goo blog サービス終了のお知らせ 

Kennyのブログあれこれ

写真付きで日記や趣味を書くあれこれ

日記(1.18)  小野田さんの記事

2014-01-18 18:02:26 | 日記
1月18日 (土曜日)  晴れ

やや暖かい日である。
昨晩の約束で、孫君の買い物手伝いで出かける。

カインズのゲームコーナーに寄って



次はトイザラスにて、カードやトレッタとかを収納するケースの買い物を・・

こちらも懸命に、頭の中を孫の年齢までさかのぼって、
当時はこういったゲーム機など無かったが
何にか欲しいものが有るとそれに夢中になっていたのは同じだ。

ただ、今は子供が少ないのと、外で遊ぶチャンスが少なく
なってしまっているんだなあ~!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
今朝の記事には
小野田さんが91年の生涯を閉じた。
1974年、フィリピン・ルバング島での
29年間の潜伏から生還したときの
日本中の騒ぎが忘れられない。
敗戦を信じず、山中でゲリラ戦を続けていたという驚きが、
平和な社会を揺るがせた。
とある。

▼生きて虜囚の辱めを受けず、という。
だが、陸軍のスパイ教育は違ったらしい。


玉砕は許さぬ。絶対生きろ。
いつ果てるとも知れぬ任務の日々の中で、
それが死への誘惑を克服する支えになった。

~~~~~~~~~~~~~~~
★この事件はかなり良く記憶している。
 何もわからずに2.26事件に参加もした伯父がよく言っていた。
 ガダルカナル島に行く前に終戦で帰国できたらしいが
 彼は何故自決しなかったのか?と・・
 今にして思えば、玉砕は許されなかったんだ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼歓呼の声で迎えたかに見えた世間は小野田さんをいら立たせる。
 軍人精神を堅持した英雄と持ち上げるかと思えば、
 「いまわしい戦争の亡霊」とうとまれたり。
 著書『わが回想のルバング島』に帰国後の心の葛藤を記した。
~~~~~~~~~~
 ブラジルに新天地を求めたが、
 それでも日本は小野田さんの故郷だった。

▼強くあれ。
 野性を取り戻せ。
 子どもたちのために開いた「自然塾」にはこれまで2万人以上が参加した。
 いまの日本人は能天気で、たくましさがない。
 島で過酷な風土と対峙してきた経験を伝えなければ。
 そんな危機感から始めたライフワークだ。

▼昨秋に出版した『生きる』には、
 「人間はもともと殺し合うようにはできていない」とある
 元軍人の重いメッセージである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○また、今の若者は殆んど知らないであろうからと他の記事は・・・

今や事情を知らぬ若い方に説明が要るだろう。

旧陸軍少尉だった小野田さんは派遣された比ルバング島で、
戦後も投降を拒んで30年近い山中生活をしていた。
元上官の命令でようやく比当局に投降して実現した帰国だった


~~~~~~~

============
▲だが見知らぬ日本に帰った小野田さんは、
 二つの時代のはざまに落ち込んだような苦い体験を強いられる。
 翌年にブラジルへ移住、そこで牧場経営を成功させた後、
 改めて日本人としてなすべきことに思いをめぐらして始めたのが
 日本の子どものための自然塾だった。

▲「飯ごうに電源コードがついていないと言う子どもに驚かされた」。
  ルバング島での話を伝えながら、子どもらにキャンプを通して
  自然体験をしてもらうこの塾で小野田さんはいつもこう語った。

「自然の中で分かるのは、人間は一人では生きていけないことです」


▲小野田さんは晩年に人生を生き直したいかと尋ねられ、
 笑いながら答えている。
 「やり直したって、どうせ自分の思うようにいかないんだから」。



 自らに課せられた運命を生き抜いた91年だった

=======================
★私がフィリピンの工場のネット網の設計や工事への出張時
 ちょうど、何回目かの出張でフィリピン国際空港に記者やカメラマンが
 押し寄せていたので、 なんだろうと思っていたら、
 小野田さんがお世話になった、フィリピンにお礼に来ていた時に
 遭遇したのだった。
 ~~~
 それにしてもあの湿度が高く、酷暑の地でジャングルに
 約30年も生活すると言うのは・・信じられない。
 普通、心が折れるものだが・・

グアムでの横井さんが隠れ住んでいた場所の近くまでは、旅のコースを離れて
行ってみたことがあるが、なんと入ってはいけない様な場所だった。
~~~~~~~~~~
戦争はいつまでも悲劇をもたらすものなんだ・・・。
戦後の貧しい時代は子供心に鮮明だ!
==================================