東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(78)盛り場の顔と背中

2015-03-06 21:08:46 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の盛り場、新宿について。

「新宿について書かれた文章は多いが、私はきまって奥野信太郎の「酒たのし宿の口笛」という一篇をおもいおこす。『随筆東京』(昭和二十六年、東和社)におさめられたものだが、つぎのように書きだされる。
「新宿といふとわたくしは盲目の詩人ワシリー・工ロシェンコを思出す。うつくしい金髪を日に輝やかせながら、中村屋の店の前あたりに仔んで、じつと雑踏のひびきに耳を傾けてゐた彼のかなしげな表情を。そしていつも和やかさと静けさとを夢みながら永遠に開くことのなかつた雙の眼の沈黙を。やがて中村彝描くところのギターを手にして俯加減に坐した彼の画像が、その後彼が日本の地を去つてからも、ながらく中村屋の店の奥の壁に掲げられてゐたことも。」
 奥野さんがこの詩人をみかけたのは、慶応の予科時代だったとおもわれる。彼は相馬愛蔵、黒光夫妻の世話になって、中村屋のアトリエに住んでいた。大正十年五月、ボルシェヴィキの嫌疑をうけて国外退去を命じられている。そのとき、刑事、巡査ら三十二人が中村屋に土足のまま乱入して、盲目の彼を引きずりだしていった。愛蔵はその乱暴狼藉に抗議して淀橋警察署長を告発、辞職においこんでいる。ラス・ビハリ・ボースを救い、エロシェンコを保護した愛蔵は、そのような勇気ある正義派の商人であった。中村屋ではのちにインド式のカリーライス、ロシア料理のボルシチ、店員の制服のルパシカが名物になった。それはボーズやエロシェンコの示唆によるものであった。ボースは愛蔵の長女俊子と結婚して、中村屋幹部として働いていた。ほかに亡命ロシアの料理人を傭いいれているから、料理もパンもチョコレートも、当時の世界状勢とは無縁ではなかったのである。」

 新宿を語る上で中村屋は外すことのできない存在だ。今も新宿を代表する店であるのみならず、創業者の相馬夫妻が数多くの表現者のパトロンになり、彼等を支援したことも大きいし、それ以上にエロシェンコやボーズを迎え入れ、一旦懐には入ればとことん守ろうとするという、姿勢を持っていたというのも凄いものだ。正義派の証人というだけでは捉えきれない様なスケールの大きな人々であったと思う。ボーズに関しては、当時頭山満を始めとした人たちも支援に乗りだしており、この辺りで動いた人脈を見ていると、今日的な価値観で一絡げにしては理解出来ない多様性の面白さを感じる。
 この時代の特色でもあるし、やはりこの二人の活躍というのは新宿の発展を背景にしながら、新宿という町の色合いを独特なものにしていったとも思う。黒光夫人の従妹が有島武郎の「或る女」のモデルにされた佐々城信子であり、その辺りのことは大分前に触れたことがあった。
 そして、大陸を追われてきた人をかくまう様な懐の大きさが、中村屋のカレー、ボルシチといった名物を生みだしていくわけでもあり、中村屋という店の面白さはやはり格別なものがあると思う。

 新宿のもう一つの顔である、紀伊國屋書店。


「奥野先生は明治三十二年、紀尾井町の生まれである。中学時代は神田川にちかい浅草左衛門町の叔母の邸で過した。山の手に生まれ下町で育った方である。家は軍人の家系だった。祖父は明治の軍医総監橋本綱幸、父は陸軍中将にまで昇進した奥野幸吉である。安政の大獄で処刑された橋本左内は母方の大伯父にあたる。震災によって浅草の家は焼け、戦災では麹町の家を失っている。「母の生まれた市ケ谷見付内の長屋門のある旗本屋敷も、永遠に消え去つてしまつた」というが、それだけに東京の過ぎし日々の追憶は痛切である。東京の現実をみる眼はさらに切実である。『随筆東京』には場末風景として、洲崎から亀戸へ、今戸から千住へ、池袋から板橋へ、穴守から川崎への探訪記がある。また麻布や渋谷も描かれている。「土蔵のなか」「縁日」「ミルクホール」という題の回想記もあって、それぞれにおもしろい。『随筆北京』(昭和十五年)と対になる一冊としてまとめたというが、敗戦直後の東京の「混乱と無秩序」がありのままにとりだされる。」

 明治の紀尾井町というだけで、旗本屋敷だろうと思い浮かぶのだが、それが実際に在った景色はもちろん知る由もない。武家の生まれというのはどんなことなのだろうかとこのところ考える。この辺りも年代が少し違ってくるだけで、随分と違うのだろうとも思う。そして、その家の持ち味によってもそこで育つ人にどんな影響を及ぼすのかというのは、随分と違ってくるのだろう。
 軍人で出世した人が多い中で、文学者へ進むというのも面白いが、この辺りはそれこそ永井荷風を思えば重なってくるものが多い。荷風は明治12年生まれなので世代が違うのだが、環境面から共感するところも多かったのだろうか。

 橋本左内というと、南千住の回向院に墓があったのを思い出す。


 こちらは荒川ふるさと文化館前に保存されている橋本左内墓旧鞘堂と坐像。


「新宿の戦後現象について、尾津組のマーケットを魔都上海のそれにたとえ、歌舞伎町の創成を満洲の日本人都市のようにとらえたのもおもしろい。私は上海も満洲も知らなかったから、そうおもいこんでいたのだが、マーケットがとりはらわれてみると、新宿駅東口はいま、魔都のにおいなぞ完全に消えてしまった。量近までのこっていた南口斜面の飲みやだけがかろうじてその面影をつたえていた。現在、新宿の“戦後”をさがすとしたら、西口の一角だけである。
「もし人あつて人間飲食の欲をもつともあからさまにみせた場所はどこであるかと問ふならば、わたくしは躊躇することなく青梅口京王小田急終点前からガードにいたる仲通りの景観を挙げるであらう。なかんづく線路よりの細長い一筋こそその一軒一軒の屋台により集ふやきとり、フライの客のいとたのしげな相貌はまさにこの世の至悦を表示してゐる。」
 と奥野先生は書いている。しかし、京王デバート、西口会館のビルが出来、まわりの建物が修築され、内部も改造されてみると、もうかつての光景はみられなくなった。わずかにその軒なみだけが往時の面影をつたえるだけだ。敗戦から五十年、新宿の西口は大きな変貌を遂げている。」

 この文章が書かれたのが、戦後五十年で今年が七十年目を迎えるわけである。この二十年でも、新宿も激しく姿を変えている。ここで描かれていた微かな“戦後”はさらに揮発する様に姿を消していき、南口が大きく様変わりしている。その結果、どこか妖しく、猥雑な雰囲気を漂わせていた新宿は、今時のカラリとドライな町へと変貌している。西口の僅かな飲み屋街も、しばらく前に火災が起きたりしていた。
 山の手の新興繁華街であり、ちょっと文化的な香りを持っていながら、混沌も同居する胡散臭さも併せ持っているのが、新宿という町の色合いかと思う。それが今では、フラットで起伏のない、蛍光灯に照らし出された影の見えない町になりつつある。どこでも真新しいオフィスビルで埋め尽くされている。

「歌舞伎町の呼称が一般的になったのは、いつごろからだろうか。地名事典にあたってみると、昭和二十三年四月一日、角筈一丁目、東大久保三丁目の各一部が歌舞伎町として成立したと出ている。とすると、戦後早いころから町名変更の動きがあったとみえる。大久保一丁目に友人の家があったので、よくそこを通りぬけた記憶があるが、雨が降れば、ぐちゃぐちゃにぬかるんで、新宿の場末という印象はまぬがれなかった。町名の由来をたずねてみると、歌舞伎劇場の誘致をもくろんだところにはじまっている。その推進役はこのあたりの町会長鈴木喜兵衛であった。彼の発想は銀座と浅草をいっしょにとりいれるようなものだった。歌舞伎劇場、映画館、演芸場、ダンスホールなど、娯楽センターをつくろうと企てたのである。」

 この辺りは、興味深いところだ。私にとっても、既に物心付いた時には歌舞伎町は繁華街になっていた。それでも、風俗系の店が多いだけではなく、盛り場の胡散臭さを一身に集めた様な町というイメージがあって、近づくべきではない町という刷り込みがあった。
 昭和三十年代の日活映画を観ていると、まだ場末の雰囲気の残る歌舞伎町界隈が背景に出て来たりする。新宿という町、かつての街道筋の四ッ谷の方から追分に掛けて、そして鉄道が開通して新宿駅東口が栄える様に成り、その後に歌舞伎町が出来上がっていったといえそうだ。

「このあたり一帯(いまのコマ劇場を中心としたところ)はもと大村藩主の下屋敷だった。大村山という呼称もあったほど、森があり池があった様子である。『新宿の今音』によると、明治三十年代、ここを買いとった尾張屋銀行の頭取峰島喜代女は、大正九年、女子教育のために東京府に提供、そのときに生まれたのが府立第五高女であった。この学校は戦後、中野富士見町に移って都立富士高校となった。東京の焼跡の土地利用、再開発には各地で多くの問題をのこしてきたが、この歌舞伎町について考えると、歌舞伎劇場誘致の構想か先行して、地名だけがのこったという皮肉な一面をさらけだしている。
 そこには興行資本がこの企てに憤重だったこともあげなければならない。松竹が新宿に新歌舞伎座を建設したのほ、昭和四年のことであった。しかし、成績はかんばしくなかった洋画専門の武蔵野館やムーラン・ルージュ(昭和六年開場)の人気にくらべて、旧劇の入りはよくなかった。やがて第一劇場と名をかえて映画を上映することになる。新宿はなんといっても震災後の若ものの街、山の手や武蔵野新開地に住むサラリー々ンたちの集う場所である。その土地柄が歌舞伎をうけつけなかったであろうし、歌舞伎劇をたのしむには下町へ行ったほうがいいということになる。そこに新宿進出の誤算があった。そのような経過があったから、松竹の新宿再進出は成らなかった。」

 今の歌舞伎町が武家屋敷で、森があって池のある大名庭園であったというのも、今となっては嘘の様だ。第五高女ができて学園の町になるのかと思いきやという点では、池袋の西口の現在とも重なってくるところがある様だ。池袋は新宿のさらに後を追って繁華街になっていくのだが、これも戦後の歴史と言う事になる。
 戦前に一度、新宿に歌舞伎の劇場が作られていたというのは知らなかった。調べてみると、新宿駅南口から明治通りの方へ甲州街道を行ったところで、かつては三越デパート新宿南館があったところで、現在は大塚家具になっている。その劇場がパッとしなかったことが、後の歌舞伎町への劇場誘致が成功しなかった背景にあるというのも面白い。戦前の時点の新宿に集う人たちが、あまり歌舞伎を支持する層ではなかったわけである。

 現在の新宿二丁目交差点から、新宿駅方向を望む。


「東京の盛り場から路地はきえつつある。しかし、歌舞伎町ほ新しい路地だといわざるを得ない。奥野先生のいう「混乱と暴力と麻痺と頽廃」が戦後日本の盛り場の特徴だとすると、ここにはそれがかたちをかえて生きのこっている。陣内秀信氏の『東京』を読んでいたら、この街はかつて東京都建設部長であった石川栄耀の考えにもとづいて作られたとあった。
「日本の古来の手法を使って、道路を鉤型に折り曲げ、車が入りにくい構造としたのである。現在、メインの通りからアプローチすると、コマ劇場がアイストップとなり、左に折れ、さらに右に折れてから広場に入る構成になっている」とあって、その閉鎖的な、心地よい集中感をとりだしている。人間ほどこかで迷宮を欲しがっている。迷宮内の彷徨を期待しているのかもしれない。
 路地がなくなって盛り場としての様相をかえたのは、銀座がその代表的な例であろう。表通りの華やかさと、路地のわけのわからぬようないかがわしさがあって、銀座はおもしろかったのだが、どういうわけかこのところ路地が消えていった。たまたま「This is 読売」という雑誌で三枝進氏(銀座通連絡会副理事長)の談話(聞き手・内館牧子)を読んでいたら、地上げ屋が入って、路地がなくなったというのである。そのため、路地の店はみな雑居ビルに入って、ビル各階の通路が路地となった。経済効率を優先する土地利用が盛り場を変えている。」

 たしかに、歌舞伎町を少し歩いてみると、不思議な程に曲がりくねった道で構成されているのを不思議に思ったことがある。今では、東京中のほとんどの町が、碁盤の目の様な単純化された町並みになっているのに、ここは妙な作りになっていると思っていた。そして、車では近づきたくない町でもあった。実際、一方通行と人で混み合った道だから、この町の外で車を降りた方が楽に動けるという印象を持っている。
 銀座も、私の知っているのは比較的最近のことだと書きかけて、思い直した。三十年前はもう充分に昔のことになっている。私が毎日会社へ通っていた頃の銀座は、確かに今とは大分違っていた。五丁目の裏辺りには、銀座の真ん中にこんなところがあるのかと思う様な、一軒屋の店まだ結構あった。表通りはビルの並ぶ町になっていたから、その裏側の落差に驚かされたけど、今となってはそれも幻の様に姿を消している。


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