東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(81)坂みちと文学

2015-05-31 23:19:09 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京に数多い坂道にまつわる話。文京区の茗荷谷周辺の話である。

「志賀直哉に「自転事」という短篇がある。「新潮」昭和二十六年十一月号に発表された作で、少年時代の想い出が鮮かである。これを書いたころの直哉は、数えで六十九歳だった。
「人間の生涯としては終り近い年であるが、十代の自分を顧み、今の自分とそれ程変らない自分である事を発見したり、憶ひ出した古い事柄が何かの意味で今の生活に繋がりを持つてゐると思はれたり、面白く思ふ事がある」といって、輸入自転車を乗りまわしていた頃の話が出てくる。
 学習院中等科にすすんだとき、祖父に買ってもらったのは、デイトンという自転車だった。ブレーキはない。そのうえ、彼の足はまだペダルにとどかなかった。そのため「足駄の歯のやうな鉄板を捩子でペダルに取りつけ、漸く足を届かす事が出来た」というが、それで横浜、江の島、千葉などへの遠乗りに出かけたというのである。二六新報・秋山定輔の雙輪倶楽部の会員ではなかったが、そこに参加したこともあったと書いている。当時、自転車に乗ることは、有産階級のステータスシンボルであったとおもわれる。」

 志賀直哉の学習院中等科時代というと、明治三十年前後のことだろうと思われる。この時代、自動車は発明と改良が始まった頃で、我が国にやってくるのは僅かに後のことになる。最初期の自転車はやはりとても高価な輸入品で、庶民には手の届くようなものではなかったことが、この辺りまで読むだけでも分かる。自分の足で漕ぐものであっても、徒歩とは比較にならないレベルで距離を稼ぐことの出来る乗り物として、やはり自転車も画期的な近代の産物の一つだと言えるだろう。

「「私は十三の時から五六年の間、殆ど自転車気違ひといつてもいい程によく自転車を乗廻してゐた」という直哉は、通学にも買物にも、友人を訪ねるにも、いつも自転車をつかっていた。つぎの一節は小石川の友人の家に出かけたときの記憶である。
「恐しかつたのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあつて、この名があるといふ事は後に知つたが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケしくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルか全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルく滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。」

 やはり志賀直哉の十三歳からというと、数えでの話だろうから、明治三十年を挟んだ頃のことのようだ。まだ、東京には馬車鉄道が走り、市内電車は登場していなかった頃。東京中のほとんどの道は未舗装路で、江戸の名残を色濃く残していた時代の町を、道行く人が振り返る中、少年志賀直哉が自転車で颯爽と走り回っていた景色を想像してみたくなる。
 この茗荷谷界隈は、千川の谷から登り切った背後が茗荷谷として再び落ち込んでいて、更に音羽の山があって、再び谷という複雑な地形の中の一部になる。この辺りの台地と谷の織り成す複雑なアップダウンは、東京の中でも愁眉と言うべき面白さと複雑さを備えている。

 その坂の名の由来となった、切支丹屋敷跡。


「ところが、志賀直哉の描写に異議をとなえた人がいた。それは佐藤春夫だった。直哉の表現は大袈裟だといわんばかりである。写真家・大竹新助が春夫に同行し、荷風の『日和下駄』の跡をたどったことがあった。切支丹坂に出たときの様子を大竹はつぎのように書いている。
「そのとき、志賀さんの『自転車』の話をしてしまった。すると佐藤先生は少し色をなして、こんな坂ぐらいなんだと、いうようなことを言われたので、佐藤先生はずいぶん志賀先生に競争意識をもっているものだと、そのとき、私は思った。
 お二人ともまだ健在であったころの諸である。」(『坂と文学』昭和五十二年、地域教材社)」

 こういった他愛もないと言えそうなところで、片意地を張る話というのは、大体において興味深く面白いものだ。それも、共に日本の文学史上に大きな足跡を残している二人である。何故、そんな風に意地になって対抗意識を燃やすのかと言うことを辿ってみると、その心情に人間らしい感情の表出が顕れているものだ。

 確かに、佐藤春夫の気持ちも分かる様な気分になる、切支丹坂。


「「私の生れた小石川には崖が沢山あつた。第一に思ひ出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にほその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向ひ合つては名前を忘れてしまつたが山道のやうな細い坂が小日向台町の裏へと撃ち登つてゐる。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払はれて、全く以前の薄暗い物凄さを失つてしまつた。」
 この一節によって佐藤春夫はこのあたりの風景を見ようとしたのだが、彼にとってここは初めての場所であった。目白坂という近いところに住みながら、彼はまだ一度も歩いたことがなかった。「わたくしは荷風先生とほ違つて大の不精者」で、用もない市中を歩きまわるようなことはなかったというが、そのとき、大竹新助から「自転車」の話をきくのである。
「志賀直哉氏は少年時代自転車に乗つたころ、ここを一番にが手の難所とした。当時の自転車にはブレーキがなかつたからと書いてゐるとか。当時はここももとより今日のやうに舗装道路ではなかつたらうが、勾配から云へば、ここは決してさう困難なといふ程のものとは思へない。僕も少年時代にブレーキのない自転車に乗つたおぼえはある。さうして田舎の町のこれよりもつと長い急坂を乗り越えるのも一向に困難とほ感じなかつた。文学では遠く及ばないが、自転車乗りならこの大先輩よりは僕の方が大ぶん上級らしいと思つた。」
 切支丹坂にかんする両作家の文章を引いたが、ここには坂の名前および地形についての大きなくいちがいがある。そこから直哉にたいする春夫の誤解が生まれているようにおもえる。『暗夜行路・写真譜』をまとめたような、文学風景のすぐれた写真家・大竹新助の説明不足だったのか、春夫の早呑みこみであったのか、とんだとばっちりが志賀直哉におよんだといえそうである。春夫の地形認識ほもちろん正しい。彼のみた切支丹坂は自転車で下るのに恐れを感ずるほどでほない。実はその反対側の坂、荷風のいう「山道のやうな綱い坂」が直哉の冒険心をあおった切支丹坂だと考えられる。」

 この節の冒頭は荷風のもの。荷風は、この辺りに生家があった。彼にとっても思い出深く、愛着のある土地であったことだろう。荷風のゆかりの地、金剛寺坂。


 そのすぐ近くで、丸の内線の上を橋で越えていくところがあった。


 そして、切支丹屋敷に因んで坂の名が切支丹坂と言われたものの、それは向かい合う二つの坂を呼んでいたもので、どちらもその名で呼ばれたことがあるという、罪な因縁を持っていたという話になってくる。
 そうしてみると、佐藤春夫が志賀直哉の自転車小僧ぶりに茶々を入れてみせた下りというのも、中々面白く読めるわけである。
 それにしても、いくら昔のこととはいえ、ブレーキのない自転車は坂道の多い町では危険だし怖いものだっただろう。中には大きな怪我をした人もいたに違いない。近年でもブレーキのない自転車を道路で乗ることについて、安全性から問題になったことを思い出したりもする。
 それにしても、この茗荷谷近辺というのは高低差の激しい地形の中にあり、学校のキャンパスがあり、高級住宅地があり、そして深い谷へ下る道がありと、変化に富んだところで面白い町でもある。

 こちらが、庚申坂。春日通りから下ってきた道である。この坂のことも、切支丹坂と呼ばれていたことがあったらしい。


「私はまだ鼠坂に出かけたことはなかった。つい先日、おもいたって音羽から上ってみたが、小日向台地では一番の急坂におもえた。庚申坂がやや逆くの字型に曲って頓斜をゆるやかにしているのにくらべると、道のつけ方はほとんど鉄砲登りである。登り口から上部まで、歩幅をかぞえたら百三十一歩だった。山登りからみればどうっていうこともないが、土地の生活者にしたら、上り下りはたいへんである。いまでは石段が組まれ、その横はコンクリートの小径となって鉄の手摺りがある。四十七歩目には次の標識板があった。
「音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。この小日向台地一帯は古くからひらけ、日頭といわれた地帯である。
『鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至つてほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし。』(改撰江戸志)
 また、坂上からは音羽谷を高速道路にそって流れていた弦巻川がながめられたことから土地の人は“水見坂”ともいう。」
 台地の上は静かな住宅地である。道幅はせまく自動車の往き来はない。その右手の久世山のほうは八幡坂へむかう道で、鳩山氏の洋館が森のなかに建っている。私は台地上の小路を歩きまわり、切支丹坂を下って地下鉄のガードをくぐり、庚申坂を上ってみた。そこは崖下の山道のようで、昔とほとんど変りがないようにみえる。荷風のいう「名前を忘れてしまつたが山道のやうな網い坂」はいまでもその面影をたたえている。志賀直哉はこの坂を切支丹坂とよんでいたのではあるまいか。
「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり(略)この坂を切支丹坂といふは誤りなり。本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。」
 案内文は『東京名所図会』のこの一節をひいて、坂の名を正している。そして「西側の藪の間を上る坂あり、これが真の切支丹坂なり」と書いてあった。
 坂を上りきって春日通りに出ると、自動車の往来ははげしく、耳をおおいたくなるほどの轟音がきこえてきた。」

鼠坂は厳しい急坂である。今もそれは変わっていない。


 文京区は、山の手らしく台地の縁に位置しているとも言えるロケーションで、谷筋も数多く存在しており、坂の多さでは一際といえる地域でもある。私にとっては、白山、西片から本郷に掛けての辺りが、幼い頃からの馴染みがあって親しみ深く思う辺りなのだが、地形的に坂と谷のダイナミズムのスケールとバリエーションという点から言えば、この小日向台地の辺りというのは、区内でも格別なものがある様に思う。歩いてみても、とても楽しいところなのだが、正に胸を突くような急坂が幾つもあるので、その上り下りが楽しめる健脚が要求されるとも言える、探訪するのにハードルの少し高いエリアだとも言えるところだ。
 それでも、歩き回ってみれば、それだけの面白さが見出せるところだと思う。

 この地下鉄丸の内線というのも、今となっては銀座線と並んで東京の地下鉄では古株の部類になっている。それでも、戦後に出来た丸の内線と思うのだが、基本計画を含めて戦前に既に練り上げられていたものであったようだ。銀座線よりも一回り大きな車両を使い、池袋から東京駅、銀座を経て赤坂、四ッ谷、そして新宿に向かい、さらに荻窪と方南町という路線計画は、今の視点で見直してみると中々ユニークなものだ。
 そして、この茗荷谷の車庫の辺りもそうだが、なるべく急勾配を作らないようにしながら、苦心して路線を策定していること、それが結果的に地上を走る区間が点在するというこの路線のユニークな特色を生みだしている。この後の時代の地下鉄は、用地取得の問題を抱え、さらには車両の高性能化もあって、深いところを走る様になり、勾配もこの初期の路線ほど苦にはしないようになっていく。

 歩き回っていると、町内会の設置した案内板もある。これなどはとても分かりやすい。

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