東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(82)坂みちと文学(つづき)

2015-06-21 18:17:34 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京に数多い坂道にまつわる話の続き。前回から続いて茗荷谷近辺の坂の話である。

「切支丹坂は夏目漱石の「琴のそら音」(明治三十八年)にも出てくる。白山御殿町の友人の下宿を訪ねた法学士が、小日向台町の自宅へ帰るまでの道筋が描かれるが、切支丹坂には、「日本一急な坂」との張り札があったというのである。志賀直哉のひよどり越えのたとえが、実感としてつたわるような一節だ。
「竹早町を横ぎつて切支丹坂へかゝる。何故切支丹坂と云ふのか分からないが、此坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふと先達てこゝを通つて『日本一急な坂、命の欲しい者は用心ぢや用心ぢや』と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出て居るのを滑稽だと笑つた事を思ひ出す。今夜は笑ふ所ではない。命の欲しい者は用心ぢやと云ふ文句が聖書にでもある格言の様に胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑つて尻餅を搗く。険呑だと八合目あたりから下を見て覘をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、昼でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒い者に雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝つて、茗荷谷を向へ上つて七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい。」
 この描写は雨の降りだした夜、四月三日の午後十一時すぎという設定である。語り手の「私」は白山御殿町を出て、蓮華寺坂を下り、極楽水の吹上坂を上ってこの切支丹坂にさしかかったとわかる。吹上坂では乳飲子の棺桶をかつぐ二人の男に出あって「死」を考えたりする。それだけにこの切支丹坂の下りは無気味である。」

もう一度、この坂の写真を掲載しておこう。これが本来の切支丹坂。丸の内線のガードを潜っていった先にある坂である。この坂がそこまでお難所には見えないという話は、前回しているので繰り返さない。


そして、丸の内線のガードを潜っていく。


この坂は庚申坂という名が付いている。ただし、時期によっては、こちらの坂を切支丹坂と呼んでいたことがあるという。険しく、怖ろしい坂道というのは、今も面影が残る様に思える。


 前回も出てきた切支丹坂から始まる。文京区の中でも、この茗荷谷界隈の谷筋の高低差、急坂というのは特筆したくなるほどのものというのは、分かる様な気がする。それは道が舗装され、家々の建ち並ぶ町へと変貌しても、その面影が地形として今も残されているところから得られる共感である。
 今では明るく、街路灯に照らし出されて、深夜とてもこれほどの深い闇を感じさせるところではなくなっている。坂の急な角度は残されていても、アスファルトで舗装され、雨が降ろうともぬかるんで足下を掬うようなことも遠い昔話に変わっている。とはいえ、その街角に立って、この一節を思い浮かべれば、その当時の有様を脳裏に思い浮かべてみせることは、さほど難しいことではない。
 白山御殿町は、今の小石川植物園の周辺である。茗荷谷からは春日通りの尾根に出て、一気に坂を下っていった谷の先ということになる。「東京・遠く近き」の中では、震災復興に力を尽くした太田圓三氏にまつわる話を、「東京・遠く近きを読む(30)帝都復興計画」で取り上げたことがある。時代はこの一連の話から大分下るものではあるのだが。

「おなじく明治三十年代の小日向を描いた人に近松秋江がいる。「別れた妻」との最初の同棲地が小日向台町だった。妻の失除という事件の物語に、漱石は輿味をもっていた様子である。
 それは世上、よく知られている「別れたる妻に送る手紙」とその一連の物語である。岡山に生まれ、上京して早稲田に学んだ秋江は、明治二十四年七月、卒業すると博文館につとめ、翌年早稲田出版部にはいって正宗白鳥の下で働いていた。そのころ、牛込赤城神社境内の貸席清風亭の女中大貫ますと知りあい、三十六年三月、小日向台町三丁目の借家に同棲する。白鳥によると、彼は「信用できる女性と、堅実な家庭を持って、大いに勉強しようと思っているんだ」と語っていたとある。遊びにゆくと、彼女は質素ながらも心のこもる晩餐を供応してくれた。しかし、明治四十二年の夏、ますは彼から逃げだして姿をくらませてしまう。その彼女を秋江は執勘に追跡するのである。
 彼にとって、小日向は想い出のふかい場所である。後年、多くの追憶を書いている。「小石川の家」(大正九年)では学生時代から二十数年の東京生活の六七分は牛込、三四分はほとんど小石川だったという。」

 震災で焼失した旧市街の中心部とは違うとは言え、さすがに東京のまん中であり、しかも高級住宅地となったあたりであるだけに、明治中期の小日向の面影は今求めようとしても、土地の形以外には見出せるものはほぼない。それだけに、東京のまん中に取り込まれていく以前の、江戸の郊外であった時代の話というのは、実に興味深く思える。茗荷谷周辺は、永井荷風の生まれた町であり、徳川慶喜が生涯を終えた町でもある。そんなことを思いながら、彼らのいた時代のその町の姿を知っていくことはとても面白い。私の曾祖母は、明治三十年代に小石川餌差町から日本橋横山町の曾祖父のところへ嫁いでいる。曾祖母の実家のことはよく分からないのだが、小石川の町にはそんなこともあって、とても興味を持っている。

「昭和三年になって秋江は「久世山情趣」(「週刊朝日」二月十三日号)という文章を書いた。明治・大正の東京追憶の一篇だが、彼のなつかしい思い出につながるのはなんといっても小日向台町である。彼の借家時代、すなわち日露戦のころから徐々に開拓されていったところだが、この種の文章に接していると、彼の地形把握は実に正確である。自然風景の記憶も鮮かである。まだ電灯も水道もなく、つるぺ井戸をつかい、ランプを用いていたころがよみがえるのだ。
「私は夏の夕方など、家から近い、その久世山の原頭に、百夏草を踏みわけて出て行き、断崖の端に立つてゐた大きな欅の木の下で涼しい夜風に吹かれたりした。それからは、左の方に牛込と小石川との区界を流れる江戸川の低地に櫛比する瓦の波、そのすぐ向ふに赤城八幡、築土八幡の高台の森が緑黒く点景して、それから、ずつと右の方に牛込の矢来につゞく緩い傾斜の地勢が遠く早稲田の方につゞいて、それから奥の方の遠望を押し隠すやうに久世山の端からみるとすぐ右手に、音羽の深い谷を隔てゝ谷の向ふに突出してゐる目白の丘の老樹の繁み。新緑のころには欅の若葉が、まるでターナーの風景画そのまゝの如き淡蒼き煙霞を吐き晩秋の季節には銀杏の黄葉があちらにも此方にも、朗かに晴れた秋空に清く秀でゝ立つてゐた。目白の丘つゞきの森にはまた楓葉の紅が多かつた。それらの色とりどりにここきまぜた自然の眺めは都ぞ秋の錦繍なりけりといふてもよかつた。」
 このような一節を読むと、地方出身の文学者が東京の素朴な、あるがままの地形と四季の色彩に感嘆の声をあげていたことがわかる。江戸川をはさんで両脇の台地に住んでいた永井荷風の観察と一脈通ずるものがあって、秋江もまた人文地理の体得者であったとわかる。小日向台地には武蔵野台地の地下水をあつめる湧き水のあったこと、山清水をひいて風呂を湧かしていたなどときくと、東京の山の手は、自然のゆたかな、情趣に富んだ場所だったと教えられる。彼はそこで「別れた妻」に苦しみ、生計に行きづまっている。彼の言葉によると「失恋と窮迫」ということになるが、彼はそれをありのままに書いた。そこが自分の取柄だとも言っていたのだった。」

 武蔵野の面影という言葉は割と簡単に使われることが多いのだが、それはこのような情景を指して使う言葉なのだと教えられる。今日の我々の社会は、高度な社会インフラによって支えられており、僅か数十年前ともまるで違った様相を呈していることも確かではある。その反面、その変化というものが極めて短いスパンで起きてきたことであって、社会とか、生活の有り様の実態そのものはじわりじわりと変化してきているものでもある。その変化の元を辿っていく時には、100年という歳月はさほど巨大なものではないことも実感させられることが多い。そんな想いを抱えつつ、実際の現在の町に出てみると、そうはいっても失われていったものの巨大さに言葉を失うことにもなりがちなわけだが。
 昭和の初めに書かれたという、この明治の小日向を懐かしむ一文は、野趣の残る当時の新開地であった小日向の空気や情景を鮮やかに蘇らせてくれる。こうした形で書き残していってくれた人がいるからこそ、今の時代になってもそれを知ることが出来る。そのことの有り難みと面白さを改めて感じさせられる。

「先年、『近松秋江全集』(八木書店)がまとまって書簡集も出た。そのなかに大貫ます宛の一通があって、おそるべき言葉がつらねられていた。
「お前を殺すか、さもなけれぱ、入らぬ口を聞いて邪魔をする誰れかを打ち殺して、自分でも死ぬつもりだ。三十五まで生いてゐたら、大低生きるにも飽いた。二三日前ピストルも本当に買つたよ。(中略)
去年の五月からは、怨み骨に染み込んでゐるから、さう思へ。どうしても一度会つて、話をせねば、不意打ちだ。私は此後はお前を探して打ち殺すのを楽みに生きてゐるよ。どうしても殺してやるから、殺さねばどうしても腹かいへない。」
 まことにすさまじいかぎりである。」

 三十五云々とあるところを見ると、近松秋江は明治9年の生まれなので数えであるとしても明治末の頃の手紙ということになる。文中にある「別れた妻」の連作を書いていた時代の最中のものであり、まさに生々しい感情の発露というべき手紙だ。そして、この生々しく激しい情念があればこそ、その連作が人の心に届くものになっていったことも、感情的に理解出来る様に思える。
 私はこの文章に出会うまで、近松秋江という人のことは知らずに来たのだが、「久世山情趣」の描写などみていると、これは読んでみたいという興味を持つようになった。そういった意味合いからも、私にとってはこの近藤氏のエッセイは講義を受けているようで、とても楽しく教えて戴いているようでありがたく思っている。

この町で様々なドラマがあった。


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