東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

桐ヶ谷を歩く~その五:供養塔と荏原金比羅宮

2015-01-24 17:55:10 | 品川区
旧中原街道と品川用水の流れた道の交差点。
「旧中原街道供養塔群(一) 品川区指定有形文化財 所在:荏原一丁目十五番十号 指定:昭和六十三年三月二十二日(第十九号)
 本供養塔群は、かつては現在地の北方約一〇メートルの辻にあったが、昭和三十八年の区画整理の際、ここに移されてきた。四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩薩は、総高一・九メートルに及ぶ。造立年代はわからないが、台石に刻まれている十七の村名や形態からみて江戸時代中期と考えられる。向かって右の地蔵尊は延享三年(一七四六)観念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は元文元年(一七三六)造立であり、この頃戸越本村に馬持講があったことを示す。その前にある聖観音は石造墓碑で、貞享年間(一六八四~八七)に建てられた。これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の信仰状況を示すものとして貴重である。
 平成十三年三月三十日 品川区教育委員会」
というこれから掲載する石仏群があったのが、この辻。元々は、左手が現在の中原街道方向なのだが、そこには通じておらず、旧中原街道に突き当たる丁字路になっていた。上記の区画整理で現在の町割に変わったものと思われる。


その辻からほんの少し行ったところに、供養塔群は今も保存されている。近所の方々に大事にされているようで、掃除をされ、花が供えられている。


こんな感じになっている。


江戸中期のものと見られる石造地蔵を中心に、供養塔が置かれる。


水盤もあるのだが、あまり裏側などよく見えないのが残念。それでも、古い街道の面影がこうして残されているだけでも有り難い。


少し五反田方向へ進むと、目黒不動尊へと続く道が交叉する。この道は、大崎へと通じている。そういうよりは、居木橋村経由で品川宿へ通じる道という方が正しいのだろう。古くからの道であったことで、そこに霊源寺もできたし、その後には桐ヶ谷斎場もできたということかと思われる。いまでは、中原街道から桐ヶ谷斎場へ向かうアプローチになっている。


この道を中原街道に出て直ぐのところに、荏原金比羅神社がある。
「安永元年(一七七二)九月玉藻城(現在の高松城)主、松平頼久公の命により、家臣岡田友次郎が高松発展、海上安護のため、象頭山金比羅大権現大神の御分霊をうけ奉齋したのがそのはじまりと伝えられている。その後、こんぴら信仰の全国的拡がりのなかで崇敬者多数の熱望により、昭和五年一月十日東京府荏原郡(現在の品川区荏原)に遷座された。現在は荏原のこんぴらさまとしてご神徳をもって幸せを授け、広く願いを叶え、事業の発展、家内安全、商売繁盛、交通安全、又人びとを厄難より守り、多くの人々の信仰を集めている。」(神社内の掲示より)


桐ヶ谷に隣接して、荏原には讃岐丸亀藩京極家の抱屋敷があったことは、前に触れた。金比羅宮はこの丸亀藩の領内にあるわけで、その意味では荏原の金比羅様ならその繋がりである方が分かりやすいのだが、この荏原金比羅神社は高松藩松平家の縁によるというのが面白い。ちなみに、虎ノ門にある金比羅宮は京極家の藩邸内にあったもの。


この高松との縁については、詳細不明といった印象。いずれにせよ、昭和五年にこの地におかれて以来、多くの信仰を集めてきた神社であるということになる。
ちなみに、文京区の水道橋に金比羅宮の東京分社がある。この東京分社の由来が面白い。
「文政2年、板橋市左衛門の邸内祠として祀られたのにはじまり、明治13年、神社として認められ、明治21年に当宮境外末社に加えられました。明治23年には神田和泉町にあったものを、深川古石場町に移転、「深川のこんぴらさん」として親しまれていました。しかし、昭和20年、戦災にあい建造物を焼失。讃岐高松藩の邸内社として奉斎されていた水道橋金刀比羅神社と深川のこんぴらさんを合わせ祀り、昭和39年、文京区本郷に遷座。以来「水道橋のこんぴらさん」として親しまれています。」(金比羅宮サイトより)
という、高松藩と金比羅宮の繋がりがあったことの実例もある。板橋市左右衛門は、板橋上宿の名主で、脇本陣を務めていた。上宿の衰退と神田和泉町への移転との絡みなど、想像してみると興味深いものがあるのだが、脱線しすぎなのでここまでということで。


さて、旧中原街道に戻る。都心部でもあり、戦災で焼失していることもあって、この辺りは街道らしい趣が残されている訳ではない。


目黒川に向けて、傾斜が増していく坂。桐ヶ谷坂といわれていた道。中原街道の新道ができると、坂の名もそちらに移っていったという。


その坂を下りきって、首都高速道路目黒線の高架の下に出てきたところ。この高速道路と、斜めに谷山橋へ向かう道は昭和43年に首都高速道路が開通した時にできたものと思われる。そして、そこに面した高台の上に、専修幼稚園、専修寺のプレートも出ている。ここに元々専修寺もあったようだ。霊源寺の裏に移転したのは、ごく最近のことのようだ。


その向かいには、TOCがある、東京卸売りセンターの略称が、今では正式名称になっている。そして、これがかつての星製薬である。星一が起こした会社だが、SF作家になった長男の星新一の時に破綻し、ホテル・ニューオータニを経営する大谷一族に譲渡した。その後、不動産業がメインになっている。本社工場がここにあったわけで、星薬科大学と併せて、星製薬の夢の跡とも言える。


そして、そこから少し坂を下ると、山手通りに出る。山手通りの地下を通る中央環状線の工事も終盤で、中央環状線も三月に開通するそうだ。


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