東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(86)『団子坂』

2015-10-04 18:16:21 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、団子坂と鴎外、漱石の話。

「山の手のあちこちに点在する坂みちをたどってみると、武蔵野台地の端の地形がよくわかってくる。たとえば音羽、または江戸川筋から小日向にのぼり、さらに上野の山へむかって歩いてみる。そこでは小石川、白山、本郷の台地を越すことになるので、さまざまな表情の坂みちに出会う。あるいは虎の門の江戸見坂なり、霊南坂なりをのぼって六本木二丁目に下り、氷川坂から市ヶ谷、九段方面へ歩くのも一興である。東京はなんと坂の多いところか。下町の平地に育った私はその徴妙な地形におどろかされる。坂にかんする考証.研究では、横関英一の『江戸の坂東京の坂』(二巻、昭和四十五年、五十年)、岡崎清記の『今昔東京の坂』(五十六年)のような労作が刊行されたが、江戸の街づくりの時代から現代の東京にいたるまで、坂は住民の文化的営為とともに生きてきたことを教えられるのである。」

 私は台地の上、江戸の町から外れたところで育ったので、下町の平地に驚き、そちらに向かって坂を下っていくことを感じる様になっていった。それでも、家の周辺だけではなく、越境で通った文京区あたりも少し行けば坂が当たり前で、登ったり下りたり、それが日常であった。少年期には無限に続くかと思われるような体力があって、向ヶ丘の中学校まで坂下の地下鉄の駅から走り詰めでギリギリに駆け込んだりしていたのは、今となっては信じがたいほどのことになっている。
 旧市街から外れた都区内で生まれ育てば、やはり坂道は当たり前の環境として少年期から付き合わざるをないものでもあった。その意味では、江戸の坂というよりも東京の坂という方が、より広くなった大東京という色合いを感じることができる様に思えたりもする。

「横関氏は真山青果の助手をしながら江戸研究に打ちこんだ方である。本誌には「坂と地名と絵図」(昭和四十五年四月号)の執筆文があり「江戸絵図の変遷について」(五十年十二月号)を書いた直後に亡くなられた。歴史と文化の視点で「坂」をとりあげた随筆には興味ぶかいものがあった。東京に多い富士見坂、潮見坂の地名をとりあげて、「古くは江戸城のお天守のように、江戸っ子が、あれほど自慢にしていたもの」が、現代では消えてしまったことのさびしさを訴えていたし、またつぎのようなことも書いた。
「江戸時代には、坂は唯一の江戸市街地の目標であった。ことに、大火においては、この坂を目標にして大火の位置や様子を説明したものである。たとえば目黒の行人坂から出火して、本郷菊坂から千駄木の団子坂辺を焼きつくし、谷中本村りうあん坂にいたって、ようよう鎮火したというように、江戸市中が大火になるとその焼け跡にくっきりと、遠くからでも見えるものは、道路上においては、火事には焼けない坂道だけであった。」
 この大火とは明和の大火(一七七二年)、行人坂大円寺の放火にくわえて菊坂からの出火もあったという大事件である。江戸っ子自慢の代表的な富士見坂(行人坂の別名、『江戸名所図会に』富士見茶亭がある)、そしてのちの森鴎外ゆかりの潮見坂(別名、団子坂)もふくめて、武蔵野台地の南部、東部、および下町一帯を焼きつくしたのだが、横関氏の表現ではっとおもいあたったのは、焼跡にくっきりとみえる「焼けない坂道」というところだった。
 それはいまなお生ま生ましく想いおこす惨繕たる情景である。昭和二十年三月十日の東京大空襲の直後、私は叔父のあとをついて叔父の家の焼跡整理に出かけた。市川市から千葉街道をあるき、小松川橋をわたったとたんに眼にはいったもの、それは九段坂であった。一望見わたすかぎりの焼野原のなかに、建造物としては両国国技館の丸屋根の残骸と靖国神杜の大鳥居が大きくみえた。軍人会館とかその他の建物もあったはずだが、その二だけけが眼近かに、手にとるようにみえる。そこに九段坂が一本の筋となり、陽光をあびてせり上っていた。前方にひろがる台地をみて、東京とはこういうかたちをしているのかと、印象づけられたのだった。」

 江戸以来、関東大震災、そして東京大空襲と、東京の町は繰り返し焦土と化し、一面の焼け野原となってきた。それでも、終戦から東京から復興を遂げていき、さらには東京オリンピックに高度成長、バブルと変遷を遂げていきながらも、ながらく焼け野原からは遠ざかることになっている。だから、東京の町の形をそんな風に見ることが出来たのは、近藤氏などの戦後直ぐの時代を知っている世代の人達だけになっている。
 そして、おそらく次に東京が壊滅的な災害に襲われた暁には、焼け野原ではなく、巨大な構造物の廃墟が建ち並んで、見渡す限りの視界は戻らないままになるのだろう、と考えてみたりもしてしまう。
 行人坂、目黒の坂だが、そこから市中を縦断しながら谷中まで焼き尽くした火災のスケールには、驚かされるとしか言い様がない。そして、木造低層の町であった江戸は、呆気なく一面の焼け野原になってしまったのだろう。そして、同じ様なことが何度も繰り返されながら、時代が移ろっていく。

「そのときの坂みちの感触は身についている。坂の名はおぼえなかったし、聞きだそうともしなかったが、その時の道すじをおもいかえすと、旧藍染川の低地をはさむ二つの台地は静寂そのものであった。彼にとっても私にとっても、その地形認識ははじめての経験であった。ところが、進藤君は旧制中学の卒業をまたずに病いにおかされている。結核性脳膜炎という診断で、あっというまに意識を失ってしまったのだ。根津郵便局へ見舞いに行って二階の部屋に上ってみると、彼は眼を大きく開いたまま、しきりに右手をあげて虚空をつかむような仕草をする。別れの挨拶だったのだろうか。しかし、言葉にはならなかった。その翌日、彼は息をひきとったのである。
 上野から根津、千駄木とあるくたぴに、私は十代の半ぱで親友を失った悲しみをあらたにする。いま、彼が生きていたら、人生、どんなに楽しかろうとおもうことがしばしばである。それでも短い時間を共有し得たことで、その土地にたいするひとつの指標を与えられたとおもう。それは後年の読書や調査のきっかけにもなった。」

 近藤氏の思い出を読むと、私にとっても知っている町であるだけに、どこかその光景が目に浮かぶような気がするのだが、親と子ほどの世代の違いがあるわけで、私の知る町ではない、それよりも前の時代にあった出来事であることはいうまでもない。
 そんな風に、限りない数の人達が泣き笑い、日々の生活を積み重ねてきているところが町の面白さであり、奥の深さなのだとも思う。実際、今ある程度の年齢に自分が差し掛かってみれば、馴染み深いと思っていた町が、見知らぬ住人ばかりになっていて、見たこともない建物で埋め尽くされていることなんて、それ程珍しいことでもないことに気付かされていくことになる。自分の経験としてそれを自覚してみると、いかにも大きな変化が町を変えていったかのようなのだが、実際には幾度となく繰り返されてきたことに過ぎない。そこまで辿り着いて行くには、やはりこうした先人の経験を自らのものと重ね合わせていくことを経ていくことが必要なのだと思う。

「団子坂の菊人形は明治四十年代までがピークだったらしい。国技館の菊人形が電気仕掛けをとりいれたため、団子坂はすたれたというが、かつては道路が身動きができなくなるほどの見物客をあつめていた。日暮里に住んでいた彫刻家藤井浩祐は「上野近辺」という文章(『大東京繁昌記』山手編、昭和三年)で、下町の娘さんたちは歌舞伎座を一度ぐらい抜いても、お稽古を一日休んでもこゝばかりは見逃さなかったと書いていたが、それも今は昔の物語である。
 あらためていうまでもなく森鴎外は、明治二十五年以来の団子坂の住人である。潮見坂の名から二階書斎を増築したとき、観潮楼と名づけている。漱石の『三四郎』が発表されると、それに呼応して、男女学生の対話劇「団子坂」(明治四十二年)を書いた。三四郎の stray sheep にたいし、wolf になりそうだと男に言わせている。『三四郎』への批判と読めるし、小説家漱石の登場に刺戟されて、雁行するかのように活躍しはじめる鴎外の自已主張のこもったものとも読める。団子坂で遊んでいる子供をみて、男は「藪下へ曲れば好かつた、此通ぐらゐ子供のうようよしてゐる通りはあしやしない」といい、「何故でせう」という女の問いにたいし、「この辺のものは繁殖の力が強いのでせうよ。Fecundityといふ小説を、千駄木町を舞台にして書くと好い。歩くにも歩けやしない」と答えている。おもわせぶりな挑戦ともとれぬこともないが、漱石の“多産”に刺戟をうけたことはたしかである。二人は近くに住んでいる。それだけに団子坂をめぐる掛合いには凄味がある。麗外は翌明治四十三年にはいって「青年」を「昴」に連載しはじめ、四十四年八月にそれを完結すると、九月から同誌に「雁」を連載しはじめる(大正二年五月まで)。小川三四郎と小泉純一、団子坂と無縁坂というぐあいにならべてみると、本郷台地と坂みちは両文豪の格好の舞台だったのである。」

 江戸から東京の移り変わりを見ていく中では、団子坂の菊人形というのは今は無い、かつて繁栄したイベントの一つとして記憶されるものでもある。このあたり、江戸の市中と旧市街という括りで見ても、その外れでもあるところになる。谷中が境界になっていて、その外は旧市街に入っていなかったわけでもある。このあたりの境界線を見ていると、江戸から明治の市外が狭いエリアであったことをしみじみと感じるのだ。その一方で、大東京に拡張して以来の市域の拡大のスケールの大きさにも、今となっては凄まじさをも感じるほどであったりする。少し前まで純然たる農村地帯であったところでも、今ではその痕跡を探すことが難しいほどに家々が建ち並んで、完全に都市化が覆い尽くしているのが東京の姿でもある。
 鴎外と漱石、この二人の巨人がごく近いところに住まっていたことは、私にとっても小学生の頃に教わって以来の知識だ。鴎外が住んだ家に、後から漱石が暮らしたこともあったわけで、今の時代から見れば極めて面白く感じる。

漱石旧居跡。ここには鴎外も暮らしたことがあるというところ。


記念碑が建てられている。


「漱石の主人公も鴎外の主人公も、本郷台地をはじめ市中をよく歩いている。三四郎が街の観察者だとすると、純一は東京方眼図を片手にして、それを見ながら歩くのである。東京方眼図は鴎外自身の発案になる地図である。根津神社から藪下の道にはいって、観潮楼とおぽしきところにさしかかるところでは、
「爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になつてゐて、上野の山までの問の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某といふ門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村の家だなと思つて、一寸立つて駒寄の中を覗いて見た。
 干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいつてまごついてゐる人、そして愚痴と厭味とを言つてゐる人、竿と紐尺とを持つて測地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐる人の事だから、今時分は苦虫を咬み潰したやうな顔をして起きて出て、台所で炭薪の小言でも言つてゐるだらうと思つて、純一は身顫をして門前を立ち去つた。
 四辻を右へ坂を降りると右も左も菊綱工の小屋である。国の芝居の木戸番のやうに、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのやうな男が、どの小屋の前にもゐて、手に手に絵番附のやうなものを持つてゐるのを、往来の人に押し附けるやうにして、うるさく見物を勧める。・・・・・・」
 これはあきらかに団子坂の菊人形である。鴎外の家の門は藪下の道に面していて、邸は団子坂を登りきったところにある。鴎村なる人物は作者自身の戯画化である。その土地の地理形状、作者のおかれた文学的立場を考えると、描写は鮮明、作品の意図ははっきりとのみこめるのである。」

 この藪下の道は、今でもその面影を残している。おそらく道幅も含めてそれ程大きく変わってはいないのだろうと思われる。今では藪下の道というと、文豪の旧居であり、その作品の舞台としての知られているのだが、この藪こそが、江戸から東京に続く蕎麦の名店の名の起こりであることは、以前にも触れた。鴎外が団子坂上に越してきた時には、まだ元祖の藪蕎麦はあったかもしれないが、明治の間にこの店は廃業してしまう。屋号を蔦屋といったのだが、藪と呼ばれるようになり、藪蕎麦というのは未だに知られた店名となっているわけである。旧森下町には、この時代の蔦屋から暖簾分けをした藪蔦という店があったのだが、近年閉店してしまったようで、建物も姿を消してしまったのは惜しかった。
 私の父は、この藪下から藍染川へと下り、更に向こうへ登っていった谷中で生まれ、育った。そして、父が生まれるよりも前の時代に、母方の親類もこの正に藪下の崖下に暮らしていたこともあったので、このあたりにはどこか親近感を持っている。

藪下の雰囲気を僅かに残している様な。


崖下には汐見小学校。


「私は鴎外の長女森茉莉さんのお供をして観潮楼跡をたずねたことがあった。昭和三十五年一月のことであった。
 鴎外旧居は、昭和にはいって二度焼けている。はじめは昭和十二年八月十日、長男於菟氏が台北帝大へ赴任していたとき、借家人が失火して書斎観潮楼を全焼した。二度目は十九年一月二十九日の夜、B29の爆撃をうけた。その知らせをきいてかけつけた木下杢太郎は、つぎのように書いた。
「観潮楼は森鴎外博士の其楼に名づくる所であり、明治の文人はしばし此に会し、博士の傑作は威此に為られた。惜しいかな、先年住者が火を失して、文化の旧巣は烏有に帰した。唯其半部は令息類君ここに画室を設らひ芸術にいそしんだ。類君は咋秋家を挙げて磐梯の麓に遷り、令姪が同輩と倶に舎を守つた。そして一月廿九日、日曜日、夜九時の此地区の大火によつて之れも亦消失したのである。翌日薄暮往き尋ぬるに、燼灰錯落、纔かに画室の一側の壁が立てるのみであつた。敗紙断簡状上に散乱し、縢燭の樹梢が寒風に願いた。嘗て『文章世界』が博士の文徳を頒して贈呈した大理石胸像の、火を浴びながらさまでは傷つかずに、庭の一隅に残るのが有つた。武石弘三郎君の作に係る。某蓼に丁字の蕾、正木の葉が難を免れ、依々として茂り重なつてゐた。」(「鴎外旧宅の焼失」)
 二度の災厄によって、鴎外の遺跡は完全に消え去ってしまったのである。テエベス百門の大都とよんで、生涯、鴎外に敬愛のおもいをいだいてきた杢太郎の嘆きが側側とつたわってくる。胸像が無傷でのこったというのがせめてもの救いだった。
 森茉莉さんのグラビア写真を撮るため、写真家杉村恒氏とともに同行したのだが、茉莉さんは観潮楼跡に着くと、すぐさま父の胸像のそばにかけよって行った。そこは鴎外記念本郷図書館となるまえの、団子坂上の小公園であった。」

 私の記憶にあるのは、この鴎外記念図書館である。小中学生の頃だから、昭和四十年代から五十年代に掛けての頃に行ったのだが、小さいのと設備が新しい雰囲気ではなかったことなどで、あまり良い印象が残らなかった。私が記念図書館を見たのは、まだ老朽化というほどの築年数が経過していなかった頃なのだが、そうは思えないような雰囲気であったように思う。その後、この図書館の耐震性などが問題になり、文京区の予算の都合などで長い時間を要して、近年建て直されて開館したのが文京区立森鴎外記念館だ。
 それにしても、この団子坂から上野に掛けての一帯は彼らの遺してくれた文学のお陰で、明治からの町の空気が鮮やかに記録されているという点でも特別な町になっていると言えるようにも思う。ただ、歩いて回っても地形的な面白さもあり、町の良さもあるので楽しめるところだが、この小説の舞台でこんな風に描かれていたということも踏まえて歩いてみると、更に興味深くなることはいうまでもない。
 そういえば、森茉莉さんが亡くなられてからも、もう三十年近くが経過していることを確かめると、我ながら驚いてしまう。私の少年時代には、森茉莉さんや幸田文さんといった、明治の文豪の娘という人達が健在であった。ある意味、一般的な庶民とは全く異なる人達であったし、そういったところまで生々しく人柄なども含めて見ていた訳で、長い年月が経過して、町歩きのリード文に旧居跡を訪ねてあったような気分になれるようなことが書かれていたりすると、何も知らずに書いているのか、知った上で書いているのか、考えさせられてしまったりもする。距離が遠くなることで都合の良い面悪い面、こういう事にもあるのだろうか。

 文京区立鴎外記念館

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