東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

品川区旧居木橋村~その一

2015-01-26 19:11:52 | 品川区
桐ヶ谷から大崎駅方向へと向かう道、百反通りというのだが、五反田に百反というのも面白いなと思っていた。でも、調べてみると呆気ない話で、五反田が目黒川沿いの水田の区画数から来ているのに対して、百反通りは百反坂が名の興りになっている。そして、昔は階段で百段と呼んでいたものが転じて百反になったということで、関連した言い伝えがあるとかいう訳ではなさそうだ。


大崎と言えば明電舎というのも、段々イメージが直結しなくなっていくのだろうか。大崎の駅前には、明電舎の大きな工場があって、その雰囲気が工場の町という先入観を上書きしていくような感じだった。今も小綺麗なオフィスビルになって明電舎はこの町に存在している。


この大崎駅周辺は、居木橋村といわれてきたところ。居木橋は山手通りの目黒川に架かる橋である。その周辺も、今はこんな雰囲気になっている。この辺りは、目黒川の水運を活かすということもあって、明治期から工業地帯として発展してきた歴史を持っている。山手線の駅の中では、唯一、工場の中に駅があるような町だった。ほぼ10年間で工場の町は姿を消し、駅の両側に高層のオフィスビルが建ち並ぶ町へと大転換を遂げた。その変わり様の激しさでは、都内有数と言えるかもしれない。


駅の向こう側に見えているところに、かつては巨大な明電舎の工場があった。


駅の周辺は、高層ビルに埋め尽くされている。山手線の駅の中でも、もっとも地味な印象の駅であったかもしれない大崎駅。かつての面影はない。


駅からそれ程遠くないところに、観音寺というお寺がある。境内の整備が完成したばかりのようで、真新しくピカピカしている。


元は、目黒川居木橋の南に位置していたものが、水害に見舞われ、元禄年間に村を挙げて現在地へと移転したという。開創は弘治元年(1555)頃、金剛山圓通院観音寺というのが正式名称。東雉山松琳院と剛したものが、いつの頃から関わったという。(天台宗東京教区サイトより)


山門前から振り返ると、こんな景色。高層ビルが屏風のように立ち並んでいる。


これも真新しい本堂。こちら向きに見ていると、背後には大きな木も茂り、背後の喧噪を忘れるような雰囲気がある。


扁額も輝いている。

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