Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

黒人に対する偏見

2008年01月15日 16時01分36秒 | Weblog
Japan probeのコメント欄でリンクされていた記事
なるほど、と思う。
Top Ten Stereotypes of Black Americans [2]
Year 1933。。。。。。1995
1 Superstitious Athletic
2 Lazy/Slovenly Rhythmic/Musical
3 Happy-go-lucky Unintelligent/Ignorant/Stupid
4 Ignorant Poor
5 Musical Loud
6 Ostentatious Criminal
7 Very Religious Hostile
8 Dirty (physically) Very Religious
9 Naive     Loyal to Family
10 Unreliable Dirty (physically)


私の偏見でいうと、この中で、日本人が共有する偏見というのは、身体能力および、音楽に優れている、ということくらいか?

無知や怠け者、というような偏見があるなかで、その偏見を体現助長するようなコメディアンがでてくれば、そりゃあ、そうした、コメディアンおよびそれを出演させるテレビ局に非難がいっても可笑しくない。

ま、私は以前にも書いたけど、日本のテレビ局は、もっと、日本語の話せるアフリカ系の知識人に討論番組などの出演させた方がいい。仮に一部の人から彼の属するグループの人々の偏見を形成する兆候があったとしても、そうやってバランスがとれるからである。
 しかし、考えてみる、おれの偏見というのも、スポーツ選手やジャズ教会音楽など
で黒人の人をみたことが多いというだけだから、偏見なんてわりに簡単につくられてしまうのかもしれない。
 ただ、ボビーから黒人が怠け者で、アホだという偏見が生まれるにはやはり、背後にそもそもそうした偏見にみちた背景が必要なのではないだろうか。
 ひょうきんとやおもしろい、という偏見は生まれるかもしれないが・・・・

フランスにおける普遍主義、差異主義、共同体主義

2008年01月15日 14時36分09秒 | Weblog
おれのアホな質問に答えてくれたMozuさんのコメント欄でのコメントである。大変わかりやすい。コメント欄に残しておくのはもったいないのでここに掲載させていただく。

普遍主義、差異主義、共同体主義の意味合いは独特です。政治思想は国ごとにその歴史に応じて違うので難しいです。アメリカとヨーロッパではリベラルって真逆の意味になりますしね。私は政治思想の専門家ではありませんので以下はごく辞書的な解説です。ご参考に。

普遍主義は、フランス革命以来の自由、平等、友愛といった諸価値に準じる立場のことです。その他に支柱となる概念として人権、世俗性、国民の不可分性が付け加わります。最後の不可分性というのはあまり知られていないと思うのですが、不可分(indivisible)ですから文字通り分割できないという意味で、国民は一体のものであらねばならないという考えです。過剰なまでのフランス語への愛や国語教育熱というのはここから出てきます。普遍主義ですからこうした諸原理は普遍の理想であって、全人類に例外なく適用されるべきものと考えられます。これが外部に向けられた時に、いい面もあるわけですが、傲慢さや押し付けがましさとして現れることもあります。「文明化の使命」というやつですね。今はアメリカですが。

普遍主義はシンプルなので比較的分かりやすいわけですが(といってもかなりフランス色が強いですが)、差異主義になるとかなりややこしいです。例えばフェミニズムのいくつかの流派もこれに属しているようにいろんな立場を包含しているので。移民の話で言うと文化的多様性と言いますが、歴史的文脈の違いゆえに北米の多文化主義とはやはりずいぶん違っています。歴史的文脈というのはこれが普遍主義への批判として押し出された立場だからです。移民国家で自生的に形作られた感のある (ampontanさんによるとトップダウンな規範になってしまったそうですが)多文化主義に比べて批判思想としての性格が強いです。それはフランスという国が典型的な国民国家であり、かつ普遍主義を標榜する国家である以上当然なわけですが。

普遍主義への批判にはいろいろありますが、そこで言われる「人間」があまりにも抽象的であり、具体的な状況や文脈に置かれた人間の固有性を無視しているというのが最大公約数的な見解だと思います。階級を無視していると言えばマルクス主義になり、性差を無視していると言えばフェミニズムになり、具体的状況を生きる個を無視していると言えば実存主義になり、歴史を無視していると言えば歴史主義となる、といった具合にいくらでもバリエーションがありますが、普遍主義は文化的多様性を無視しているという批判が出るようになるのは戦後、特に1970年代以降です。

普遍的人間像が抽象的に過ぎ、またそれが結局のところブルジョワ白人男性を想定しているという批判から、普遍的で形式的な平等の権利だけではなく、もっと個別性、固有性を尊重した法的概念が必要だという発想が出てきて、これは差異の権利(相違の権利)として1980年代に結実しました。価値観が多様化した以上はその多様性を差異の権利として認める必要があるということです。ここまではまあそうなのかという話なのですが、この差異の権利が濫用(?)されるようになるのがこれ以降のごたごたした展開です。

学校教育の現場が分かりやすいのでその例で言うと、まず普遍的理念の下に統合される国民をつくりあげることを目的とした同化主義的な教育(国語たるフランス語教育が最重視される)がなされてきたのですが、これは植民地においても同様でした。ところが植民地主義への反省もあってこの同化主義が批判されるようになり(皇民化教育批判みたいなものです)、移民の子供の文化的背景にも配慮しなければならないということになります。つまり普遍的な理念を共有する国民を育てるということと差異や異質性を尊重するということが同時に強調されるようになります。

これは矛盾をはらんでいて、たとえばイスラーム系の女子生徒がスカーフをつけて登校するようになるとか、あるいは肌の露出を避けるために体育の授業をボイコットするようになるとか、ささいではありますが、宗教的アイデンティティーを主張し出すと共和国の世俗性の原則と衝突してしまうわけです。また、フランス植民地主義の歴史をどう教育するのかという点でもめることになります。右派からみると公教育の場で左翼教師が「自虐教育」をして共和国の価値への不信感を子供の内から育てているということになります。植民地主義のよい側面にも光をあてろ、とか言ってることは言葉遣いも含めて一緒です。実際、メディアにのるわけです。教師が注意しただけでレイシスト扱いされるとか、被害者ぶって勉強しない言い訳にするとか、教師に暴力をふるうとか。週刊誌のゴシップなんでこういう事例がどの程度一般的なのかよくわかりませんが、移民の子弟の多い地区の学校がバトルロワイヤル化しているのは事実のようです。

最後に共同体主義、コミュノタリスムですが、これはネガティヴなレッテルです。マッキンタイアやサンデルは関係ありません。差異の権利や文化的多様性の原理を濫用し、公共的であることを放棄して、自らの所属集団に内閉してしまう態度を指しています。これはフェミニズムだろうが宗教的カルトだろうが民族集団だろうが同様の姿勢を示す集団に貼られます。コミュニティーに自足してフランス語を覚える気のない移民とかもですね。公共性と共同性というのが対立概念になっているわけです。差異主義は結局のところ多様な共同体主義の乱立に帰着するというような使い方をします。

いわゆるフランス現代思想というか戦中派の思想が差異主義を後押しするものであったことは確かでしょう。差異をキー概念にして普遍主義批判をしたわけですから。ただ個々の思想家でその立ち位置はすいぶん違いますし、政治へのスタンスも人それぞれなので複雑です。彼らが直接法制や教育現場に影響を与えたというよりも、戦後の時代精神の中でああいう一群の思想家たちが現れたということなんだと思います。粗雑なデリダとか杜撰なブルデューみたいな人達がうじゃうじゃいたわけです。

で今はその反動が来ているところです。全共闘世代にあたる新哲学派の一部は、イスラームとの文明の衝突を前にしてわれわれは西洋文明を守らなければならない、また自虐的な歴史認識はいけない、反差別主義運動は新しい全体主義だ、みたいな感じになっています。おいおいちょっと揺り戻しすぎではないのと思いますが、われわれはすこし寛容すぎたのではないかという感覚は全体にあるようです。いずれバランスがとられるとは思いますが、今はなんだかひどく騒然としていますね。

他国の事例の紹介ばかりしているのもなんなんですけれども、日本の状況とダブる部分もありますので、あまり他人事ではいられないところもあります。日本は普遍主義者ではありませんが、典型的な国民国家であり、官僚制の強い疑似社会主義的な国柄で、大陸法圏に属し、伝統主義的で硬直的な労働市場を持ち、文化主義的なイデオロギーが幅をきかせやすい・・・と考えるといっそうグローバル化が進んだ時の日本のシミュレーションとしてはひとつのいいサンプルになるかと思います。

人権擁護法案

2008年01月15日 03時24分18秒 | Weblog
 ネットなどでしばしば人権擁護法案に関する議論を見かける。人権擁護するのは良いに違いない、それに何の不服があるのか?
 人権擁護するのは構わない、しかし、人権擁護の名の下に民主主義の根底となる権利が侵害されないか、という不安があるようだ。
 その中の一つ、イギリスの場合を論じている。
苺畑よりさん

現代政治と終末論、虐殺

2008年01月15日 03時16分20秒 | Weblog
 いろんなところで、書評が出るほど話題の本らしい。
Gray sees most of today's western politics as awash with spilt religion. "Modern revolutionary movements," he writes, "are a continuation of religion by other means."

西洋の政治が宗教化している。で、どんな宗教かというと、
the "war on terror" is a symptom of a mentality that anticipates an unprecedented change in human affairs - the end of history, the passing of the sovereign state, universal acceptance of democracy, and the defeat of evil. This is the central myth of apocalyptic religion framed in political terms, and the common factor underlying the failed utopian projects of the past decade.

過去のユートピア論、終末論の蒸し返しである、と。
で、
The proposition that human beings have always been prone to kill large numbers of other human beings in pursuit of a vision that can broadly be described as 'religious' is one that invites several pinches of salt.


そのユートピア実現のために多くの犠牲者をだすのも厭わない。
he obvious thought is that if the utopian impulse is essentially religious - in some sense of that slippery term - the political opponent embodies pure evil, and in much the same way that the Inquisition sought to have the heretic condemn himself out of his own mouth, so Stalin's prosecutors sought confessions with about the same evidential likelihood as a confession to sexual congress with the Devil

、というか、この宗教では、敵は悪魔だから、叩き殺す、あるいは、転向させる。スターリンの手口にもみられる、と
他の書評
Guardian
Newstatesman
The indenpendent

ここでリンクをみつけた。

しょせん書評だから、本については何ともいえないが、
現代の政治がユートピア論の延長であり、ユートピア論終末論同様な過ちを犯している、という主張はさすがおおざっぱすぎるように思える。ところどころで、おおお、本当だああ、というような記述が多いのだろう。
 (様々な思想家引用されると偉そうにみえるが、それでびっくりするのは似非インテリだけだ。)
 ただ、視点としては、面白いものがあるとおもう。

本 平和はいかに失われたか。

2008年01月15日 00時32分16秒 | Weblog
図書館たのんで他の図書館から借りた本、平和はいかに失われたか  英語版は高いし、国会図書館にはあるようだけど、まあ、ええっしょ。
 一読の価値ある本だよ。マクマリーの当時の米国の国策のあるべき姿に関する構想が正しいかどうか別にして、現在にも相通じるところがありときどき背筋が寒くなるほどだった。
ちょっとみてみようか?

95
我が米国の伝統的な極東政策の要点は、巨大な経済発展の潜在力をもつ中国が問題全体の中心であるという考え方であった。
97
極戸におけるアメリカ外交の活動の最大の目的は、経済発展を予測される中国との通商上のシェアについてアメリカの権利を完全な形で確保することであった。そのためには中国人ができるだけ妨害されずに経済発展をつづけられるよう、しっかり見守っていかなければならないのであった。

といのがアメリカの全体的な思惑。

104
日本政府は1931年9月の満州侵攻開始までのほぼ10年間、ワシントン会議の協約文書ならびにその精神を守ることにきわめて忠実であった。そのことは、中国に駐在していた当時のあっ国外交団全員がひとしく認めていた・・・日本の陸軍の現役士官たちと、「浪人」といわれる愛国主義の権化のようなあの無責任な連中とが一緒になってアジアで日本を帝国をさらに拡大強化しようとする陰謀と冒険を可能ならしめた。・・・・しかし、当時中国問題にもっとも深くかかわっていた人々は日本政府は申し分なく誠実に約束を守っていた。

ふーむ。案外、ちゃんとやってたんじゃん。

108
この事件[(上海と沙面(広東)における流血の惨事]においては中国人の特別の憎しみが英国人と日本に対してかき立てられた。しかし、暴動の標的は明らかにソ連の国民党政治に顧問の助言によると思われるが、英国へ突然集中するようになった。
111
関税会議は有国の政治指導者たちがリードして討議が始まった。この指導者たちは拝金思想をおさえるほどの熱烈な理想主義者でも無かったけれど、おしなべて自国の国際的な義務を極端に無視し、激しい挑戦的な態度をとった。この人々にとってこの会議は外国人とその権利に対する侮蔑の念を派手に演出してみせて、自らの個人的な政治的運命を向上させる絶好の機会にすぎなかった。
113
ヒステリックな外国人排斥運動があったこの時期、中国の敵対行動は英国にもっとも厳しく向けられていたというのが公正な見方であろう。

激しいナショナリズムが存在し、それを利用する中国の姿はいまもかわならい


126
中国において責任ある政府という形すべて消滅するという事態に列強諸国は直面したのである。関係各国は南北グループとも、統治権を有する責任政府として扱うことができなかった。

この当時、まだ、中国という「国」があったわけじゃないわけやな。


137
蒋介石軍が意気揚々と南京に兵を進めてきたとき、この軍隊の一部が命をうけ、外国人の全財産を没収し、これに遭遇した外国人住民を攻撃した・・・・米英のの砲艦が艦砲射撃で襲撃者を追い散らしやっとそこから救出された。
 この艦砲射撃により、南京の中国市民にも多数の死傷者がでた。日本は南京駐在領事盛岡正平の臨機の判断が効を奏し、日本慰留民に死者がでることはなかった。また、外国側の攻撃に日本は一切参加していない。

あの日本による南京虐殺の前の、蒋介石と西洋列強による南京虐殺だな。

142
しかし、要求を無視された列強がさらに協同で圧力をかけようとしたとき、我がアメリカ政府はその目的のために高圧的な手段に参加する用意はなかった。・・・我が国の不参加は国際協力を無力化し、各区の立場を裏切る結果となってしまった。

148
近年まで協調政策の推進者であった米国がこうしてベルギーを支持せず、それどころかむかんしんを公然と宣言したため、ベルギー政府は本件をハーグ国際常設法廷へ提訴し、中国の主張する条約破棄が法的に有効であるか否かを裁判で決着することにした。しかし、中国は訴訟手続きを軽蔑してこれに応じなかった。

150
これと類似しているが、もっとも根本的なケースは1896年および1903年の日清条約(通商航海条約)を中国が破棄宣言した事例であった。

ったく、約束守れ、っちゅうに


152
済南は当時日本の巨大な権益が集中していたところであり、重要な鉄道分岐点であった。この鉄道路線沿いに国民党の北伐軍が北京ならびに華北の征服を目指して進軍していた。
 どれほど多くの口実や挑発があったにせよ、少なくともにそこにはこうした予防措置を正当化するだけの有力な日本の利権が存在していた。
155
 日本軍が済南の慰留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は神の恩賜がなければ、上海が天津で我々アメリカ国民に起こったかもしれないことと少しも変わらないはずのものだった。

 中国侵略というとき、侵略だが、たんに侵略というだけはあまりにも単眼的というのがよくわかる。

161(条約改定、特に治外法権の問題に関連して出淵大使
「このような国際的な努力に心から協力してきた日本政府は条約改訂を主題とする今後の交渉に際してもこれと同じ精神で活動するつもりである。
 しかしながら、中国政府はこのところ、過去のいろいろな機会に行った約束の履行を反故にして自国の要求事項を獲得することだけに熱中し続けている傾向がみられる・・・・中国の要求を実現するために援助したいる関係諸国はこの事実を無視しないで、中国が外国との関係を整理するために責務は公約を反故にしないで補償を取り付けるべく努力さえっるように日本政府は希望せざる得ない。

167(内田伯爵)
日本政府はアメリカ政府が中国問題に関する国際的協力の理念の保証人であると認識している。我々が、中国をこの国際協力の枠組みに引き戻すよう決定的な影響力を、アメリカが放棄するのかどうか、日本は知りたいと思っている。
168
内田伯爵の問いかけに対する米国政府の曖昧な回答、そしてこれを補足した出淵大使の主張に対するあきれるほど否定的な回答は、・・・にほんせいふにはなはだ不穏なもとそいて感じられたに違いない。

アメリカへの不信感がどんどんたかまっていく時期だね。



173
中国にとってこの関税自主権の回復は、関税全般にかかわる無条件な最恵国待遇を与える義務と差し替えに得られたものである。・・・・中国はアメリカとの交渉でも他の列強との交渉でも条約の無理なこじつけ解釈を執拗に押しつける態度をとった。

はやく気付け、ちゅうに。


177
彼(張将軍 )は自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢さをむしろ自慢していたものだ・・・例えば、鉱区使用料などについて条件を定めた上で日本のある企業の鉱山採掘権が与えられたとする。・・・規定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。日本側が拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没・・・情勢を察知し、もっとも高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。

ねえええ?やっぱ、形は違えど、今も似たようなことやっているでしょ。企業が進出する、エッチ事件とかで、ナショナリズムを煽る、そして、日本から譲歩を引き出す。


180
人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力を訴え、挑発的なやり方をした。力に訴えようとして力で反撃されるそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が弱みの兆しをめるとたちまち威張り散らす。

深い洞察か、あるいは単なる偏見か?

184
日本の中国支配にあたっての唯一の障害は日本自体に内在するある種の経済的、政治的もしくは社会構造上の欠陥であろう。つまり、日本が自らの力を超えて行きすぎてしまうことである。その手に余るほど広い領土を征服し保有しようとする、・・中国民衆の・・・・強固な抵抗に逆らって、もうかる限界まで搾取しようとする。

さすがに当時の日本の戦略のなさが目立つね。

188
日本の打倒は極東問題からの日本の排除を意味しない。日本が敗北すれば、・・・社会的混乱の時代がつづくだろう。しかし、・・・力強い国民は(日本もそうであるが)配線は国家の屈辱に柔順になってしまったりはしない。

そやろうね。

190
日本に対する米国の勝利は極東での障害要素であった日本が排除されてリベラルな路線での米中間の緊密な理解と協力に役立つ・・・と予測する平和主義者や理想主義者いるかもしれない。しかし、それは思い違いである。中国人は過去も現在も未来も外国を野蛮な敵と常にみなしており外国を競り合わせて利を得ようとしてきた。外国人のうち一番成功している国が尊敬されるが、その次には直ちに引きずり落とされてしまう。・・・・
 もし、米国が・・・・中国人民の目から見て「ナンバーワンの国」となれば、それは米国が中国人民にとってもっとも好ましい国なったというのではなく、逆に彼らが最も信頼しない国なったということである。
これも深い洞察か、あるいは偏見か?


198
現在の対中国貿易の価値は比較的少ない。中国の貿易額の増加分は圧倒的に日本がとってしまうだろう。これは政治的軍事的圧力はさておき、純粋に経済地理的な理由からそうなるのである。

199
日本人は天然資源の乏しい小さな島にぎっしり密集してすんでいる。日本は東アジアを除くすべのて市場からかなり遠く離れているし、狭い海の向こうから二つの国、中国とロシアから過去に威嚇をいけてきた。日本人はそれを彼らの生存のそのものの脅威だと、いつもみなさねばならないのである。

200
日本人は表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなるような国民なのだ。


ここらへん国際状況も、日本人の気質もかわっておらんよな気もするな。