東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(77)交通の発達(つづき)

2015-02-23 19:58:11 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の交通の発達、その話の続きで地下鉄の話である。

「昨年十一月の末、東京臨海新交通臨海線というのが開通した。長ったらしい名称だが、新交通「ゆりかもめ」でとおっている。新橋の汐留を出て、日の出、芝浦の埠頭をみなからレインボーブリッジをわたり(といっても二層づくりの下を走る)、青海をひとめぐりして、二十分で有明につく。いずれは豊洲、晴海へとのびるらしい。
 今年の三月三十日には、東京臨海高速鉄道臨海副都心線が開通した。こちらは新木場を出てから、東雲、国際展示場、東京テレボートと、まだ三つの駅をかぞえるにすぎないが、やがては海をもぐって東品川、大井町から大崎へつながる予定である。「ゆりかもめ」の有明駅と国際展示場駅とは眼と鼻のさきであった。
 そうかとおもうと、三月二十六日には地下鉄(帝都高速交通営団)の南北線が四ッ谷までのびてきた。五年まえ、北区の赤羽岩渕から駒込まで開通したのは知っていたが、いまは東大前をとおって飯田橋に出、外堀のわきをもぐっている。この線は来年、溜池まで延長、あと三年ほどすると、目黒へのびて、東急目蒲線とつながる様子である。営団の広報記事によると、
「都市の足として、大活躍の営団地下鉄。主要駅の通過や、東京都心部を中心に新たな地域への新開通により、混雑の緩和や利用時間の短縮などをめざしています。全面開通までにはもう少々時間かかかりそうですが、お客様により便利な足としての“営団地下鉄”をご利用いただけるよう、いっそう積極的な努力をしていきます。」
 とあったが、東京の地下はいったいどんなことになるやら、まったく「果て知らず」である。」

 この辺りは、1996年という時代を振り返る感じになる話だ。この年は、予定されていた都市博の開かれるはずであった年でもあった。都市博中止を公約にした青島都知事が当選し、そして議会の大反対を押し切って中止を決断したという、都政の歴史上特筆されるべき年でもある。その一方で都民は飽きっぽくて、都市博中止に快哉を叫ぶだけで、都議会議員選挙には何も関心を払うことなく、孤立する青島知事を見殺しにした。
 さらに、前年の1995年は一月の阪神淡路大震災から始まり、三月には地下鉄サリン事件が起き、オウム真理教の検挙へと繋がる大きな事件の続いた年でもあった。
 今では「ゆりかもめ」も当たり前の景色になっているし、臨海高速鉄道はJR埼京線と直通運転をしているし、地下鉄南北線も全線が開通して東急との直通運転も行われている。総て完成して当たり前の日常になってしまうということの凄まじさというのも、今振り返ると感じるものだ。
 私にとっては、これらの鉄道は東京の交通機関の中では新顔中の新顔という印象が未だにあるのだが、今の二十代くらいの年代の人にとっては既にその感覚が理解されにくいものになっているのだろう。東京の地下鉄道の発展も、概ね完成をみており、目下一段落といっても良いのではないだろうか。今後、羽田空港関連の連絡鉄道の整備が行われていくのだろうが、それがどんな形になっていくのか、楽しみでもある。

これは昭和53年に都営新宿線が開業した時の写真である。


「中央大橋が完成したときも後手をふんだが、今回もそのとおりである。ある土曜日の午後、ゆりかもめ、臨海副都心線、南北線の三つを梯子酒ならぬハシゴ乗車に出かけたのだった。まず新橋の東口に出ておどろいたのは、「ゆりかもめ」の乗客がぞろぞろと階段をのぼり、架橋をわたってゆくことだった。有明までの切符を買って中にはいると、電車ば満員だ。若い二人連れもいれば、孫をつれた老夫婦もいる。みな行楽気分の客ばかりで、新しいものを味わってみようとしている。東京都の新知事が都市博中止を宣言して以来、青海はなにやかやと話題でもちきりのところだった。私はその計画進行中にあたりを歩いてみたことがあった。また船の上から見はるかしたこともあった。東京という"恐竜"のような、どこで火を吹くかわからない都市の実像を垣間みたような気持だった。しかし中止となってみてもなにがおこるかはわからないのである。廃棄物と土砂と塵挨とでかためられた島は、装いをあらたに蘇生したわけだが、そこになんと無人の電車が客をたくさんつめこんで走るのである。
 高架を走るだけに風景がおもしろい。フジテレビの建物はまもなく完成するようである。テレコムセンターは技術の最先端を結集した情報の一大拠点だそうだ。国際展示場駅にいたれば、東京ビッグサイトとか東京ファッションタウンビルとか有明フロンティアビルなどの建物が眼にほいる。その他、カタカナ表記の道路や建物ばかりである。駅で「東京シーサイドストーリー」という宣伝紙をもらってひらいてみると、イベント清報でうずまっている。「特選グルメ」「シネマアベニュー」の紹介もある。八月上旬の二日間、大相撲有明場所の興行が有明コロシアムで開催という広告も眼についた。売れるもの、人気のあるものは積極的にとりいれているようにみえた。東京の盛り場がそうであったように、これまた、なんでも飲みこんでしまう巨大な胃袋を養っているようだ。」

 都市博中止とバブルの崩壊というのは、それまで続いてきたバカ騒ぎの終焉を意味するはずだったのだが、「ゆりかもめ」の開業やお台場の新規性を前面に打ち出したオープニングというのは、どこまでもバブル期のバカ騒ぎの延長線上で行われていた様に思う。私も少し落ち着いた頃に出掛けてみた記憶があるが、プレハブ建築を思わせる様なぺらぺらのビルの中で、けばけばしくどこかで見た様な店が並んで、妍を競う様は相当に食傷したものだ。東京の新しい盛り場というよりは、むしろ地方都市のニュータウンではないかと感じたのを覚えている。
 フジテレビは、新宿に程近い河田町からお台場に移った。ある意味、今日の凋落の一因にはお台場に移ったことがじわじわと効いているのではないかとも思う。テレビ番組を造る人間が、最も東京らしい雑多な町の中から離れていけば、どうなるのかという結果が今出ているのではないかとも思う。
 オリンピック招致というのも、都市博の再来のような側面がどこかにありそうに思えてならない。実際にはバブルが崩壊したことがお台場エリアが期待されるほどの伸びがない主因だろうと思うのだが、また大きなイベントを呼び込めば起爆剤になるだろうという、ここ数十年繰り返されてきた発想から一歩も抜け出ていないことを感じる。
 それでも、もうあそこが始まってから二十年経過したのだと思うと感慨深い。本社をお台場に移すことを表明していた企業も多かったのに、大量にキャンセルしてそれを止めたことは、結果的には間違っていなかったとしか言い様がない。その後に汐留の再開発で都心部の新規需要が賄い切れたとも言えるのではないだろうか。

「日本にはじめて地下鉄を導入したのは早川徳次だった。明治四十一年、早稲田の法科を出て南満州鉄道、鉄道院、高野山鉄道に勤務した人だが、欧米視察中にロンドンの地下鉄に触発され、東京での建設に奔走している。夏目漱石をはじめとして、ヨーロッバ、アメリカの地下鉄にふれた人は多いが、早川がすぐさまとりいれようとしたのは鉄道経営の実際にあたっていたからである。『地下鉄運輸五十年史』(昭和五十六年、帝都高速交通営団)には「交通量調査や地質調査を繰り返した結果、浅草-上野-銀座-新橋をつなぐ路線が一番需要がある」として政財界の要人を訪ね、金策にかけまわったと記されている。大正六年七月、東京軽便地下鉄道株式会社を設立、九年八月に東京地下鉄道と社名を変更、おりからの大震災で地盤崩壌、地上線路の陥没など事故の続出で苦渋をなめた。昭和二年十二月三十日の浅草・上野の開通以後、四年十二月の上野・万世橋間、六年十一月の万世橋・神田間(神田川河底をもぐる工事では複線アーチ型トンネルが築造された)、七年十二月の神田・京橋間、九年三月の京橋・銀座間と順次に延びて行って、新橋まで全通したのは昭和九年六月二十一日のことである。万世橋駅はあくまで仮りのものだった。その出入口は一ヵ所、現在では秋葉原交叉点の電気器具店前の路上に通風口としてのこっている。まえにも述べたように、万世橋は昔からターミナルの役割を果してきたのにかかわらず、鉄道路線の延長によって、時代からとりのこされるのである。
 一方、渋谷から新橋へと掘って行ったのは、門野重九郎のひきいる東京高速鉄道株式会社だった。そこには早川とおなじ鉄道院育ちの五島慶太がいた。新橋で東京地下鉄とレールを結ぶ予定であったため、構造の規模はすべて東京地下鉄とおなじである。昭和十四年一月になって渋谷・新橋問が全通したのだが、両者のかけひき、利権争い、営業をめぐる紛争は絶え間がなかった。浅草・渋谷の直通運転どころか、当初、新橋は別々の駅であり、乗客はいったん改札口を出て切符を買いなおして乗らねぱならなかった。十六年になって両社は合併、いまの帝都高速交通営団となるが、早川徳次は五島慶太との経営権争いに敗れ、十七年十一月、失意のうちに郷里の山梨県一宮で生涯をおえた。乗物は電灯とならんで近代産業の成長株だった。山梨出身の事業家で鉄道の建設・経営に関係した人は多い。若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎とその名があがってくるが、早川徳次もその事業家伝中のひとりだった。いま、銀座駅の銀座線と丸の内線の連絡通路に彼の胸像をみることができる。」

 この地下鉄事始めは、比較的知られている話だろう。この新橋から上野の間というのは、馬車鉄道の時代からの東京のメインストリートであり、この路線を押さえることができた時点で、実はこの路線の成功は約束された様なものだったとも言える。今では、新橋駅が二つあったことや、その一つが今も残されていて留置線として使われており、時々一般にも公開されることがあったりもする。そういえば、本文の最初の方でも帝都高速度交通営団の名称が出て来たが、この名前も今となっては懐かしく思える。営団地下鉄と略されていたのだが、東京メトロに変わってからもう十年以上が経過した。営団の設立が戦中の昭和16年のことで、これも交通の統制からできたものだった。それが、平成16年に廃止され、今の東京地下鉄、メトロへと転換されたわけである。
 山梨出身の事業家というのは、全く錚々たる顔触れといって良く、日本の近代化の中心にいたような人が数多い。若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎は甲州財閥と言われたグループを形成しており、若尾は中央線の敷設に力を尽くしている。雨宮は、やはり甲武鉄道へ投資しており、また各地の私鉄にも関与しており、根津は東武鉄道の社長を務めていた。他にも甲州出身では、小林一三という巨人も輩出している。
 それにしても、この早川徳次の地下鉄に掛ける情熱と努力は、正に地下鉄の父と呼ぶに相応しいものだ。豪腕を以てなる強盗慶太が相手であったことが不運で、地下鉄経営から追われたことは彼にとっても断腸の思いであったことだろう。その恩義を知る人が多いから、いまでも早川の遺徳を讃える胸像が置かれているわけである。

地下鉄博物館にて、銀座線の車両。


その車内。駅に到着する寸前に照明が消え、非常灯がぽっと点灯するのが繰り返される。


「私の記憶のなかの地下鉄は、なんといってもその銀座線だった。まえに記したように、日本橋駅入口の下り上りがおもしろかったし、浅草駅雷門口に出る地下道がものめずらしかった。渋谷へ行ったときもおぼえている。電車がすうっと明るい地上に出て、三階の位置まで上ってしまうのでおどろいたのをおもいおこす。ひところ、小学校仲問のあいだで地下鉄の電車はどこから入れるのかが問題になった。だれも明確な答は出せなかった。そんな議論がかわされたのも、地下鉄がめずらしかったからである。
 戦後の東京はまさに地下鉄建設の連続であった。いたるところで工事がすすめられた。そのころの市中の光景はいまだ眼にやきついている。昭和二十九年の池袋・お茶の水間の開通、その延長としての丸の内線の全通をはじめとして、日比谷線、東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、都営の浅草線、三田線、新宿線と、地下網は縦横にはりめぐらされた。そのうえでまだまだ建設はつづいている。東京の地下利用はどこまでつづくのか、計りしれぬものがある。」

 私にとっては、都営三田線が当時は六号線と呼ばれていて、志村~巣鴨間が開通した時のことが思い起こされる。昭和43年12月のことだった。華々しく開通したものの、巣鴨までしか行かないのでは不便で、それ程頻繁には利用しなかった。当時はバスで通学していたので、東京駅丸の内北口行きに乗っていた。開通前には都電が廃止された後の代替バスが巣鴨まで走っていたのに、これが廃止されたのは覚えている。巣鴨から先の都電が廃止になったのも、この頃だった。
 私は板橋で育ったので、やはり継いで思い出されるのは丸の内線である。あの赤い電車に白い帯、そしてサインカーブと言われた銀色の模様は懐かしい、車内のピンク色の塗色も同時に思い出される。そして、たまに乗る銀座線が古臭いのに、丸の内線は新しいと思っていたものだった。なにしろ、銀座線の駅に着く度に一瞬車内が暗くなるのは、子供心にも古臭いと感じられた思い出だ。今では、その話をしても不思議な顔をされるだけかもしれない。
 それにしても、高度成長期からその後まで、都内の地下鉄建設は営々と続いてきたものだった。ようやく、そのほとんどが形になって完成しているのは不思議な気持ちがする。営団地下鉄のパンフレットを父親が持ち帰ってくると、その裏に地図が印刷されていて、計画中や工事中の路線がそこに掲載されていた。それは今は存在しないのだが、夢の様に便利になるのだとばかり思い込んでいた。子供だったけど、あれを見るのはとても楽しかったことを思い出す。

こちらも地下鉄博物館にて、丸の内線の車両。


「地下鉄は、乗物としては確実で、早くて便利である。しかし乗っていて楽しいものではない。沿線の風景をみるたのしみは皆無である。漱石は正岡子視にあてた「倫敦消息」のなかでこんなことを書いていた。
「穴の中は電気燈であかるい。~吾輩は穴の中ではどうしても本杯は読めない。第一空気が臭い汽車が揺れる只でも吐きさうだまことに不愉快極まる。停車場を四許りこすと『バンク』だ。ここで汽車を乗りかへて一の穴から又他の穴へ移るのである。丸でもぐら持ちだね。」
 ロンドンでははじめ蒸汽機関車が地下を走っていた。穴のなかで石炭を焚くのだから、媒煙はたまったものではない。漱石の体験は千九百年代のロンドンだから、それを考慮して読まなければならないが、漱石には自然光線のないのが不満だったにちかいない。東京の地下鉄は進歩をかさねて良くなってはいる。しかし、目的地へ行くだけの便利な乗物であることにはかわりはない。」

 漱石の蒸気時代の地下鉄体験は、今となっては貴重な記録でもあるだろう。トンネルと蒸気機関車は極めて相性の悪いものだ。我が国の鉄道でも、長大トンネルの区間はいち早く電化されている。その最初期の蒸気機関車を走らせていた地下鉄は、やはり不愉快極まるものであったというのがなるほどと思う。
 それにしても、確かに地下鉄は速くて確実だが、駅は地下深くにあり、その駅間もバスや路面電車と比べれば長いもので、ひとたび体調に不安を抱える様になるとなかなか便利で快適とは言いがたい所もあることを痛感する。さらには、移動の中での楽しみというものが無いという点でも、近藤氏に同意するしかない。先日も高齢の母親と都心部へ地下鉄で出掛けたが、エレベーターや、切符売り場の連携など、案内の不備も含めてまだまだ親切と言うには程遠いところが多いことを痛感させられる。

丸の内線のこのピンク色の車内も懐かしい。

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