東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

赤羽線板橋駅、池袋駅、赤羽駅の1981年頃と板橋の町の続き

2012-09-10 23:11:36 | 板橋区
前回に引き続いて、板橋関連の1980年代の写真を掲載してみる。今回は赤羽線の写真。池袋と赤羽の間の短い区間で、しかも山手線が10両編成になっても8両だし、冷房車もなかなか入らなかったし、地元の電車である赤羽線だけど、なんだか味噌っかすにされてるような気がしたものだった。東北新幹線の建設に合わせて作られた埼京線が開通し、新宿へ直通で行けるようになったのは嬉しかったけど、あの都会の端っこで短い区間を行ったり来たりしているどこかの長閑な空気のあった赤羽線のことは、今も思い出すと懐かしく思える。

夜の池袋駅、3、4番線ホーム。3番線が山手線外回りで4番線が赤羽線。国鉄池袋駅のホームは二つだった。1981年4月の撮影。


1、2番線のホームは山手線内回りで、1番線が始発と終着だったと思う。4番線に赤羽線の電車が到着したところ。これも同じ1981年4月撮影。


池袋駅のホームに貼られていた所要時間のプレート。板橋、十条、赤羽しかない。1981年4月撮影。


以前、板橋駅を取り上げた時に掲載したかもしれない。板橋駅構内の様子。奥に日本食糧倉庫の引き込み線がある。米の食管制度の名残があった頃で、米が運ばれてきて、収める倉庫があった。今はマンションが建っている。保線車両の引き込み線と車庫も現存している。1980年撮影。


板橋駅ホームの北端にて。池袋行きの電車に乗り込む人々。1980年撮影。


池袋駅が発車していくのを見送る。ホームの左側にはセメント工場が見える。この工場跡にも大きなマンションが建っている。1980年撮影。


板橋駅の電車の時刻表。全ての電車の時刻が出ていたわけで、本数は結構多いのだが、この辺りが長閑に見えるところ。木製の柱とホームの屋根は板橋駅らしいところだったが、いつの間にか鋼製のものに変わっていた。1981年4月撮影。


ホームから滝野川方面を望む。DD13型ディーゼル機関車に牽かれた短い貨物列車が止まっている。今はアパホテルが線路に沿って建っているので、見通しがきかなくなった。この頃のサンシャイン60の存在感の大きさが凄い。板橋から池袋に掛けては高層建築がろくになかった。存在感は凄いけど、サンシャイン60は最初の頃は凄まじくガラガラで、人気が無くて寂しいほどだったのも思い出す。1981年4月撮影。


板橋駅の階段を下りたところの出口の案内板。板橋町が「いたばしちょう」だとは知らなかった。あの場所で志村方向って言うのもかなり凄い案内だと思う。今はどうなっているのか、今度乗ったら見てこようと思う。1981年4月撮影。


今もあまり雰囲気が変わらない、板橋駅西口改札を入ったところの様子。池があって、トイレがあって、今も同じ。1981年4月撮影。


改札を出て、駅前に出て来たところ。ロータリーの花壇。ここも雰囲気はそれほど大きく変わってはいないのではないだろうか。八千代信用金庫は八千代銀行になり、ビルを建て替えた。右奥には貨物駅があったが、そこには高層マンションが建ち、こちらに面しては生協がある。この頃には廃止になっていた様だが、東京駅から小石川の方を通って、板橋駅東口を通ってきて、旧中山道踏切を渡っていき、常盤台教会行きという都バスの路線があったのを覚えている。明治通りから桜並木の通りを来て、千川上水の土手をバスが乗り越える時にちょっと迫力があったのを覚えている。その正面の辺りに、映画館があったと思う。そして、ロータリーの向こう側にその路線バスの停留所があったはず。1981年4月撮影。


夜の板橋駅。自動販売機が左側にあって、窓口が右側になるのは今と配置が逆。でも、こちらの方が理に叶っているような気がする。右手には手荷物の受付があった。今でも板橋駅は大きく変わっていない。1981年4月撮影。


駅周辺から板橋の町は前回掲載したので、今日は再び赤羽線に乗り込む。これは車内の様子。1981年4月撮影。


赤羽駅到着。既に赤羽線ホームの高架化工事が始まっていた時期だった。1981年4月撮影。


東北新幹線の高架橋と赤羽線の高架ホームの工事が進行している。この工事のために貨物線を一つ潰して、仮設ホームを設置している。1981年4月撮影。


東北線ホームから見た赤羽線。今の赤羽駅と同じ駅とは思えない。どこかの田舎の駅のようだ。1981年4月撮影。


同じく長距離列車も止まる東北線ホームから見た赤羽線。1981年4月撮影。


といったところで、私の撮影した板橋関連の昔のネガはこの位で全てだと思う。日常的な景色こそ、記録しておかないと、消え去って二度と戻らない時が来るものだとしみじみ思う。フィルムが昔よりは高価ではなかったとはいえ、現在のデジタルのように湯水の如くシャッターを切れなかったのは勿論ではあるのだが。僅かでも撮っていたから、今になれば面白くなるのだと思う。

さて、それから以下はおまけで、我が家に近い板橋四丁目の信号から板橋区東板橋体育館前までの道筋にどんな商店がかつてあったのか、思い出せるものを書き出してみた。年代は昭和40年代前半の頃のつもり。この通りは商店街と言うほどではないが、戦前には陸軍の造兵敞正門への道筋であったこともあってか、商店が何軒かあって、今も数軒の商店が営業している。赤で書いた店は、今は既に無い店など。
体育館のところには、計量研究所があった。たばこ屋がいつからあったのか記憶がないが、老姉妹がやっておられたが会社に売却し、つい先日建物が取り壊されて、今は新しい建物の建築工事中。豆腐屋も閉店してから久しい。母親に鍋やボウルを持たされて買いに行った記憶がある。その向かいのかどやは駄菓子屋だった。大分前に閉店されて、今は家も建て直されて昔の面影もない。その横を入ったところに米屋があった。閉店しているが、今も店舗は残されている。その隣の書道教室も今はもうされていないと思う。並木肉店は今も盛業中。母親に聞くと、以前は杉山寿司の出来る前には、反対側の角だったという。
杉山寿司は稲荷寿司の店で、お稲荷さんとかんぴょう巻。何かというと母親が買ってきて食べさせられていた覚えがある。北区の霜降り銀座商店街の奥の方に杉山寿司というお店がある。全く偶然に気が付いて、お店の方に昔板橋でお店をされてませんでした?と伺ったら、兄ですと答えられて絶句されたことがある。一族であちらこちらにお店を増やされていた時期もあったそうだが、今は霜降り銀座の一軒だけ営業されているとのこと。久し振りにお稲荷さんを買って帰ったが、懐かしい味だった。
その隣の八百屋は現在は道路の反対側に店を移している。経営者は変わっているのだが、この辺りでは古株の商店。その隣の紅白食料品店は、小さい頃には乾物屋と言っていた。火事を出したことがあって、その後建て替えて商売をされていたが、閉店してもう随分たつ。昨年でその建物も取り壊されて、小さな建て売りが三軒くらい建っている。
向かいの魚屋は、昭和40年代の中頃までしかなかったように思う。小学校に上がる前の頃にシール目当てのふりかけを買いに行った覚えがあるくらいで、子供には馴染みのない店であったように思う。母親に聞くと、惣菜も売っていて、かき揚げを買ってきて天麩羅うどんにしてよく食べたという。その並びには歯医者さんがあった。
そして、北園高校のグランド下の交差点の角には今でも盛業中の伊藤パン屋。ここで良くマーブルチョコを買ったのをおぼえている。マーブルチョコや森永ハイクラウンはちょっと良いお菓子で、普段は大体駄菓子屋のおかし。ちっともチョコレートらしくないシガレットチョコとか、麩菓子とか、そういうものは前出のかどやで買った。
北園のグランド裏は、今は綺麗になっているが、無愛想なコンクリートの壁面が広がっていて、何となく陰気な感じがしていた。角を入った酒屋では、小学校の頃に日本酒の蓋を貰いに学校の帰りによく寄っていた。うちで配達してくれていた酒屋さんだったので、よくしてくれたのを覚えている。
その先に貸本屋があった。既に貸本屋という時代ではなくなっていたと思うが、床屋の町時間に読み耽るマンガ雑誌などは何よりの楽しみだった。貸本屋のラインナップも面白くて、一時期結構借りていた覚えがある。
その先、建物は今も残っているが、角に床屋が出来て、随分通っていた。ここでマンガ雑誌を読み耽るのが楽しみだった。行くと帰ってこないと家では言われていた。その隣には中華料理屋があり、クリーニング屋があった。向かい側には田原薬局があったが、閉店されたのもかなり昔のこと、ここにも建て売りが二軒建っている。その隣の果物屋も、いつしか不動産屋とたばこ屋といった感じになっていると思っていたら、最近になって取り壊されて更地になってしまった。
その向かい側の角、建物は変わらないが、小さなお菓子屋があった。ここでライスチョコを10円で買っていた覚えがある。そこを右に曲がるとユタカ無線という電気屋さんがあった。今は電気工事やさんになっている様だ。その先、今はペットショップになっているところが昔は肉屋だったのは覚えている。
板橋スカイプラザは、この地図の記憶の中心の時代にはまだ出来ていなかった。広大な空き地にたばこ屋があって、その後中古車センターがあったのは覚えている。
といった、極めて個人的で曖昧な記憶を思い出しながら、恐らくはどこにも記録されずに消えていきそうな通りの思いで。

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7 コメント

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Unknown (元4丁目住人)
2012-09-11 10:22:53
管理人様
地図を懐かしく拝見しました。
私の住んでいた所は轟製作所の裏、酒屋(中村酒店)の並びでした。
床屋(鈴木)・中華(建楽)・クリーニング店(?)の3件はよく利用してました。
向いの果物やさんは元々は八百屋さんで私の先輩の家でした。
ユタカ無線は御用達で並びの肉やは同級生。
ペットショツプは元は花屋さんでした。(先輩)
地図上で昔を散歩させて頂きました。
Unknown (kenmatsu)
2012-09-11 18:13:29
元4丁目住人様
轟製作所は、昔の建物の頃に建っていたトタン貼りの四角い看板を今でも大事に飾っていますね。
スズキ床屋、中華建楽、そうそう、その店名でした。
ユタカ無線はうちも御用達でした。その並びが肉屋だったんでしたっけ。花屋は割と最近まであったのを覚えてます。
今年の三月に旧中村酒店の裏手の家で火事があって、平屋のおばあさんの一人暮らしの家が全焼してしまいました。幸い、無事に逃げられたので、軽い火傷くらいで済んだようでした。今は更地になっています。
やり取りをしていると、思い出してくるところもあって、こちらこそ懐かしく楽しませて頂きました。
Unknown (たろ)
2014-03-12 04:23:07
とても懐かしいです。
昔の板橋駅や池袋界隈の写真、もっとあると嬉しいです!!
ありがとうございます。 (kenmatsu)
2014-03-12 08:53:01
たろ様
御覧頂き、どうもありがとうございます。
この当時の写真、掲載しているものでほぼ全てです。やはり、日常の景色というのはなかなか撮っておく機会がなかったと思います。
今となってみれば、もっとあれも撮っておけばと思うことばかりですけど。
ホームの番線 (まるぶつ)
2024-04-12 10:43:18
「赤羽線 池袋駅 ホーム 番線」の検索でこのサイトを知りました。
じつは、1980年頃池袋の会社に勤務していて、私は東武東上線、同僚は赤羽線で帰宅の途についていたのですが、思い出すのは東上線に乗った私と赤羽線に乗った同僚が、別々の電車内からお互いの姿を確認し合って「お疲れさん」と手を降っていたことです。
そして、その時の記憶(これはあくまでも私の記憶なので、勘違いだったのかもしれませんが)、2・3番線が山の手線、4番線が赤羽線、そして5・6番線が東上線の番線だったように覚えています。
その頃は国鉄も私鉄も同じ池袋駅でホームが並んでいるので、番線も連番で何も疑問を抱かなかったのですが、今の思えば経営が異なる事業者で、ホームの番線を連番にするとは思えないのですが、この当時の池袋駅のホーム番線事情をご存知の方がいらっしゃれば、私の記憶が正しいかったのか、それとも勘違いだったのかをぜひ知りたいと思いました。
長文のコメントをお許しください。
RE:ホームの番線 (kenmatsu)
2024-04-12 11:54:02
>まるぶつ様

その名前も懐かしいですね。
さて、お尋ねのホームの番線の件ですが、ご記憶の通りで1番線が山手線内回りの始発、2番線が山手線内回り、3番線が山手線外回りで4番線が赤羽線でした。そして、改札は別で繋がっていたわけでもないのに、東武東上線が5番線以降を名乗っていました。ホームが並んでいたことでそういう事になっていたんでしょう。
Wikipediaの池袋駅のページに1983年に埼京線のホームが新設されたときに、東上線池袋駅は独自の1〜5番線に変更したと出ています。
RE:REホームの番線 (まるぶつ)
2024-04-12 14:44:08
kenmatsu様
そうそうのご解答いただきありがとうございます。
やはり連番だったのですね!!
私のモヤモヤが晴れてすっきりしました。
ありがとうございます。
余談ですが、まるぶつデパートやトロリーバスが懐かしい時代の思い出です。

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