東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北区十条の歴史を辿る~その一

2013-01-06 23:37:36 | 北区
北区の発行した「北区郷土史」という資料があり、区内各地の歩みについて詳しく、興味深い。その中から、「十条の今昔」という項があったので、それを紹介しつつ、北区十条の全体像について考えてみようと思う。

「十条の今昔」醍醐清造著から、抜粋、内容をまとめてみた。まず、今回は前半で江戸から明治、大正期の十条について。

江戸時代の十条村
 村高と面積
 周辺で一番大きな村であった。『新編武蔵風土記』に民家二百十三戸、東西一五町余、南北一七町ばかりとあり。正保検地の村高は七八五石九斗。村の範囲は現在の上十条、中十条、東十条、十条仲原、十条台の地域である。
 農業
 JR京浜東北線の東側低地一帯が田圃で、西側は十条台地上で畑であり、江戸市民の蔬菜類の供給地であった。寛永寺領で年貢は四公六民位、他領に比べ軽かった。

蔬菜類の生産が行われていたとある。要するに、野菜全般と言うことのようだ。低地が田圃で、台地上が畑というのも、水利を考えればそうなるものだろう。板橋でも、現在の高島平が都内では最大級の稲作地帯だったというが、ここも低地である。

これは明治初期の十条村の地図。民家は黒点で示されている。


これは、豊島区郷土資料館発行の「豊島郡の村絵図」より
文化六年(一八〇九)作成、文化一〇年六月加筆修正した滝野川村、十条村辺絵図
水色に描かれているのは石神井川、上の左右方向に走る道が中山道、一番下の左右の道が岩槻街道で、そこから稲荷道が分岐している。(39)番辺りが十条駅。中央に加賀藩前田家の下屋敷が四角く描かれている。


明治時代の十条
 大きな転換点となったのが、日露戦争であった。それまでとは桁外れな武器弾薬の増産要求から、小石川水戸藩邸跡に置かれていた東京砲兵工廠の拡張が急務となった。市街地内に位置していたそれまでの場所では拡張は不可能であり、板橋火薬製造所に隣接した畑と雑木林の下十条(現在の十条台)のが候補地となり、明治38年4月には起工、11月完成、12月には小石川の砲兵工廠銃砲製造所が職工五千有余人と共に引っ越してきたと言うから、相当な突貫工事であった。これを契機に、農村から住宅地へと十条が変貌していくことになる。

 工場建設に伴い七軒町の農家駒崎三四郎他二〇軒が、代替地を求めて移転した。上十条一丁目に約四〇坪の共同墓地をつくり、駒崎各家の墓石と移転縁起碑が残っている。というのが、上十条一丁目の回で見た墓地だったのではないかと思っている。

十条停車場開設
 初代の十条駅は貨物駅で、現在の駅よりも板橋寄りに五〇〇メートルほど行った辺りにあったという。明治38年6月に開業しており、翌明治39年2月に廃止されている。ということは、これは十条工場の建設資材の運搬用の駅として開設され、建設工事の終了に伴って廃止されたと言うことではないかと思われる。その為なのか、この初代十条貨物駅については、「北区郷土史」の中では触れられていない。

 その後の明治43年になって、下十条の農家有志の間で停車場開設の気運が高まり、土地を地元で寄附するという熱意を示した上で、鉄道院と交渉し、11月には開業する運びとなった。これも十条が宅地化していく要因となったという。

市街化
 江戸時代から明治中期まで、十条の人口は千五百名ほどで変化がなかったものが、砲兵工廠と停車場の開設から十五年で二万人くらいまで増加したという。現在の中十条一~三丁目、上十条一~二丁目地域に長屋形式の貸家が建ち、宅地化が進んだという。
僅か十五年で十倍以上の人口増加というのは、凄まじい。後の関東大震災後の周辺地域での人口増加と都市化も同時多発的で凄まじいものではあるが、長閑な農村であった十条村が、一気に陸軍の軍需工場の工場城下町と化していった変化は激しいものだったことが分かる。

岩槻街道
 明治後期頃、南橋から清水坂までに地福寺・真光寺・西音寺・富士神社・荒川小学校・旧名主の高木家と農家が点々とあるくらいであった。大正十二年頃、道の両側に民家と小林米屋、山本金物屋、高木質屋、木下文具雑貨、高木薪炭屋党の一〇数軒の店屋が所々にあった。しかし、道の裏手は畑で農道が走っていた。

 今ではすっかり住宅地になっている、岩槻街道の辺りだが、かつてはこんな風だったという。畑が家に変わっていき、今の町になっていったわけだが、その前の姿というのは中々今の街から想像するのが難しい。これも、岩槻街道の拡幅が行われた後になると、余計にその前の昔ながらの十条村の有り様というのは偲ぶことすら難しくなっていくだろう。

稲荷道
 現在の区役所道路ということなので、岩槻街道から分岐して十条駅横を踏切で抜けて、姥が橋へ至る道のことである。道幅四米位で両側に泥溝があった。大正十二年頃、十条停車場から砲兵工廠北門までの道左側に、駅出札所、駒崎水菓子屋、榎本豆腐屋、火の見櫓、鶴岡米屋等約一〇店舗。右側道筋に山崎酒屋、武蔵野そば、榎本菓子屋、川芳料理屋、日曜堂本屋、橋本八百屋、魚正店、藍田医院、十条郵便局、高木雑貨屋、等約一八店舗以上が営業していた。工廠から帰る人達の買物で賑わい十条で最初の商店街が形成された。
 当時、上十条(現在上十条三~五丁目、十条仲原一~四丁目地域)は畑であり、大正十二年の関東大震災後に住宅地化が始まった。

 この商店の名前が上げられている中では、榎本豆腐店と橋本八百屋は現在も健在で、商売を続けている。他にも続いている店があるかもしれない。酒屋がコンビニになっていたりというのはありそうに思える。近日中に確認してみようと思う。

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