本質主義って、 要するに物事にはそれぞれ共通の何か=本質があってそれがその事物の根拠となり、それとそれでないものの区別となるようなものがある、ということだ。
wiki的にいうと、
で、ウィキの記事にもあるけど、これが例えば、ウィトゲンシュタインの家族的類似性ななどの議論によって批判された。山田一家は太郎ちゃんと次郎君は似ているし、甥っ子の健ちゃんと次郎も似ているが、太郎ちゃんと健ちゃんはあまり似てないし、何か共通のものがあるわけでもないけど、山田さん一家の一員である、とすごくおおざっぱにいうとこんな感じ。
で、これは、これまでの哲学や社会思想などの一大潮流の根底にある考え、つまり、、是非善悪正誤などを区別し、その判断の根拠になるような、神さまや、イデー、著者、あるいは実在や起源、あるいは、構造といったものがあるんだ、という考え方に対する批判の一環でもあった。
例えば、日本人論で日本とは、あるいは、日本人とは、かくある存在なり、というのは、一種の本質主義を前提としている場合もある。藤原なんとか、という数学者が、日本の精神に武士道のフェアプレイをみたとき、あるいは、このような日本や日本人の本質を前提にしていたのかもしれない。
まあ、ある意味それだけなら、それほど罪がないのだが、区別されたグループに汚名を着せることによって差別が生まれる。
あまり詳しくないのだが、ギリシャ時代や日本の江戸時代、ホモセクシャルというのは別にとやかくいわれる存在ではなかった。ところが、ある時代、ある力関係からホモセクシャルが特異なカテゴリーとして、取りざたされ、また卑しまれるようになり、監視され、あるいは、コントロールされ、あるいは、治癒されるべき対象となった。まあ、日本ではそれほどでもないが、どうも欧米ではそうらしい。
で、ホモセクシャルの人はその素性を隠し、自分を偽って日常を送らなくてはならなくなった。 で、同様に、女性もそういう意味ではある役割を強制・限定され、また、抑圧されてきた。そういう意味では黒人やユダヤ人、朝鮮人なども同じように抑圧されたきた。
で、これはたまったもんじゃない、というわけで、差別するなああ!、っていう動きが出てくる。
で、最初に原動力になったのは、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、という平等の思想なんだろ。人間として平等の筈なのになんで、差別するんやああ!!!
差別された故に各々のグループがそれぞれの自己意識をもつようになったんだけど、偏見が多い。すると、そうじゃない、その偏見に対して、おれらは、こうなんだあああ、という人々が現れてくる。その中で、「お前らはかくかくしかじかの否定的属性を持つ人種なんだああ」という偏見に対して、「おれらは、かくかくじかじかの肯定的属性を持つ人種なんだああ」という対抗運動が歴史を発掘したり、あるいはねつ造しながらして、でてくる。どっちも本質主義の路線に乗っている。いわゆるナショナリストはこの路線にのっかって「おれら」と「おまえら」に区別し、また、多くの場合、優劣をつけるようなことをしている。
もちろん、優劣をつけないで、本質的に違うものたちが、互いに仲良く平等に暮らすということもあり得よう。隣はキムチ、こっちは味噌汁、とそれでうまく共存していく。
しかし、例えば、キムチは韓国の誇りだとしても、なんで、、韓国人はキムチを食べ続けなくてはならんのか? キムチ食べなくなったら韓国人じゃないのか?っつうとそうでもない。母性的な女性じゃなければ女性じゃないのか、というとそうでもない。
で、本質主義に戻ると、本質主義ってやっぱ、それを信じている人は、頑なに信じているから、差別する側もされる側も、「お前らこうだ」「いや違う、おれらはこうだ、お前らこそこうだ」なぞとやっている。あるフェミニストは女性性器を芸術の対象にしたが、しかし、女性性を固定的にとらえていると批判された。
で、本質がないなら、「あたいって、おれって何なの?」ということで、本質が駄目なら、”関係”で、というわけで、差別主義者の抑圧的な視線という関係から被抑圧者を括りだした。「そう、おれらは抑圧された少数者や」というわけだ。ようやくみつかった、アイデンチチー。男によって抑圧された女、白人により抑圧された有色人種、日本人に抑圧された韓国人、あるいは、在日朝鮮人。この路線に乗っかって、自分がそれほど差別されたこともなくても、ひいじいちゃんやじっちゃんらがお前に差別されてきたんや、といったところに自分の安定を求めるものもいる。
ところが、この視線、妙に受け身で、女々しい。こうしたアイデンチチーは抑圧的な視線なしには生きられない。
自己の危機回避のため、ときにはこうした視線がないのにアル!と幻視してしまう場合もあるようだ。「日本人は表向きは差別しないし、礼儀正しいが、微妙な仕方で差別しているんだ」という訳のわからない言辞を韓国人から聞くことがあるが、これなんかもその一つだろう。西洋人なんかは日本女性がひどく抑圧されているという思いこみがある。日本のジョセイは男性が横暴なのでケッコンシタクナイノデース、ダカラ、コドモもウマナイノデース。ば~か、と言いたくなるが、第3者がそういうない視線をあると思うこともある。
もっと、ひどいのになると、現実に差別している人の属するグループを物象化してそれが抑圧者だああ!!なんて叫びだす。また、白人至上主義のおにいさんが、ありがたく後進の日本や日本人を改善してくれようとするとき、多くの場合、日本人なるものをなかば物象化して話しをはじめるーーーむかつくよな。
で、それはともかく、自分が自分であるということ、また自分である根拠が、こうした抑圧的な視線により成り立っている被害者でしかあり得ないのは可笑しいのじゃないと自覚されると、それを乗り越えようとする動きがあってしかるべきだ。で、自分の属する少数者に対立する多数者に同化してしまわないけど、被害者でもない、平等であるようなありかたの模索ということになるのだろう。
しかし、同化と言ったって、例えば、アメリカ人が日本でお辞儀をする、ちょっぴり日本人的に同化するわけだが、日本人の方もアメリカ式の挨拶や、あるいはアメリカ人っぽい奇妙なお辞儀に感化されてそっちが流行ることもあろう。日本固有のお辞儀ってなんだかわからない。くラブという東京弁がクらブという茨城弁だか、なんだかのアクセントに変化していったように、可塑性があり、また、変遷していくのである。おばさんがおやじ化し、おねえちゃんもおやじ化し、逆におやじがおかあさん化し、おやじに共通の何かはないものの、そして区別のつきにくい境界線上の例はあるものの大抵はその都度区別はつく。
一部の人たちは人間平等という人間なんてそんなだれからも等しく中立的な抽象的な人間性なんてあらへん、そんな輩が言っているのはじ・つ・は、白人オートコの典型を中立的な人間に偽装しているだなんや、そうやって、人間の名のもとのわてらを抑圧しているだけなのよ、なんていうのもおるようやけど、ならその人間って概念をもっと豊かにしていけばええやないか、平等宣言から有色人種や女が除かれていたが、それを含めるような白人男化したアジア人、黒人、アジア人化した白人を包含するような実践的な社会の弁証法があったし、また起こりつつあるのである。
同化すべき、あるいは、同化しなくちゃいけない不易の人間なるもの、日本人なるもの、東京弁なるもの、おやじ、おばさんなるものを措定する点で、伝統保持論者もまた、同化から逃避しなければならないと思っているものも同じ土俵にいるように思う。
で、実体や本質がなく、関係も流動的だから、絶えざる再定義だ、とかいうひとが出てくる。これはこれで悪くないとも思う。
また、本質主義に乗らないで、イメージ合戦することもできる。本質なるものがないと自覚したうえのある意味原型のないイメージの遊技である。例えば、日本人は生来軍国主義だああ、とか、外国人恐怖症だああ、とかいう主張に対して、そうではない、というだけでは弱い。ピンクの象を想像しないでください、といってもピンクの象を想像してしまうように、否定的イメージを否定するだけでは弱い。そこで、日本人に本質などないことを自覚しながら、あえて、オタク族の日本人やその文化、高度な技術力のイメージ、コミカルなイメージ、知的なイメージの日本人など様々な日本に関する視点を提供する。これは大事だと思う。同様なことは、ホモセクシャルの人や、黒人や女性なども非常に有効な手段だと思う。
まあ、本当の自分探しに関しては、おれとしては、差別的な取り扱いがなければ、もうそれ以上ええじゃないか、と思う。犬ころに仏性がありますか、と問われて、あるときは有、あるときは無と答えた禅坊主がいたが、もともと自分の核が空なところに問いをたてたところにつまづきがあった、「探すのをやめたときみつかることもよくある話」だ。何でもありえるというのが無自性=空ということだ。
まあ、それはいいとして、要するに不当な差別がことの発端だった。
不当な差別的な取り扱いをしない、という消極的な主張はいいだろう。では、そこから超えて少数者から多数者に積極的な行動を要求できるか?
例えば、
ある種のグループに属する差別の歴史に鑑みてそのグループに属する故に優遇措置をとること。
これはあるグループに属するが故に不当な待遇をすることの真逆の逆差別の問題である。
あるいは、
剣道の時の事例のように、あるグループに取って単なるスポーツが他のグループの解釈によると、平和主義に反するもの解釈して、代替授業を要求したり、あるいは、不特定の戦死者の霊を鎮魂するという靖国参拝を軍国主義者や虐殺の崇拝であるかのように解釈して参拝を禁止しようとする要求は妥当か?あるいは、すでに廃れた少数者の芸能の保存を要求することはどうか?
ここらへん、もちっと自分の中で明確にしていきたいと思っているのだが、ちょっと疲れちゃった。ほじゃ、また。(^^;)
wiki的にいうと、
本質(その事物をその事物として同定するにあたって最低限必要な要素だけからなる概念的な存在)がまず何らかの形で独立的に実在し、その本質を雛形として個別の事物が現実に存在するという考えをいう
で、ウィキの記事にもあるけど、これが例えば、ウィトゲンシュタインの家族的類似性ななどの議論によって批判された。山田一家は太郎ちゃんと次郎君は似ているし、甥っ子の健ちゃんと次郎も似ているが、太郎ちゃんと健ちゃんはあまり似てないし、何か共通のものがあるわけでもないけど、山田さん一家の一員である、とすごくおおざっぱにいうとこんな感じ。
で、これは、これまでの哲学や社会思想などの一大潮流の根底にある考え、つまり、、是非善悪正誤などを区別し、その判断の根拠になるような、神さまや、イデー、著者、あるいは実在や起源、あるいは、構造といったものがあるんだ、という考え方に対する批判の一環でもあった。
例えば、日本人論で日本とは、あるいは、日本人とは、かくある存在なり、というのは、一種の本質主義を前提としている場合もある。藤原なんとか、という数学者が、日本の精神に武士道のフェアプレイをみたとき、あるいは、このような日本や日本人の本質を前提にしていたのかもしれない。
まあ、ある意味それだけなら、それほど罪がないのだが、区別されたグループに汚名を着せることによって差別が生まれる。
あまり詳しくないのだが、ギリシャ時代や日本の江戸時代、ホモセクシャルというのは別にとやかくいわれる存在ではなかった。ところが、ある時代、ある力関係からホモセクシャルが特異なカテゴリーとして、取りざたされ、また卑しまれるようになり、監視され、あるいは、コントロールされ、あるいは、治癒されるべき対象となった。まあ、日本ではそれほどでもないが、どうも欧米ではそうらしい。
で、ホモセクシャルの人はその素性を隠し、自分を偽って日常を送らなくてはならなくなった。 で、同様に、女性もそういう意味ではある役割を強制・限定され、また、抑圧されてきた。そういう意味では黒人やユダヤ人、朝鮮人なども同じように抑圧されたきた。
で、これはたまったもんじゃない、というわけで、差別するなああ!、っていう動きが出てくる。
で、最初に原動力になったのは、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、という平等の思想なんだろ。人間として平等の筈なのになんで、差別するんやああ!!!
差別された故に各々のグループがそれぞれの自己意識をもつようになったんだけど、偏見が多い。すると、そうじゃない、その偏見に対して、おれらは、こうなんだあああ、という人々が現れてくる。その中で、「お前らはかくかくしかじかの否定的属性を持つ人種なんだああ」という偏見に対して、「おれらは、かくかくじかじかの肯定的属性を持つ人種なんだああ」という対抗運動が歴史を発掘したり、あるいはねつ造しながらして、でてくる。どっちも本質主義の路線に乗っている。いわゆるナショナリストはこの路線にのっかって「おれら」と「おまえら」に区別し、また、多くの場合、優劣をつけるようなことをしている。
もちろん、優劣をつけないで、本質的に違うものたちが、互いに仲良く平等に暮らすということもあり得よう。隣はキムチ、こっちは味噌汁、とそれでうまく共存していく。
しかし、例えば、キムチは韓国の誇りだとしても、なんで、、韓国人はキムチを食べ続けなくてはならんのか? キムチ食べなくなったら韓国人じゃないのか?っつうとそうでもない。母性的な女性じゃなければ女性じゃないのか、というとそうでもない。
で、本質主義に戻ると、本質主義ってやっぱ、それを信じている人は、頑なに信じているから、差別する側もされる側も、「お前らこうだ」「いや違う、おれらはこうだ、お前らこそこうだ」なぞとやっている。あるフェミニストは女性性器を芸術の対象にしたが、しかし、女性性を固定的にとらえていると批判された。
で、本質がないなら、「あたいって、おれって何なの?」ということで、本質が駄目なら、”関係”で、というわけで、差別主義者の抑圧的な視線という関係から被抑圧者を括りだした。「そう、おれらは抑圧された少数者や」というわけだ。ようやくみつかった、アイデンチチー。男によって抑圧された女、白人により抑圧された有色人種、日本人に抑圧された韓国人、あるいは、在日朝鮮人。この路線に乗っかって、自分がそれほど差別されたこともなくても、ひいじいちゃんやじっちゃんらがお前に差別されてきたんや、といったところに自分の安定を求めるものもいる。
ところが、この視線、妙に受け身で、女々しい。こうしたアイデンチチーは抑圧的な視線なしには生きられない。
自己の危機回避のため、ときにはこうした視線がないのにアル!と幻視してしまう場合もあるようだ。「日本人は表向きは差別しないし、礼儀正しいが、微妙な仕方で差別しているんだ」という訳のわからない言辞を韓国人から聞くことがあるが、これなんかもその一つだろう。西洋人なんかは日本女性がひどく抑圧されているという思いこみがある。日本のジョセイは男性が横暴なのでケッコンシタクナイノデース、ダカラ、コドモもウマナイノデース。ば~か、と言いたくなるが、第3者がそういうない視線をあると思うこともある。
もっと、ひどいのになると、現実に差別している人の属するグループを物象化してそれが抑圧者だああ!!なんて叫びだす。また、白人至上主義のおにいさんが、ありがたく後進の日本や日本人を改善してくれようとするとき、多くの場合、日本人なるものをなかば物象化して話しをはじめるーーーむかつくよな。
で、それはともかく、自分が自分であるということ、また自分である根拠が、こうした抑圧的な視線により成り立っている被害者でしかあり得ないのは可笑しいのじゃないと自覚されると、それを乗り越えようとする動きがあってしかるべきだ。で、自分の属する少数者に対立する多数者に同化してしまわないけど、被害者でもない、平等であるようなありかたの模索ということになるのだろう。
しかし、同化と言ったって、例えば、アメリカ人が日本でお辞儀をする、ちょっぴり日本人的に同化するわけだが、日本人の方もアメリカ式の挨拶や、あるいはアメリカ人っぽい奇妙なお辞儀に感化されてそっちが流行ることもあろう。日本固有のお辞儀ってなんだかわからない。くラブという東京弁がクらブという茨城弁だか、なんだかのアクセントに変化していったように、可塑性があり、また、変遷していくのである。おばさんがおやじ化し、おねえちゃんもおやじ化し、逆におやじがおかあさん化し、おやじに共通の何かはないものの、そして区別のつきにくい境界線上の例はあるものの大抵はその都度区別はつく。
一部の人たちは人間平等という人間なんてそんなだれからも等しく中立的な抽象的な人間性なんてあらへん、そんな輩が言っているのはじ・つ・は、白人オートコの典型を中立的な人間に偽装しているだなんや、そうやって、人間の名のもとのわてらを抑圧しているだけなのよ、なんていうのもおるようやけど、ならその人間って概念をもっと豊かにしていけばええやないか、平等宣言から有色人種や女が除かれていたが、それを含めるような白人男化したアジア人、黒人、アジア人化した白人を包含するような実践的な社会の弁証法があったし、また起こりつつあるのである。
同化すべき、あるいは、同化しなくちゃいけない不易の人間なるもの、日本人なるもの、東京弁なるもの、おやじ、おばさんなるものを措定する点で、伝統保持論者もまた、同化から逃避しなければならないと思っているものも同じ土俵にいるように思う。
で、実体や本質がなく、関係も流動的だから、絶えざる再定義だ、とかいうひとが出てくる。これはこれで悪くないとも思う。
また、本質主義に乗らないで、イメージ合戦することもできる。本質なるものがないと自覚したうえのある意味原型のないイメージの遊技である。例えば、日本人は生来軍国主義だああ、とか、外国人恐怖症だああ、とかいう主張に対して、そうではない、というだけでは弱い。ピンクの象を想像しないでください、といってもピンクの象を想像してしまうように、否定的イメージを否定するだけでは弱い。そこで、日本人に本質などないことを自覚しながら、あえて、オタク族の日本人やその文化、高度な技術力のイメージ、コミカルなイメージ、知的なイメージの日本人など様々な日本に関する視点を提供する。これは大事だと思う。同様なことは、ホモセクシャルの人や、黒人や女性なども非常に有効な手段だと思う。
まあ、本当の自分探しに関しては、おれとしては、差別的な取り扱いがなければ、もうそれ以上ええじゃないか、と思う。犬ころに仏性がありますか、と問われて、あるときは有、あるときは無と答えた禅坊主がいたが、もともと自分の核が空なところに問いをたてたところにつまづきがあった、「探すのをやめたときみつかることもよくある話」だ。何でもありえるというのが無自性=空ということだ。
まあ、それはいいとして、要するに不当な差別がことの発端だった。
不当な差別的な取り扱いをしない、という消極的な主張はいいだろう。では、そこから超えて少数者から多数者に積極的な行動を要求できるか?
例えば、
ある種のグループに属する差別の歴史に鑑みてそのグループに属する故に優遇措置をとること。
これはあるグループに属するが故に不当な待遇をすることの真逆の逆差別の問題である。
あるいは、
剣道の時の事例のように、あるグループに取って単なるスポーツが他のグループの解釈によると、平和主義に反するもの解釈して、代替授業を要求したり、あるいは、不特定の戦死者の霊を鎮魂するという靖国参拝を軍国主義者や虐殺の崇拝であるかのように解釈して参拝を禁止しようとする要求は妥当か?あるいは、すでに廃れた少数者の芸能の保存を要求することはどうか?
ここらへん、もちっと自分の中で明確にしていきたいと思っているのだが、ちょっと疲れちゃった。ほじゃ、また。(^^;)