんとなれば、彼女の加害国側にたつ「ポジショナリティ」の故に。
つまり、何万といるかもしれない権利を剥奪された被害者女性を救済する必要は認めるもの、自分のポジショナリティ故にそれはできない、というのである。
冷酷で偏向した立場だとは思いませんか?

そもそも、それなら米国や韓国などのフェミニストも加害国側にたつのだが、随分窮屈な活動を強いられることになる。

で、多くの被害女性の権利を回復に対する協力を拒むほどの、そのとっても大切なポジショナリティとは何か、というと、当該論者によれば、
ポジショナリティーー社会や歴史を生きることによって否応なく背負わせられている権力構造上の立ち位置

ということだそうです。
ちょっと、哲学百科を調べてみると、
Postmodern challenges to the idea of a stable self and to the coherence of the category woman’ have sparked a lively debate about the relation between gender and the self. If there is no such thing as a self with persistent attributes, it seems that gender cannot be a feature of every woman's identity. But if there is nothing that all women have in common, it seems that there are no interests that all women share, and there is nothing for feminism to be about. Several feminist philosophers have proposed accounts of the relation between gender and the self that aim to rescue feminism from this reductio. Linda Alcoff rejects both the universalized conceptions of gender that cultural feminists advocate and the deconstructions of the category ‘woman’ that poststructuralist feminists tender. Her alternative is to construe femininity as "positionality." Positionality has two dimensions (Alcoff 1994). First, it is the social context that locates the individual and that deprives her of power and mobility. Second, it is a political point of departure ― the affirmation of women's collective right to take charge of their gendered identity. To be a woman is, then, to be deprived of equality, and to be a feminist is to take responsibility for redressing this wrong and for redefining the meaning of being a woman. Alcoff salvages the category ‘woman’ by defending an interpretation of the social meaning of being assigned to that category

 要するに、不易で、自存的非歴史的非社会的な女性性なるものがないことを前提に、女性を平等な権利や機動性を剥奪された立ち位置にいるものとして、かつまた、こうした不正を是正し、女性を再定義していく出発点としての立ち位置、というくらいな意味で使っているフェミニストがいるようだ。
 とすれば、むしろ女性の連帯を呼びかけるものであり、この論者は他のフェミニストとは異なる意味で使っているのだろう。
 他のフェミニストによるネットにおける使用例をみると、例えば
女性の解放運動は、単なる白人女性の解放運動ではなく、人種差別撤廃運動にもならざるを得なかったのだ。「姉妹愛sisterhood」は、人種をとわず、女を愛することであれば、「有色」女性を苦しめている人種差別を撤廃する運動に発展しないといけなかったのだ。

「女」=中流階級の白人と思い込んでいた白人女性は「中立」の立場に立てられなくなり、はじめて「有色」女性と同じように、人種の問題を考えないといけなかったのだ。変わったのは、日常的に自らの「人種」を意識させられる「有色」女性と同じように自らの「人種」を意識し始めたということだけである。

そのなかから、「ポジショナリティ」という概念が成立したのでは、という気がする。自分がどの立場に立っているかって、友達になりたい女性や「連帯」したい相手を見て、考える。本格的にフェミニズムをやりたければ、フェミニズムは当然白人女性だけのものでるかのように独占するではなく、白人至上主義が「有色」女性を苦しめてきたという現実をみないといけない。一応、最低限の礼儀としてリンク

 ここでも当該論者とは全く逆の意味で使われている。本件に即して言えば、加害国側の人間としての自覚を持ちつつも人種を越えて女性と連帯していく愛じゃないのか?

 当該論者だけが単に偏屈なのだ、と言ってしまえばそれまでだが、しかし、ドイツ米国オランダ韓国のフェミニストが自国の性的奴隷問題に関して沈黙しているところをみると、また苺畑さんの記事などを読むと、いわゆるフェミニストと呼ばれる人々は、かなり偏向したものがあるともいえるのかもしれない。

 もっとも、こういったところで、フェミニスト一般に当てはめるつもりはないし、日本の男女に関する公平な扱いに関しては、こうした偏向したフェミニストとはべつに、どんどん推進にしていくべきだ、と思っている。



宗教的中立性と学校 日本での関連判例

2008年01月16日 05時28分31秒 | Weblog
多文化主義との関連で、ムスリムのスカーフ事件など話にのぼったので、日本の関連判例について紹介する。
宗教上の理由に基づく「剣道」の不受講

公立の学校である神戸市立工業専門学校第1学年に在学していたエホバの証人の信徒であるXが、その宗教上の「いかなる時も武器を持たず、格闘技を行わない」との教義に従って、剣道実習に参加しなかった。その代わりにレポートを提出しようとしたが聞き入れられず、必修科目の体育の単位を認定されずに、原級留置となった(1991.3)。翌年も同様の経緯により原級留置となり、連続2回原級留置者に退学を命ずることができるという学則にもとづいて、退学処分を受けた(93.3)

判決
Xが自由意思により、必修である体育科目の種目として剣道を採用している学校を選択したからといって退学処分のような著しい不利益をXに与えることが当然に許されるわけではない。またXに対して、正当な理由のない履修拒否と区別する事なく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分とし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、2年続けて原級留置となったため退学処分をしたという校長の措置は、裁量権の範囲を超える違法なものである。信仰上の理由から剣道実技に参加できない学生に対して代替措置をとることは、その方法、態様のいかんを問わず、20条3項に違反するということはできない。

日曜授業参観事件 (東京地判S60.3.20)

 牧師である両親の主宰する教会学校に出席したため、日曜日に行われた公立中学校の授業参観に欠席した児童2人と両親が、「欠席」の記載処分の取消と損害賠償を求めて争った事件
 ・・・出席の免除は公教育の宗教的中立性を保つ上で好ましいことではないとし、宗教集団の集会と抵触することになったとしても、法はこれを合理的根拠に基づくやむをえない制約として容認している。(=抗告訴訟の対象にもならず、損害賠償もできない)

リンク
ウィキ

二つの判例とも妥当だとはおもうのだが・・・・
因みに、ムスリムのスカーフ事件については、フランスの公立学校における「スカーフ事件」伊藤俊彦pdfなどを読むと、やはり、なんていうか、すごい社会背景があるんじゃないかな、と思うね。表向きの議論とは別に、80年代ではそれほど問題にされなかったスカーフがここまで問題にされるまでにいたった苛立ちのようなものを感じる。

いらだち、と言えば、やはり、ジャパンプローブさんの永住者日本語必要説に対するコメント、


Comment by LondonGaijin
2008-01-16 04:22:33

I don’t care what anyone says, Japan should enforce this already!

Don’t leave it 40 years too late like the UK.
誰がなんといおうと、日本はもうこれを強行していい。
イギリスのように40年も手遅れにするな。

ロンドン外人さんのコメントにも何か経験者からの苛立ちのようなものを感じる。
ただ、やっぱ、おれには、まだそうした苛立ちの実感がない・・・・。

本 moral relativity

2008年01月16日 03時46分02秒 | Weblog
 多文化主義の話が案外面白いので、それとの関連でちょっとこのを紹介したい。 何かの足がかりになるかもしれない。
  英米系の哲学は例えば、真理の相対性に対して敵意を持っているのが大概であって、価値の相対性には寛容ではない。(84 Gadamer A guide for the perplexed 参照)その意味では未だに非歴史的、超文化的な普遍主義が主流といえよう。
 著者は中国系アメリカ人で、初版が1984年、多文化主義や多元主義が台頭しはじめているころではないだろうか? で、私などは同じアジア人のせいがかなり共鳴するところもあるのだ。西洋的価値観というものは、それまで着物を着ていた日本人があこがれていたきらびやかな洋服を着たものの、なにかしっくりこないぎこちなさ、あるいはズレを感じるようなところがある。そこで西洋とは異なる背景をもつものがこうした思想に親和的になるのだろうと思う。

 で、議論はかなり複雑なのだが、いつもの如くおおざっぱにいこう。用語というものは、同じ言葉でも違う国によって違うことを意味したり、あるいは、同じ国の同じ分野の学者でも違う意味に使ったりする。で、彼のいう、相対主義とは、

1 倫理的言明にも真理値を伴う。
2 倫理的な主張に対して、優れた議論そうでない議論がある。
3 非倫理的言明も倫理的言明が真であるか、どうかについて寄与する。
4 倫理的な事実が存在する。
5 二つの倫理的な言明が非両立的なとき、一方のみが真である。
6 一つのそしてただ一つしか、倫理しかない。

 著者は6を肯定するか否かで、相対主義と絶対主義を峻別する。因みに著者は、5と6を否定する。(つまり、非両立的な倫理的な言明が両方とも真であることがあり得る)

この当時の主要な倫理学者を総ざらいし、言語哲学の知見を駆使して議論は進むのだが、その要は、相対主義の方が絶対主義より、様々な倫理的対立や多様性をよりよく説明できる、ということにある。

 君は大阪に行くべきだ、だって彼と約束したんだから

といった、言明は単なる主観的情緒や態度を表明したものではなく、かといって、ある社会の同意事項に関する言明でもない。それは、(再びおおざっぱに言えば)ある倫理的実践を担った社会のメンバーに適用される規範で、ある状況でそれをしなければその規範違反になるという言明である。で、単に主観的でもなく、ある種の客観性に裏付けられながらも、相対性を確保したいのである。

 で、絶対主義者は全国共通の根本的規範はあるが、環境などによって適用や解釈のされ方は違うだけだというものもあるが、例えば、アメリカ社会内部での、ロールズとノチック、あるいは、中絶肯定論者と中絶否定論者の対立、あるいは、美徳中心主義の倫理学と権利中心主義の倫理学など、倫理的な対立、そうしてこうした対立に対してどちらが正しい、ということ合理的に決定することができないことをうまく説明できないじゃないか、という

で、相対主義による寛容と不介入(torerance and nonintervention)の議論とそれに向けられた批判とその反論の話に進む。

 相対主義といっても、寛容さを主張する人々はある伝統のなかにいる。で、アメリカの場合など、それはカント主義や功利主義なのだが、その伝統の枠内からも寛容の原理を導出することができる。ここでいう、寛容さの根拠となるものは、

相手が合理的であり、関連する状況について掌握していることを前提に、相手に介入を正当化出来なければ、当該行為に介入すべきでない、

という原理である。

 カント主義によれば、誰かを単に手段として用いることがまずいのは、その目的について、彼が同意しないだろうからなのだが、彼が同意するだろう目的というのは、合理的な目的ということで、その合理的な目的というのは合理的な人間が同意するであろうと言う目的である、とすれば、彼に正当化できないものを押しつけるのは彼の理性的な存在者として扱っていないことになり、カントの含意からずれる。
 功利主義によれば、他人に害を及ばす行為は禁止されるが、この前提にあるのは、個人の理性的熟慮に従った自己実現の価値であるが、相手に正当化できないようなことで自由を奪うのは相手の自己実現を奪うことになってしまう。

 このようにして、現代を代表する倫理的潮流から寛容の原理が導出される。
 で、もう少し具体化すると、この介入時対他者正当化必要原理ともいうべき原理を勘案しながら、中絶肯定論者と否定論者との折り合いを例えばどうつけるか?
中絶否定論者の方は、中絶に対して法的制裁を加えることを抑制しつつつも、避妊用具の配布などを促進することができる。また、中絶肯定論者の方は、中絶に対する公的資金の注入について妥協することできよう、というのである。
で、こうして、カント主義やミル主義を体現する社会においては、社会に与える実質的な影響や、制限される価値、制限さえる態様、などから、正当化原則も含めて利益考量して寛容さの原理・美徳を尊重しながら倫理的価値の相対性を維持できるではないか、というのである。

 ちょっと抽象的かつおおざっぱすぎたかな?
なお、著者は本書を土台により洗練された新しい本を出版しているらしい。
Natural Moralities: A Defense of Pluralistic Relativism Reviewed by Christopher W. Gowans, Fordham University
関連するウィキペディアの記事をみてもこの問題が非常に複雑であることがわかる。

ま、一つの資料として自分の考察の糧としたかったのだ。

永住資格に日本語能力を前提とすべきか?

2008年01月16日 02時02分40秒 | Weblog
Japan Probeさんが高村外務大臣の言をきっかけに表題のような問題提起をしている
Language barriers fracture society into smaller communities that band together because of a common language, but separate them from the larger social structure. This is an effort to minimalize that division. Alex
2008-01-16 01:37:34

いまのところおれがもっとも納得いくコメントはこれだ。バベルの塔で多言語が与えられたのはやっぱ神様の罰で、それが人々の誤解と分離の始まり。様々な背景の人がいてもいいし、家族や仲間で何語をしゃべってもいいが、永住資格者には、最低限日本語の能力は必要だろう。

更新
こんなのもあった。


Comment by KokuRyu
2008-01-16 03:42:44

I’m always amazed at the long-term residents (people who have lived in Japan for ten years) I meet who do not speak Japanese. It’s really weird, and it must be like living in a little dream world. If you learn to speak and read (and write) Japanese, life becomes so much easier to live, and easier to understand.

書くのところを括弧なしで、有道氏に捧げたい。