東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(75)交通の発達

2015-01-25 21:34:19 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の交通の発達と変遷について、それが町を変えていったという話である。

「お茶の水と神田の中間に万世橋という駅があった。がっちりと造られた駅舎で、北側には秋葉原への高架線が一段と高く走っていて、おもしろい構図を生みだしていた。なぜそんなことを想い出すのかというと、小掌生のころ何回か広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像を見に行ったことがあったからである。族順口閉鎖の戦争物語は国語教科書にあったし、小学唱歌にもとりいれられていた。
 その駅で乗り降りしたことはない。JR資料によると昭和十八年廃止になったとある。しかし、私の記憶によれば、戦後の一時期、そこに停まった中央線の電車があったような気もする。プラットホームがまだ残っていたので、そこからおこる錯覚だったかもしれない。」

 万世橋駅の話というのか、これは元々国有鉄道の建設が資金難から進まないことから、民間で私鉄として建設するということで甲武鉄道という私鉄の作り出した駅である。建設途中で国有化された。この鉄道はなんというのか、ターミナル駅についてかなり行き当たりばったりに計画を進めていて、この当時はまだできていなかったとは言え、東京駅の計画を知りながら万世橋にターミナル駅を建設するし、それ以前に飯田町駅を開業させている。万世橋駅はターミナル駅に相応しい風格のある駅舎だったのだが、構内のスケールはそれ程大きなものではない。これは飯田町駅が長距離ターミナルとしての機能を果たしているという前提があったからなのだが、この辺りの役割分担などがしっかり煮詰められたものと言うよりは、行き当たりばったりに見えるのが明治という時代のおおらかさとも言えるだろう。
 万世橋駅の工事の規模が大きかったので、昌平橋仮駅を設けて、四年間に渡ってそこを始発終着に営業していたほどだった。それ程の規模であったから、東京駅建設の予行演習であったとも言われている。
 駅の廃止後に戦後、停車する電車があったという話は面白いのだが、確認する術がない。

 今の形に変わる工事の始まる直前の旧万世橋駅。


「交通の発達による、栄枯盛衰のもっともはげしい典型的な駅であった。明治四十五年四月の開業、中央線の頭端駅としてたいへんな賑わいをみせた場所である。駅前には市電が往き来していた。眼のまえは須田町の繁華街だった。林順信氏の『東京・市電と街なみ』には「東京地理教育電車唱歌」の歌詞があって「渡るも早し、神田橋、錦町より小川町、乗りかへしげき須田町や、昌平橋をわたりゆく」「電車は三橋のたもとより、行くては昔の御成道、萬世橋をうちわたり、内神田へと入りぬれぱ」とあるから、この界隈は江戸期の御成道以来の交通の要衝であったわけである。ところが、東京駅まで鉄道が敷かれると乗降客はすくなくなってしまったというのである。軍神広瀬中佐の銅像も裏通りへひっこんだ感じだった。
 盛り場の移動、衰徴という現象は往々にして交通の変化といっしょにおこっている。明治時代、鉄道敷設を拒否した町が時代の進歩からとりのこされたように、旧街道の商店街が新造のバイバスにとってかわられたように、昔も今も拒なじである。文明に背をむけて、静けさ、安らかさを保つことも町の歴史的文化的美観のために、けっして損失ではないのだが、人問はそうとぱかり言ってはいられないらしい。ことに商人は痛切である。」

 須田町が東京の中でも最も混雑する場所の一つというのは、いつ頃まであった認識なのだろうかと思う。私が子供の頃に、教えられた歌で「オラはぶったまげった 須田町の真ん中で」というのがあったのだが、昭和40年代の小学生には須田町がなんでそんなにすごいという歌になっているのか、全然ピンと来なかったのを思い出す。
 広瀬中佐の銅像が通りから引っ込んだ形になったのは、震災復興によって町割が変わったことが大きい。靖国通りは新しく造られた通りだし、中央通りも拡幅されて、万世橋駅の周囲は大きく様変わりした。震災前の東京は、荷風が愛したように江戸の名残を色濃く残した、近代都市ではない、中世の町であったとも言えるだろう。震災復興事業は、東京を近代都市へ生まれ変わらせたことはまちがいないと思う。
 そして、この中央線の東京駅乗り入れによって、呆気なく僅か七年で万世橋駅はターミナル駅から中間駅へと変わった。とはいえ、これで須田町が廃れたというわけではなかったようだ。須田町交差点は、市電の路線が数多く乗り入れてくるジャンクションであり続けたし、市電は乗り継いでも均一運賃であったから、ここで乗り換える人の数は膨大なものであった様だ。地下鉄銀座線が上野から万世橋まで延伸し、それから神田川を越えて延伸したのだが、神田駅の地下道が長く伸ばされて須田町交差点まで届いていたのには、須田町交差点が市電乗換の一大ジャンクションであったことが背景にある。
 その意味では、万世橋駅が廃れていった後も須田町交差点は賑わい続けた場所であった。市電が都電に変わり、都市内交通の主役から降板していった中で、須田町交差点も賑わいを失っていったということらしい。

万世橋越しに旧万世橋駅を望む。


「『伊勢丹七十五年のあゆみ』(昭和三十六年刊)をみていたら、つぎの一節があった。
「徳川時代にぎわっていたのは、東半分の低い下町で、西の台地の方はほとんどひらけていなかった。なぜなら台地のへりには江戸城をはじめ、たくさんの大名屋敷ががんばっていたからである。
 ところが明治になって旗本や大名は没落し、地方へかえったり下町に移って商売をしたりするようになった。その屋敷のあとへ地方から出てきた役人、会社の経営者などが住むようになった。そこで神保町、麻布十番、六本木、四谷塩町、神楽坂などの新しい盛り場がうまれた。江戸時代につくられた町の構造はしだいにくずれ、東京は西へ西へと発展し、またその他の方面へも拡大していった。
 伊勢丹がうまれた神田旅籠町は、中仙道沿いの上野、日本橋の中間にあって、かなり賑やかな町であったか、しかし後に万世橋や聖橋の中央線の鉄橋と神田、秋葉原、上野をつなぐ高架鉄道ができたため、すっかりさびれてしまった。」
 旅籠町は神田明神下。須田町からいけば万世橋をわたってすぐ左手である。芝居小屋、商店、料理屋、待合、旅館などでにぎわったところだ。いまの秋葉原電気街の一角にあたる。花柳界と実業界の顧客を相手に、伊勢丹はそこで呉服商を営んでいたというのだが、大正八年、中央線が山手線につながり、震災後昭和七年になって、両国・御茶の水間が完成すると、このあたりは逆にさびれたというのだ。旅籠町は高架線の下、電車は頭上を通過したのである。」

 伊勢丹は当初、担ぎ屋から始まったと聞いたことがある。反物を担いで得意先を回って注文を取る形態で、それが上手くいって旅籠町に店を構えるようになった。この伊勢丹創業の地は、少し前まではヤマギワ電気であったのだが、秋葉原も様変わりする中でビルも姿を変えている。そのどさくさで、伊勢丹創業の地の石碑も一時見掛けなくなっていたが、どうしているのだろうか。
 この旅籠町が呉服屋向きの町ではなくなっていったということには、震災復興で町の様子が一変してしまったということも大きいだろうと思う。震災で焼失した町は、再建されても、同じ住人が戻ったわけではない。焼けて失われた町と、新しく興された町は違う町といった方が正しい様に思える。

「万世橋、須田町界隈の変化、衰退を読みとって、あたらしい盛り場への転出をはかろうとしたのは、伊勢丹二代目小菅丹治だった。社史執筆の菱山辰一は、その転出を「伊勢丹の全運命を賭けて」おこなわれたと書いている。しかし、それもなかなか出来なかった。というのは土地間題で難渋していたからである。昭和六年七月になって、新宿の東京市電気局の土地一〇五〇坪の競争入札が発表された。同族中心の役員のあいだでも、新宿進出は無謀な冒険、砂上の楼閣だとの声があがっていた。震災後、一大商業地になりつつあった新宿でさえも危機感をいだかせるものがあった様子である。
 三代目小菅利雄は、両親の前によばれて、「もしこれに失敗したら、お前は久保田さんへ小憎にゆかなけれぱならないんですよ。いまからチャンと覚悟していておくれ」
 と言いわたされたという。
 当時の新宿にはすでに三越支店がある。入札場所の隣地はほてい屋だった。そこへ呉服商の伊勢丹が百貨店経営をめざして乗りこもうとする。それは交通事情の変化がもたらした、商人の大きな決断だった。」

 このほていやの隣への伊勢丹の出店は、とてもドラマチックで、今で言うベンチャーとかの言葉よりも、商人魂とか、そんな言葉の方が相応しい物語であるようだ。私の曾祖父は、明治期に神田花房町で店をやっていた時期がある。花房町は、旅籠町とは背中合わせのような位置関係で、伊勢丹と親しく付き合っていたようだ。母に聞くと、大叔母は小菅さんと言って親しくしていたそうで、明治からの付き合いと言うことだったらしい。だから、この辺りの話は、どこか私にとっても生々しい部分を感じる話でもある。
 伊勢丹は、ほていやの隣にビルを建てて新宿に進出するわけだが、この時にほていやのビルに一階ごとの高さまで同じで、外観もそっくりのビルを建てている。つまり最初からほてい屋を呑み込むつもりの進出であったわけだ。今は、この二つのビルがその目論見通りに一体化されているのだが、明治通り寄りはほていやであったことを知る人は、既に少なくなっているのだろう。

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