東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(79)盛り場の顔と背中(つづき)

2015-03-28 22:08:44 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の盛り場、新宿についての続きである。

「東京が西へ西へと発展していったことは前に述べたが、私は実感としてうけとめたことが多い。職場の上司同僚はほとんど隅田川以西に住んでいたからである。仕事先の方々にもほとんどそうであった。最初の勤め先は東京駅前の丸ビルにあった。二年ほどして京橋二丁目に移ったが、仕事での行動範囲はわずかな例を除いて、隅田川をわたることはなかった。千葉県の市川市に住んでいるというと、なんだ、遠いところだなと言われたりした。ところが、中央沿線でいえぱ高円寺、阿佐ヶ谷とおなじくらいの距雌である。
 先輩からちょっと飲みに行こうと声をかけられると、銀座から新宿へまわる。そのあげくは阿佐ヶ谷、荻窪までつきあわされて、深夜、タクシーをとぱして帰る羽目になる。ときには先輩の家に泊まったりした。人形町、両国、浅草、あるいは門前仲町、そういう盛り場にはみな眼もくれないのだ。古いところでは神楽坂ぐらいだった。東京の盛り場は、銀座と新宿、それに渋谷と池袋と赤坂とがくわわって、ほかは見向きもされないかのようなおもむきだった。それほどまでに東京は西にむかっていたとの印象がふかい。」

 近年まで、確かに東京の西への指向の強さは際立っていたことは、私にも理解出来る。一つには、戦災の被害が隅田川の東でより酷いものであったこともあっただろうし、山手線よりも西となると大きな被害を受けていないことと、新たな宅地化が進行していったことで、住むなら西側という潮流が強かったのだとも思う。
 そして、それは関東大震災後の旧市街からの流出先としても東京西部へ向かった流行があって、その流れを引き継ぐものであったとも言えるだろう。江戸時代には町人は町に住むことになっていたし、武士は拝領した屋敷に住むのが当たり前であって、好きなところに住んでいたわけではない。明治維新でその垣根は壊れたのだが、旧市街は表の大店に裏店の長屋という状況が続いていた。徐々に富裕層は山手エリアを中心に西へ移り始めるのだが、これが関東大震災で一気に加速することになる。
 そんな背景があったから、盛り場も勢い西部エリアが優勢という状況が続いた。中央線沿線がシンボリックなエリアになっていったとも言える。その東京の西進が行くところまで行き尽くしたところで、東京東部の再評価が始まったというのが近年の状態だろう。

 新宿の盛り場としての発展と共にあった末廣亭。


「江戸以来の盛り場といえぱ、寺の門前町として形成されたところが多いが、ここは中心となる伽藍はもたなかった。それは渋谷でも池袋でもおなじである。十五区時代の東京が大正震災後、急激に膨張すると同時に、新宿、渋谷、池袋などは交通の要衝として大きな位置をしめるようになった。昭和二十年のたびかさなる空襲で、下町一帯から山の手にかけて、どこもかしこも無惨な瓦礫をみせていたが、住民が郊外へ移るとともにさらに重要な拠点となった。
 あるとき、伊藤整さんと新宿を歩いていたとき、駅を指さして、
「この建物もいまのうちに写真をとっておいたほうがいいですね。まもなく変ってしまうような気がしますよ」
 と言われたことがあった。
 その建物とは震災後の大正十四年二月に完成した駅舎だった。正面入口をまんなかに持いて、対称的な構図の角ぱった薄茶色の建物であった。あまり見栄えのしないものだが、伊藤さんにとっては上京以来、なじみ深いものだったにちがいない。」

 新宿、渋谷、池袋という、鉄道の開通、そしてその後の私鉄の発展によりターミナル駅と成って発展した町に共通するのは、駅があるところが元々何もないような所であったという点だろう。新宿も宿場町の外れの何もない所に駅が出来ている。渋谷も鉄道開通までは繁華街には程遠い。池袋に至っては、鉄道敷設時には駅すら造られなかったというところだ。そういった原っぱの中のような所で何もなかったからこそ、山手線の駅に各私鉄が接続駅を作り上げることができ、さらにはその後の大きな発展を呼び寄せる余地があったという気がする。
 上野と東京の間は、江戸以来の町が広がっていたことで、そこを突っ切る鉄道の敷設には大変な時間を要している。明治の日本が今日的な民主国家でなかったとしても、既存の町に強権を振るって鉄道を通すことなどそう簡単にはできなかったわけである。関東大震災によって、町が一旦焼失した事であのエリアの鉄道網はようやく完成することが出来た。そう考えると、東京の西部エリアが新開地として発展して行けたのは何もなかったところだからという理由の大きさを感じる。
 そして、新宿駅周辺の近代化はかなり都内でも早い段階で行われていて、東口の駅ビルも、西口の立体構造の駅前も、私の物心付いた時には既に出来上がっていた。

少し駅から離れて、元の宿場町だった辺りで一本裏へ入ると、今でもこんな町並みがある。2012年に撮影したもの。


「新宿の駅舎は昭和三十年代後半にとりこわきれて、ステーションビルになった。駅前も整備された。屋台はそれぞれに転居を余儀なくされて、営業をつづける店はビルのなかに入った“奥野信太郎さんはバラック居酒屋の繁昌ぶりをその庶民性のゆえとし、文壇の交流の揚としては銀座の「三十間堀の“長谷川”に譲るものではない」といい、「どうやら酒に因んだ新宿の文化面」だと書いた。その気風は、たとえビルの地下にはいろうと、三階、四階に上ろうと、私たちが連日のごとく夜の新宿に集まっていたころにつながっていたわけである。酒場は私のような職業をもつものにとつて、夜の学校であり、人間鍛練の場であった。」

 今はJR東日本が熱心に駅ビルを建てまくり、山手線の駅の多くに駅ビルがあるような状況になっている。だが、新宿の駅ビルは戦後の復興期からの流れを持った町と共にできていった背景を持っている。新宿というと、歌舞伎町に代表されるいかがわしさ、猥雑さがあるだけではなく、中央線沿線の顧客を背景にした、中村屋や紀ノ国屋書店の作り出してきた文化的な町という一面もあった。そして、ここで描かれているのは、ゴールデン街で夜毎作家や役者が飲み歩く様になる以前の、闇市時代からの空気を引き摺るバラック居酒屋、そしてそんな人たちと共存する中で駅ビル化していったということなのだ。
 国鉄が民営化されJRに変わってから、とりわけ東日本は不動産業になったのかと思うほどにここに力を注いでいる。そんな中で、新宿の駅ビルでも古くからのテナントを追い出そうとしたりという話もニュースになったりしていた。こういった、新宿の駅ビルがどういった過程を経て成立していったのか、などという昔話にはJR東日本は興味がないのだろう。

 木村荘八が新宿駅を描いた作品。.これはここで出て来た新宿駅の内部。


「昭和四十年代以後、超高層ビルというものが出来はじめて、東京は大きく変りはじめた。つぎつぎにあらわれる建築物は高さを競うかのようであった。都市計画のなかで「再開発」という言葉かつかわれはじめ、この三十年間でみるみるうちにノッポビルが出来た。新宿副都心計画はその代表的な例である。」

 超高層ビルの最初は、霞が関ビルだった。これは文字通り、霞が関にできたが、その後の超高層は新宿副都心計画で集中的に建てられていった。超高層ビルが建ち並ぶ町といえば新宿、というのも今となっては昔の感覚と笑われる話なのだろうか。

「かつて専売局、学校、淀橋浄水場のあった西口一帯の変貌ははげしいものがある。いま新宿郵便局、東海銀行、工学院大学のあるあたりは、杉浦重剛創立の日本中学校だった。その北は明治十六年開校の女子独立学校(のち精華女学校と改称)であった。新渡戸稲造の東京女子大学もその近くだった。明治・大正のこのような経緯を考えてみると「青梅街道と甲州街道とにはさまれたここは、あきらかに文教地区であった。森有禮が住んだのはその淀橋である。憲法発布の日、彼は家を出ようとしたところ暴漢に刺された。孫森有正の妹にあたる関屋綾子さんに『一本の樫の木』という本があって、祖父有禮没後もこの淀橋に住んでいたとある。内村鑑三も柏木へ移るまえ西口に住んでいた。日本鉄道の品川・赤羽線が通じてからの新開地であるとしても、交通の発達とともに生まれた教育環境であったとおもわれる。精華女学校は明治四十四年、北新宿に、東京女子大は大正十三年、杉並区善福寺に移っている。日本中学は昭和十一年、世田谷区松原に移ったのだが、それは新宿の都市計画によるものであった。その事情はそれぞれにあるとしても、歌舞伎町の第五高女をふくめて、新宿からは学校がつぎつぎに去っていった。つい最近まで新宿御苑のとなりにあった新宿高校(旧府立六中)も、平成三年、原宿の日本社会事業大学跡地へと移っている。」

 新宿駅西口は、かつての姿から全く違った街へと変貌しているようだ。東口と違って、どこか田舎っぽいと言うのか、古くからの町を感じさせない所だと思っていたが、それは元々駅前に専売局の巨大な工場があったことも大きかったようだ。
 そして、駅前が文教地区であったというのは、どこか池袋の西口と通じるものがある様で面白い。池袋駅の西口も、今は皆移転して閉まっているが、かつては多くの学校のある町だった。何もなかったところに鉄道が通り、駅が出来ることで発展していったわけだが、どちらもまずできたのが学校というのが興味深いところだ。
 新宿の場合は、東口の側は宿場町から連なる様にして発展していき、西口が郊外の趣を残していたことで、住まいを置く場として選ばれる理由になっていたのではないだろうか。それにしても、専売局工場のあった時代の新宿西口というのは想像できない。ちなみに、専売局というのは現在のJT、日本たばこ。大蔵省専売局から戦後に日本専売公社となり、日本たばこへと変遷している。

 新宿西口側、甲州街道沿い。


「淀橋浄水場は明治三十二年以来、東京市民の喉をうるおしてきた。玉川上水をひきいれた広大な土地であった。専売局はいまの西口会館、小田急デパート、京王デパート、安田生命ビルをふくむ一帯にあった。鉄道線路のそばの大工場だ。東品川へ移ったのは昭和十一年四月であった。新宿の発展につれて西口の大改造が立案されたのは昭和初期だというから、その実現には約半世紀の歳月がかかっている。もし、戦争で計画が中断しなかったら、超高層ビルとはちがったかたちの街の形成になっていたかもしれない。
 ともかく昭和四十年三月末、淀橋浄水場が東村山に移転したことで、急速に大工事がはじめられた。私の記憶しているかぎりでも、西口は駅周辺のほんの一角がにぎわいをみせていただけである。外へむかってすこし歩けば泥濘と挨にみちていた。かつての歌舞伎町とおなじだった。浄水場は静けさをたたえていて、水鳥が舞っていたのをおもいおこす。そんな西口はあっという間に変ってしまったというおもいが深い。」

 私の記憶でも、新宿の西口というのは駅を出てしまうとちょっと寂しいところという感覚から、急速に副都心計画が進行してあっという間に超高層ビルが林立する街に変わっていったという印象がある。私にとっても、まだ幼い頃だったから、浄水場があった頃には近くに行くこともなかった。それでも、京王プラザホテルに住友三角ビルを筆頭にして、あの辺りに次々とできた超高層ビル街、そして後を追って出来た東京都庁で一気に少し郊外のような場所であった新宿駅西口が激変したことは間違いない。都庁の移転は、それだけのインパクトのある出来事でもあった。
 その一方では、戦争で開発計画が中断したとあるわけで、戦前のプランニングであの広大な土地をどうしていたのだろうかというのは、考えて見ると非常に面白い。逆に言えば、昭和40年代まで新宿という、東京のまん中の要衝であれ程のスケールの土地が残されていたというのは、今にして思うと凄まじいものだと思う。

「たしかに東京は西へむかって発展しつづけてきた。それは行政や建設の專門家ならずとも実感として肌身に感じられたのだが、平成三年(一九九一年)に新都庁が完成してみると、東京住民の地理的分布は完全に西へ傾いている。一万五千人の職員がここに移るだけでも影響は甚大である。それと同時に盛り場の顔も変りつつある。超高層ビルの谷間を歩くだけでもその変貌はかくしきれないのである。」

 本稿では、都庁の移転と新宿心南口の再開発で高島屋の開店という辺りに触れられている。確かに、高島屋が出来た事で新宿のエリアの雰囲気は大分変わってきた。そして、その後には地下鉄副都心線が開業し、東急東横線と西武池袋線、東武東上線という複雑な相互乗り入れまでが実現するという、大きな変化が今起きている。高島屋開店によって、伊勢丹が深刻な影響を受けるかも知れないという記事が引用されていたが、今となってはその予測が当たっていなかったことが分かる。むしろ、渋谷で乗り換える人が減少し、東横沿線からも新宿への買い物客が増加しているとも言う。副都心線は伊勢丹の最寄り駅と言っても良くて、その恩恵を最も被る位置関係になっている。
 渋谷駅は駅ごと高層ビル化していく勢いで、渋谷の街の様相もこれから大きく変わっていくことになるだろう。良くなるのか、悪くなるのかは、これから先を見ているしかない。

「再開発という言葉がつかわれるようになって久しい。いたるところで、耳がいたくなるほど聞かされてきた。その手はじめは駅前だった。東京駅、上野駅のように最初から広場が計画された場所はともかくとして、多くは建物が無雑作に密集していた。それをとりのぞき、道路と広場をつくり、あらたな建物をつくってきたというのが昭和の、ことに戦後の歴史ではなかったろうか。それは東京ばかりではない。全国各地にみられる現象である。
 その再開発はつぎつぎにあらたな構想を生んで、いまや東京圏は再開発ばやりだ。いったいどこまでいったら止まるのだろう。それは專門家でも予測しがたいらしい。前記の矢田氏は「それぞれの自治体や省庁が進めて協議する機関が、残念ながら今の日本には設置されていない」というのである。」

 未だに、このセンテンスは生きている。総合的に東京全体を見渡して、トータルで考えた都市計画を立案し、そこに従って個々の事案を進めていくというような、論理的な物事の進み方はない。いつでも個別に、その場所ごとの利権の奪い合いが繰り返されていくだけのこと。再開発というと、開発が再びなされるかのようだが、実際には単に古い建物を壊して新しい建物を建てるという以上の意味合いなどない。都市計画の不在ということも、言われ続けていても、そこに具体的な対策が示されることはない。
 地方については、今では人口減少がシリアスな局面を迎えつつあり、むしろその影響がどんな形で出てくるのか、どう波及していくのかと言うことが、注目されるべきポイントになるだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 池上本門寺と周辺を歩く~そ... | トップ | 馬込を歩く~その一:夢告観... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事