1月18日 (土曜日) 晴れ
やや暖かい日である。
昨晩の約束で、孫君の買い物手伝いで出かける。

カインズのゲームコーナーに寄って

次はトイザラスにて、カードやトレッタとかを収納するケースの買い物を・・

こちらも懸命に、頭の中を孫の年齢までさかのぼって、
当時はこういったゲーム機など無かったが
何にか欲しいものが有るとそれに夢中になっていたのは同じだ。
ただ、今は子供が少ないのと、外で遊ぶチャンスが少なく
なってしまっているんだなあ~!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
今朝の記事には
小野田さんが91年の生涯を閉じた。
1974年、フィリピン・ルバング島での
29年間の潜伏から生還したときの
日本中の騒ぎが忘れられない。
敗戦を信じず、山中でゲリラ戦を続けていたという驚きが、
平和な社会を揺るがせた。
とある。
▼生きて虜囚の辱めを受けず、という。
だが、陸軍のスパイ教育は違ったらしい。
玉砕は許さぬ。絶対生きろ。
いつ果てるとも知れぬ任務の日々の中で、
それが死への誘惑を克服する支えになった。
~~~~~~~~~~~~~~~
★この事件はかなり良く記憶している。
何もわからずに2.26事件に参加もした伯父がよく言っていた。
ガダルカナル島に行く前に終戦で帰国できたらしいが
彼は何故自決しなかったのか?と・・
今にして思えば、玉砕は許されなかったんだ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼歓呼の声で迎えたかに見えた世間は小野田さんをいら立たせる。
軍人精神を堅持した英雄と持ち上げるかと思えば、
「いまわしい戦争の亡霊」とうとまれたり。
著書『わが回想のルバング島』に帰国後の心の葛藤を記した。
~~~~~~~~~~
ブラジルに新天地を求めたが、
それでも日本は小野田さんの故郷だった。
▼強くあれ。
野性を取り戻せ。
子どもたちのために開いた「自然塾」にはこれまで2万人以上が参加した。
いまの日本人は能天気で、たくましさがない。
島で過酷な風土と対峙してきた経験を伝えなければ。
そんな危機感から始めたライフワークだ。
▼昨秋に出版した『生きる』には、
「人間はもともと殺し合うようにはできていない」とある。
元軍人の重いメッセージである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○また、今の若者は殆んど知らないであろうからと他の記事は・・・
今や事情を知らぬ若い方に説明が要るだろう。
旧陸軍少尉だった小野田さんは派遣された比ルバング島で、
戦後も投降を拒んで30年近い山中生活をしていた。
元上官の命令でようやく比当局に投降して実現した帰国だった。

~~~~~~~

============
▲だが見知らぬ日本に帰った小野田さんは、
二つの時代のはざまに落ち込んだような苦い体験を強いられる。
翌年にブラジルへ移住、そこで牧場経営を成功させた後、
改めて日本人としてなすべきことに思いをめぐらして始めたのが
日本の子どものための自然塾だった。
▲「飯ごうに電源コードがついていないと言う子どもに驚かされた」。
ルバング島での話を伝えながら、子どもらにキャンプを通して
自然体験をしてもらうこの塾で小野田さんはいつもこう語った。
「自然の中で分かるのは、人間は一人では生きていけないことです」

▲小野田さんは晩年に人生を生き直したいかと尋ねられ、
笑いながら答えている。
「やり直したって、どうせ自分の思うようにいかないんだから」。

自らに課せられた運命を生き抜いた91年だった
=======================
★私がフィリピンの工場のネット網の設計や工事への出張時
ちょうど、何回目かの出張でフィリピン国際空港に記者やカメラマンが
押し寄せていたので、 なんだろうと思っていたら、
小野田さんがお世話になった、フィリピンにお礼に来ていた時に
遭遇したのだった。
~~~
それにしてもあの湿度が高く、酷暑の地でジャングルに
約30年も生活すると言うのは・・信じられない。
普通、心が折れるものだが・・
グアムでの横井さんが隠れ住んでいた場所の近くまでは、旅のコースを離れて
行ってみたことがあるが、なんと入ってはいけない様な場所だった。
~~~~~~~~~~
戦争はいつまでも悲劇をもたらすものなんだ・・・。
戦後の貧しい時代は子供心に鮮明だ!
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やや暖かい日である。
昨晩の約束で、孫君の買い物手伝いで出かける。

カインズのゲームコーナーに寄って

次はトイザラスにて、カードやトレッタとかを収納するケースの買い物を・・

こちらも懸命に、頭の中を孫の年齢までさかのぼって、
当時はこういったゲーム機など無かったが
何にか欲しいものが有るとそれに夢中になっていたのは同じだ。
ただ、今は子供が少ないのと、外で遊ぶチャンスが少なく
なってしまっているんだなあ~!

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今朝の記事には
小野田さんが91年の生涯を閉じた。
1974年、フィリピン・ルバング島での
29年間の潜伏から生還したときの
日本中の騒ぎが忘れられない。
敗戦を信じず、山中でゲリラ戦を続けていたという驚きが、
平和な社会を揺るがせた。
とある。
▼生きて虜囚の辱めを受けず、という。
だが、陸軍のスパイ教育は違ったらしい。
玉砕は許さぬ。絶対生きろ。
いつ果てるとも知れぬ任務の日々の中で、
それが死への誘惑を克服する支えになった。
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★この事件はかなり良く記憶している。
何もわからずに2.26事件に参加もした伯父がよく言っていた。
ガダルカナル島に行く前に終戦で帰国できたらしいが
彼は何故自決しなかったのか?と・・
今にして思えば、玉砕は許されなかったんだ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼歓呼の声で迎えたかに見えた世間は小野田さんをいら立たせる。
軍人精神を堅持した英雄と持ち上げるかと思えば、
「いまわしい戦争の亡霊」とうとまれたり。
著書『わが回想のルバング島』に帰国後の心の葛藤を記した。
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ブラジルに新天地を求めたが、
それでも日本は小野田さんの故郷だった。
▼強くあれ。
野性を取り戻せ。
子どもたちのために開いた「自然塾」にはこれまで2万人以上が参加した。
いまの日本人は能天気で、たくましさがない。
島で過酷な風土と対峙してきた経験を伝えなければ。
そんな危機感から始めたライフワークだ。
▼昨秋に出版した『生きる』には、
「人間はもともと殺し合うようにはできていない」とある。
元軍人の重いメッセージである。
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○また、今の若者は殆んど知らないであろうからと他の記事は・・・
今や事情を知らぬ若い方に説明が要るだろう。
旧陸軍少尉だった小野田さんは派遣された比ルバング島で、
戦後も投降を拒んで30年近い山中生活をしていた。
元上官の命令でようやく比当局に投降して実現した帰国だった。

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▲だが見知らぬ日本に帰った小野田さんは、
二つの時代のはざまに落ち込んだような苦い体験を強いられる。
翌年にブラジルへ移住、そこで牧場経営を成功させた後、
改めて日本人としてなすべきことに思いをめぐらして始めたのが
日本の子どものための自然塾だった。
▲「飯ごうに電源コードがついていないと言う子どもに驚かされた」。
ルバング島での話を伝えながら、子どもらにキャンプを通して
自然体験をしてもらうこの塾で小野田さんはいつもこう語った。
「自然の中で分かるのは、人間は一人では生きていけないことです」

▲小野田さんは晩年に人生を生き直したいかと尋ねられ、
笑いながら答えている。
「やり直したって、どうせ自分の思うようにいかないんだから」。

自らに課せられた運命を生き抜いた91年だった
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★私がフィリピンの工場のネット網の設計や工事への出張時
ちょうど、何回目かの出張でフィリピン国際空港に記者やカメラマンが
押し寄せていたので、 なんだろうと思っていたら、
小野田さんがお世話になった、フィリピンにお礼に来ていた時に
遭遇したのだった。
~~~
それにしてもあの湿度が高く、酷暑の地でジャングルに
約30年も生活すると言うのは・・信じられない。
普通、心が折れるものだが・・
グアムでの横井さんが隠れ住んでいた場所の近くまでは、旅のコースを離れて
行ってみたことがあるが、なんと入ってはいけない様な場所だった。
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戦争はいつまでも悲劇をもたらすものなんだ・・・。
戦後の貧しい時代は子供心に鮮明だ!
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