日本航空(JL)5057便で、羽田空港を午前0時半に発ち、フランス・シャルルドゴール空港に午前5時半に到着した。空港からパリ市内へは、パリ高速鉄道(RER)が便利だが、スリが多いこともあり、今回も、空港バス「ロワシーバス」(RoissyBus)に乗車する。乗客も10人ほどで安心感があり、約1時間ほどで無事パリ・オペラ座(ガルニエ宮)前のバス停に到着した。まもなく午前8時で、夜明けまであと30分ほどになる。
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バス停の道路向かい側が、頂部をドームによって覆われたオペラ座の西ファザード「皇帝のロタンダ」で、もともと皇帝が直接入館できるように2重の専用斜道構造となっている。その手前には、オペラ座の設計者フランス建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier、1825~1898)の胸像が飾られている。オペラ座のメインファサードは南側になり、回り込んだ東側には、西側と対になる同じデザインの「支援者のパヴィヨン」と名付けられた関係者向けのファサードがある。
オペラ座の東側にある、ショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からラ・ファイエット通りを北東に1キロメートル行った左側の「モントロン公園」(パリ9区)そばにあるプチホテル「ウイリアム オペラ」が今夜の宿泊ホテルになる。荷物を預けて市内を散策することにした(以下ルートマップ参照)。
ホテル前のラ・ファイエット通りを東方面に450メートルほど歩くと10区に入る。左手に見える教会は、「サンヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会礼拝堂教会」である。こちらの教会は、カトリック修道女カタリナ・ラブレが、聖母マリアの出現によって示されたお告げとイメージをもとにデザインされた「不思議のメダイ」で知られており、奇跡のメダル教会ともいわれている。
教会の南側から、シャブロル通りを東に300メートル歩き、左手に続く建物が「マルシェ・サンカンタン」である。北側のプティオテル通りと東側のマゼンタ大通りとの三角形の敷地に建てられており、ピンクのレンガと緑の鋳鉄製のアーケードが特徴的なマルシェである。パリにマルシェは多いが、こちらは1866年に建てられた歴史あるマルシェである。
営業時間は、午前8時から午後8時まで(日曜日は午後1時30分まで、月曜日は休み)で、店内にはクリスマス準備に大忙しのお肉屋さんや、
美味しそうなチーズ屋さんなど多くのお店がある。チーズの種類の多さは、日本とは比べ物にならない。さすがチーズの国フランスである。
マルシェの前の交差点を超えると、左側に「パリ東駅」(Gare de l'Est)が見えてくる。東駅はフランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面と東へ向かう列車が発着することから名付けられている。
東駅前から、南に数十メートル下ったマジェンタ通りとの交差点の左側に、ステンドグラスと高い尖塔(肝心の尖塔が切れてしまった。。)で知られるゴシック式建築の「サン・ローラン教会」が建っている。古代ローマ街道の跡地に建てられたが、現在の教会は10世紀と15世紀の建築を基礎とし、19世紀にステンドグラスのあるファサードとして再建されている。
サン・ローラン教会のファサードに向かって左側の北側廊沿いを通り、後陣から東方向に延びるレコリ通りに入る。左側には旧ヴィルマン軍病院の跡地に建設された「ヴィルマン庭園」(1977年創設)がある。軍病院は、前線から帰還した負傷者がすぐに治療を受けられる様に、1861年、北駅と東駅の近くに設立されたが、現在は、ポータルのみが残されている。レコリ通りを東に歩いていくと、通りは突き当たりの丁字路になり、その先にアーチ鉄橋が見えてくる。
ここが「サン・マルタン運河」で、1キロメートルほど北のラ・ヴィレット貯水池と3.5キロメートル南のセーヌ川とを結んでいる。このサン・マルタン運河は、ナポレオン1世が、1825年、市民に飲み水を提供するために作ったもので、現在では観光のための遊覧船も走っている。
運河は、25メートルの高低差があるために9つの閘門(こうもん)があるが、鉄橋から南のセーヌ川方面を眺めるとその閘門の一つがあり、構造を確認することができる。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画「アメリ」(2001年)で、主人公のアメリが石で水切りをしていた場所がこちらである。
陸橋を渡った側の運河沿いのジェマッペ通り沿いには「北ホテル」がある。マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」Hotel du Nord(1938年)の舞台となっており、こちらのアーチ橋を渡ってきた男女2人が、河川敷にあるベンチに座るシーンから映画は始まっている。
冒頭シーンでは、ベンチに座る2人の背後に現在と変わらぬ北ホテルの全景が映し出される。当時の映画はセット撮影だったとされているが、ホテルを含めた周囲の景観は現在とほとんど変わっていない。ちなみに北ホテルは、現在レストランになっている。
再び、陸橋で運河の西側に戻り、メトロ5号線のジャック・ボンセルジャン駅から、シャトー・ドー通りに入ると左側にサン・マルタン・マルシェがある。
こちらも常設のマルシェで、店内には、新鮮な魚介類がたくさん並べた魚屋さんなどがある。
先の交差点を左折して南に向かうサン・マルタン通りを進むと、交差点の中心に「サン・マルタン門」が建っている。太陽王として知られるルイ14世が、1674年に造った凱旋門で、アーチの上の彫刻は、フランス国王軍がブザンソン(スイス)奪取と軍と三国同盟(ドイツ・オランダ・スペイン)の解体をあらわしている。
次に、サン・マルタン門から、サン・マルタン大通りを600メートルほど東に向かうと「レピュブリック広場」になる。このあたりには、ビストロも多く若者も大勢訪れる。レピュブリックはフランス共和国(Republique Francaise)を名に冠した場所で、広場中央にフランス象徴のマリアンヌ像が飾られている。
レピュブリック広場から、南方面のタンプル通りに入る。ここから3区に入る。正面三叉路角にはメトロ「タンプル駅」入口がある。建築家エクトール・ギマールのお馴染みのアール・ヌーヴォーデザインの駅のゲートを見ながら左手タンプル通りを南に進む。タンプル通りは1830年代、パリ演劇界の中心地で、最盛期には15もの劇場が軒を連ねており、当時は「犯罪大通り」とも呼ばれていた。
「犯罪大通り」といえば、フランス映画史上に残るマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」Les Enfants du Paradis(1945年)でお馴染みである。
タンプル通り左手には、パリ市内に多くの店舗を展開しているスーパー「モノプリ」Monopirixがあり、その店先には、特設の魚介のマルシェが出ていた。蟹、海老、牡蠣等が山積みになっている。
通り向かい側には「ハンガリー教会の聖エリザベス教会」が建っている。13世紀のハンガリーの王女、ハンガリーの聖エルジェーベト(エリーザベト)(1207~1231)に捧げられた教会で、ティンパヌムには、キリスト降架の浮彫が、左右に、ルイ9世(セントルイス)とハンガリーの聖エルジェーベトの彫像が飾られている。1938年からはエルサレムの聖ヨハネ騎士団の修道院教会となっており、マルタ十字の旗が見える。
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モノプリを過ぎたすぐ先の左側には「ドゥ・トンプル広場」がある。左折してブルターニュ通り沿いから広場に入る。この場所には12世紀から13世紀、テンプル騎士団によって建てられた要塞があり、フランス革命中には刑務所として使用されフランス王室が投獄されていた。その後、王党派の巡礼地にもなったことから、ナポレオン1世が1808年に取り壊しを命じたため、今では当時の面影はない。
広場には、小さなメリーゴーランドがあり、こんなところもパリらしい。また、小さな池のそばには鶏が放し飼いされていた。
広場からブルターニュ通りを東に向かうと、交差するシャルロ通りの手前右側に「マルシェ デ アンファン ルージュ」への入口がある。17世紀から続くパリで最も古いマルシェである。入口を入ると、正方形の敷地に、5つのアーケードが並行し、肉屋、魚屋、ビストロ、ワインバー、ハンバーガー、ケバブ、イタリア料理、中東料理など各国の料理を提供するお店が並んでいる。
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先の交差点を右折して「シャルロ通り」を南に向かう。交差点の左角には、パリジェンヌたちが集う人気のカフェ「シャルロ」(Le Charlot)がある。このあたりからマレ地区に入る。マレ地区は、中世のころまで、沼地(Marais)だったことから、名付けられた。16世紀末~17世紀に入るとアンリ4世が、このあたりを開発し、多くの貴族の邸宅が建てられた。現在貴重な歴史的資産として保存されている。
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シャルロ通りを南に進み、左折して少し東側に行ったところに「パリ国立ピカソ美術館」(Musée National Picasso-Paris)がある。ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっていることから、ピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い。 2009年以降、改修工事が行われていたが、遅れに遅れ、2カ月前にリニューアルオープンしている。この日は多くの人が訪れていた。
1705年にフランス貴族ド・ロアン家のために建てられた「オテル・ド・ロアン」(現:国立公文書館の一部)がある東側のヴィエイユ・デュ・テンプル通りを南に行き、交差点を左折すると東西に延びる「フラン・ブルジョワ通り」(Rue des Francs-Bourgeois)となる。歴史的建造物も多く、近年はファッションやサブ カルチャーの中心として注目を集めている。通りを一路東に向かう。このフラン・ブルジョワ通りを境に北側は3区、南側が4区となる。
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右側の建物は、15世紀以来、法曹界、財界、政界にかかわってきたスカロン家のために1634年に建てられた「オテル・ド・クーランジュ」(Hôtel de Coulanges)で、先の入口には、1707年のポータルにはロココ調の装飾が施されている。
左側には「オテル・ダルメラ」(Hôtel d'Alméras)がある。1613年にブルボン朝フランス国王アンリ4世の顧問で財務長官のために建てられたもの。その後、フランス革命期の政治家、軍人のポール・バラス(1755~1829)や、フランスの映画監督、脚本家アラン・コルノー(1943~2010)などが住んだ。改修、修繕は行われ、室内装飾などは当時のものは残っていないが、邸宅自体は、概ね当時のままである。
そして、先隣りの左側には、1585年に建てられた「オテル モルティエ ドゥ サンドルヴィル」(Hôtel Mortier de Sandreville)がある。パリの商人でブルジョアのバルベット家が所有していたが、その後の相続で分割され、後の継承者により1630年にオテルとなっている(ファサードは1767年に改修)。
フラン・ブルジョワ通りとパヴェ通りの角にある右側の、望楼のある建物は、16世紀に建てられた「オテル・ラモワニョン」(Hôtel de Lamoignon)で、1750年には治安判事ギヨーム・ド・ラモワニョンの住まいとなっている。同じ頃、パリの検察官を務めたアントワーヌ・モロー(1699~1759)が、歴史的文書への情熱に駆られ、ラモワニョンよりオテルを借りて図書館にしており、1968年には「パリ市歴史図書館」となっている。
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フラン・ブルジョワ通りを少し進むと、パリ市歴史図書館への入口がある。ティンパヌムにはラモワニョンの紋章看板を掲げるアモール(天使)の浮彫が残されている。
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パリ市歴史図書館の向かい側には、「カルナヴァレ博物館」(Musée Carnavalet)への入口がある。こちらは16世紀に建てられたオテル・カルナヴァレを1866年にパリ市議会が購入し、博物館としたもの。1989年には、隣接する同じく16世紀に建てられたオテル・ドルジェヴァルを購入し拡張している。
門から中庭を覗いてみる。ここの常設展は無料で入れるが、今日は時間の都合があり、また機会があれば
邸宅やショップを眺めながらフラン・ブルジョワ通りを400メートルほど歩いてくると、
視界が広がり、右側に「ヴォージュ広場」(Place des Vosges)が現れる。ヴィクトワール広場、ドーフィーヌ広場、ヴァンドーム広場、コンコルド広場と並ぶパリの5つの王立広場の一つで、1612年、アンリ4世により造られたパリで最も古い広場でもある。
広場は、一辺が140メートルの正方形の敷地で、周囲を車道と2階建ての赤レンガの住宅に囲まれている。こちらの住宅には多くの貴族や政治家などが住んでいた。中心の広場は彼らの憩いの場でもあり、馬術競技なども行われていたとのこと。
1階部分は回廊になっており、アーケードのついたお店が並んでいる。カフェもあり、寛ぐ人々の姿も見える。
ヴォージュ広場からは、一旦、フラン・ブルジョワ通りを少し戻り、セヴィニェ通りを南下すると、通りの奥に教会が見え始める。
セヴィニェ通りは、リヴォリ通りに突き当たる。向かい側に建つのは「サン・ポール・サン・ルイ教会」(Eglise Saint-Paul-Saint-Louis)である。ローマにあるバロック建築のジェズ教会を模して、1627年から1641年にかけて建造された。ルイ13世がこの場所の土地を提供したので、聖ルイが教会の名前の由来となっている。
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リヴォリ通りの北側を東西に延びる「ロジエ通り」(Rue des Rosiers)を歩く。マレ地区にある通りで、ユダヤ人街になっており、通り沿いにはイスラエル料理やベーグル、ファラフェルのお店などが集まっている。
ロジエ通りから、再びリヴォリ通りに出て、「パリ市庁舎」(オテル・ド・ヴィル・ド・パリ、Hôtel de Ville de Paris)に向かう。午前11時半、リヴォリ通りの南側に広がる「パリ市庁舎」前の広場に到着する。市庁舎の巨大なファザードは、広場の東側にある。1533年、フランソワ1世の発願により建設が始められ、ルイ13世統治下の1628年に完成している。なお、現在の建物は1871年に火事で焼失したため、再建されたものである。
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メリ-ゴーランドの横の列は、スケートリンク入場の列。この時期、市庁舎の広場を利用して、特設スケートリンクが設置され、多くの家族連れで賑わっている。
次に、このパリ市庁舎前を南下し、次に「シテ島」へ向かうべく、正面のアルコル橋を渡る。橋先がシテ島で、前方にノートルダム大聖堂のファサードの巨大な塔が見える。
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アルコル橋からセーヌ川(西側)を眺める。観光遊覧船(ヴデット・デュポン・ヌフ)が通ろうとしている橋はノートルダム橋。橋の左側のシテ島には商事裁判所と奥には王室管理府(コンシェルジュリー)が望める。
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アルコル橋をわたると、すぐに「ノートルダム大聖堂」(Cathédrale Notre-Dame de Paris)に到着する。大聖堂は1225年、全長128メートル、幅48メートル、高さ91メートルと、当時では、それまでにない壮大なスケールの大聖堂として建設された。外観から白い貴婦人とも称されている。フランス革命では大きな被害を受けるものの、現在見られる彫刻群、塔などの多くは19世紀に改装されている。長い時代を乗り越えてきた大聖堂は、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作である。
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ノートルダム大聖堂は、1831年、ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ドゥ・パリ」の舞台となった。その後、1998年にはミュージカル化され、パリ初演以来、世界15カ国で上演され大ヒットした。また、皇帝ナポレオンはこの大聖堂で戴冠式を行っている。まもなくお昼の12時になるが、この時間は、大聖堂の塔に上るための長蛇の列が続いていた。
大聖堂から西に100メートル歩くと「最高裁判所」(パレ・ド・ジュスティス)である。こちらにも長い列が続いている。ここにはパリ最古のステンドグラスで知られるサント・シャペル(Sainte chapelle)があり、これを見学するための列である。
すぐ隣が、最高裁判所の入口になる。手前には、1776年制作の金箔が用いられ精巧な細工が施された鉄柵で覆われている。中庭の先の主玄関となるファサードは、1786年に、新古典主義様式で修復されたもの。フランス革命期には革命裁判所が置かれている。ちなみに、左端に聳える尖塔がサント・シャペルである。
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最高裁判所の前を通過し、シャンジュ橋の手前を左折して、セーヌ川沿いを西に歩く。通りの左側には「コンシェルジュリー」と呼ばれる裁判所付属の牢獄であった建物が建っている。もともとフィリップ4世(在位:1285~1314)の宮殿だったが、フランス革命では、マリー・アントワネットをはじめ多くの王侯貴族がここに囚われた。
前方に見えるのが「ヌフ橋」(ポンヌフ)で、シテ島の下流先端を通りセーヌ川の左岸(南側)と右岸(北側)を結んでいる。ここから見えるのは、右岸にかかる部分である。16世紀から17世紀にかけて建設されたパリに現存する最古の橋である。レオス・カラックス監督のフランス映画「ポンヌフの恋人」(Les Amants du Pont-Neuf)(1991年)でお馴染みである。
コンシェルジュリーを越え左折すると、最高裁判所の入口があり、向かいに小さな「ドーフィヌ広場」がある。こちらは、広場から最高裁判所を眺めている。
振り返った反対側は、シテ島の先端に近いため、三角形の敷地となっており、周囲には広場を取り囲むように住宅が立ち並んでいる。以前、左手の住宅には、俳優のイヴ・モンタンと女優のシモーヌ・シニョレ夫婦が住んでおり、1階のレストランで良く姿が見られたという。それにしても先ほどまでの喧騒が嘘のような、まことに静かな場所である。
セーヌ川の左岸(南側)のヌフ橋を渡り、シテ島を後にしセーヌ川沿いを西に向け歩くと、左手に丸天井が印象的な「フランス学士院」が見えてくる。単にクーポールと言えばこのフランス学士院のことを示すほど。4つのアカデミーで構成され、中でも最古のものがフランセーズである。1635年、ルイ13世の宰相リシュリューによって設立された。このフランセーズの重要な使命はフランス語の辞書の編集で終身身分の40名のアカデミシャンにより改版を重ね現在に至っている。
フランス学士院前の歩行者専用の橋(ポン・デ・ザール)をセーヌ川右岸(北側)に渡ると正面に見えるのが「ルーヴル宮」(現:ルーヴル美術館)である。もともとシテ島を中心としたパリを防護するための城塞だったが、16世紀前半、フランソワ1世がルネサンス様式の建物として改造したのが始まりである。
しかしその後、国王の宮殿はヴェルサイユに移ったことから、荒廃してしまい、フランス革命時の革命政府が、美術館とすることを決め、1793年にルーヴル美術館として開館することになった。
ポン・デ・ザールを渡りながら、右手をみると、先ほどまでいたシテ島がみえる。ここから見るとヌフ橋(ポンヌフ)がシテ島の先端を横切っている様子が良くわかる。
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ポン・デ・ザールを渡り終え、アーチ門をくぐると「ルーヴル美術館」の一辺160メートルの正方形のクール・カレ(Cour carrée)(中庭)となる。こちらはルーヴル美術館を構成する3翼(北のリシュリュー翼、東のシュリー翼、南のドゥノン翼)の内の、東のシュリー翼の後方(東側)に位置しており、周囲に同じスタイルの建物が取り囲んでいる。
ポン・デ・ザールから直線ルートでクール・カレを過ぎ、ルーヴル宮を後にすると、直ぐにリヴォリ通りとなる。左折すると、左側には、ルーヴル美術館のリシュリュー翼(北翼)の外壁が続いている。
リヴォリ通りから、オペラ大通りを歩き、オペラ座ガルニエ宮に向かう。建物の並びをみると、良く統一されており、パリの建築規制の厳しさが良くわかる。
正面に見えるのがオペラ座ガルニエ宮になる。
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ナポレオン3世の発案により、1875年に造られた歌劇場。誠に美しい建物である。そろそろ時刻は午後1時になる。これで、パリの歩きは終了である。
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(2014.12.23)
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バス停の道路向かい側が、頂部をドームによって覆われたオペラ座の西ファザード「皇帝のロタンダ」で、もともと皇帝が直接入館できるように2重の専用斜道構造となっている。その手前には、オペラ座の設計者フランス建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier、1825~1898)の胸像が飾られている。オペラ座のメインファサードは南側になり、回り込んだ東側には、西側と対になる同じデザインの「支援者のパヴィヨン」と名付けられた関係者向けのファサードがある。
オペラ座の東側にある、ショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からラ・ファイエット通りを北東に1キロメートル行った左側の「モントロン公園」(パリ9区)そばにあるプチホテル「ウイリアム オペラ」が今夜の宿泊ホテルになる。荷物を預けて市内を散策することにした(以下ルートマップ参照)。
ホテル前のラ・ファイエット通りを東方面に450メートルほど歩くと10区に入る。左手に見える教会は、「サンヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会礼拝堂教会」である。こちらの教会は、カトリック修道女カタリナ・ラブレが、聖母マリアの出現によって示されたお告げとイメージをもとにデザインされた「不思議のメダイ」で知られており、奇跡のメダル教会ともいわれている。
教会の南側から、シャブロル通りを東に300メートル歩き、左手に続く建物が「マルシェ・サンカンタン」である。北側のプティオテル通りと東側のマゼンタ大通りとの三角形の敷地に建てられており、ピンクのレンガと緑の鋳鉄製のアーケードが特徴的なマルシェである。パリにマルシェは多いが、こちらは1866年に建てられた歴史あるマルシェである。
営業時間は、午前8時から午後8時まで(日曜日は午後1時30分まで、月曜日は休み)で、店内にはクリスマス準備に大忙しのお肉屋さんや、
美味しそうなチーズ屋さんなど多くのお店がある。チーズの種類の多さは、日本とは比べ物にならない。さすがチーズの国フランスである。
マルシェの前の交差点を超えると、左側に「パリ東駅」(Gare de l'Est)が見えてくる。東駅はフランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面と東へ向かう列車が発着することから名付けられている。
東駅前から、南に数十メートル下ったマジェンタ通りとの交差点の左側に、ステンドグラスと高い尖塔(肝心の尖塔が切れてしまった。。)で知られるゴシック式建築の「サン・ローラン教会」が建っている。古代ローマ街道の跡地に建てられたが、現在の教会は10世紀と15世紀の建築を基礎とし、19世紀にステンドグラスのあるファサードとして再建されている。
サン・ローラン教会のファサードに向かって左側の北側廊沿いを通り、後陣から東方向に延びるレコリ通りに入る。左側には旧ヴィルマン軍病院の跡地に建設された「ヴィルマン庭園」(1977年創設)がある。軍病院は、前線から帰還した負傷者がすぐに治療を受けられる様に、1861年、北駅と東駅の近くに設立されたが、現在は、ポータルのみが残されている。レコリ通りを東に歩いていくと、通りは突き当たりの丁字路になり、その先にアーチ鉄橋が見えてくる。
ここが「サン・マルタン運河」で、1キロメートルほど北のラ・ヴィレット貯水池と3.5キロメートル南のセーヌ川とを結んでいる。このサン・マルタン運河は、ナポレオン1世が、1825年、市民に飲み水を提供するために作ったもので、現在では観光のための遊覧船も走っている。
運河は、25メートルの高低差があるために9つの閘門(こうもん)があるが、鉄橋から南のセーヌ川方面を眺めるとその閘門の一つがあり、構造を確認することができる。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画「アメリ」(2001年)で、主人公のアメリが石で水切りをしていた場所がこちらである。
陸橋を渡った側の運河沿いのジェマッペ通り沿いには「北ホテル」がある。マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」Hotel du Nord(1938年)の舞台となっており、こちらのアーチ橋を渡ってきた男女2人が、河川敷にあるベンチに座るシーンから映画は始まっている。
冒頭シーンでは、ベンチに座る2人の背後に現在と変わらぬ北ホテルの全景が映し出される。当時の映画はセット撮影だったとされているが、ホテルを含めた周囲の景観は現在とほとんど変わっていない。ちなみに北ホテルは、現在レストランになっている。
再び、陸橋で運河の西側に戻り、メトロ5号線のジャック・ボンセルジャン駅から、シャトー・ドー通りに入ると左側にサン・マルタン・マルシェがある。
こちらも常設のマルシェで、店内には、新鮮な魚介類がたくさん並べた魚屋さんなどがある。
先の交差点を左折して南に向かうサン・マルタン通りを進むと、交差点の中心に「サン・マルタン門」が建っている。太陽王として知られるルイ14世が、1674年に造った凱旋門で、アーチの上の彫刻は、フランス国王軍がブザンソン(スイス)奪取と軍と三国同盟(ドイツ・オランダ・スペイン)の解体をあらわしている。
次に、サン・マルタン門から、サン・マルタン大通りを600メートルほど東に向かうと「レピュブリック広場」になる。このあたりには、ビストロも多く若者も大勢訪れる。レピュブリックはフランス共和国(Republique Francaise)を名に冠した場所で、広場中央にフランス象徴のマリアンヌ像が飾られている。
レピュブリック広場から、南方面のタンプル通りに入る。ここから3区に入る。正面三叉路角にはメトロ「タンプル駅」入口がある。建築家エクトール・ギマールのお馴染みのアール・ヌーヴォーデザインの駅のゲートを見ながら左手タンプル通りを南に進む。タンプル通りは1830年代、パリ演劇界の中心地で、最盛期には15もの劇場が軒を連ねており、当時は「犯罪大通り」とも呼ばれていた。
「犯罪大通り」といえば、フランス映画史上に残るマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」Les Enfants du Paradis(1945年)でお馴染みである。
タンプル通り左手には、パリ市内に多くの店舗を展開しているスーパー「モノプリ」Monopirixがあり、その店先には、特設の魚介のマルシェが出ていた。蟹、海老、牡蠣等が山積みになっている。
通り向かい側には「ハンガリー教会の聖エリザベス教会」が建っている。13世紀のハンガリーの王女、ハンガリーの聖エルジェーベト(エリーザベト)(1207~1231)に捧げられた教会で、ティンパヌムには、キリスト降架の浮彫が、左右に、ルイ9世(セントルイス)とハンガリーの聖エルジェーベトの彫像が飾られている。1938年からはエルサレムの聖ヨハネ騎士団の修道院教会となっており、マルタ十字の旗が見える。
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モノプリを過ぎたすぐ先の左側には「ドゥ・トンプル広場」がある。左折してブルターニュ通り沿いから広場に入る。この場所には12世紀から13世紀、テンプル騎士団によって建てられた要塞があり、フランス革命中には刑務所として使用されフランス王室が投獄されていた。その後、王党派の巡礼地にもなったことから、ナポレオン1世が1808年に取り壊しを命じたため、今では当時の面影はない。
広場には、小さなメリーゴーランドがあり、こんなところもパリらしい。また、小さな池のそばには鶏が放し飼いされていた。
広場からブルターニュ通りを東に向かうと、交差するシャルロ通りの手前右側に「マルシェ デ アンファン ルージュ」への入口がある。17世紀から続くパリで最も古いマルシェである。入口を入ると、正方形の敷地に、5つのアーケードが並行し、肉屋、魚屋、ビストロ、ワインバー、ハンバーガー、ケバブ、イタリア料理、中東料理など各国の料理を提供するお店が並んでいる。
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先の交差点を右折して「シャルロ通り」を南に向かう。交差点の左角には、パリジェンヌたちが集う人気のカフェ「シャルロ」(Le Charlot)がある。このあたりからマレ地区に入る。マレ地区は、中世のころまで、沼地(Marais)だったことから、名付けられた。16世紀末~17世紀に入るとアンリ4世が、このあたりを開発し、多くの貴族の邸宅が建てられた。現在貴重な歴史的資産として保存されている。
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1705年にフランス貴族ド・ロアン家のために建てられた「オテル・ド・ロアン」(現:国立公文書館の一部)がある東側のヴィエイユ・デュ・テンプル通りを南に行き、交差点を左折すると東西に延びる「フラン・ブルジョワ通り」(Rue des Francs-Bourgeois)となる。歴史的建造物も多く、近年はファッションやサブ カルチャーの中心として注目を集めている。通りを一路東に向かう。このフラン・ブルジョワ通りを境に北側は3区、南側が4区となる。
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右側の建物は、15世紀以来、法曹界、財界、政界にかかわってきたスカロン家のために1634年に建てられた「オテル・ド・クーランジュ」(Hôtel de Coulanges)で、先の入口には、1707年のポータルにはロココ調の装飾が施されている。
左側には「オテル・ダルメラ」(Hôtel d'Alméras)がある。1613年にブルボン朝フランス国王アンリ4世の顧問で財務長官のために建てられたもの。その後、フランス革命期の政治家、軍人のポール・バラス(1755~1829)や、フランスの映画監督、脚本家アラン・コルノー(1943~2010)などが住んだ。改修、修繕は行われ、室内装飾などは当時のものは残っていないが、邸宅自体は、概ね当時のままである。
そして、先隣りの左側には、1585年に建てられた「オテル モルティエ ドゥ サンドルヴィル」(Hôtel Mortier de Sandreville)がある。パリの商人でブルジョアのバルベット家が所有していたが、その後の相続で分割され、後の継承者により1630年にオテルとなっている(ファサードは1767年に改修)。
フラン・ブルジョワ通りとパヴェ通りの角にある右側の、望楼のある建物は、16世紀に建てられた「オテル・ラモワニョン」(Hôtel de Lamoignon)で、1750年には治安判事ギヨーム・ド・ラモワニョンの住まいとなっている。同じ頃、パリの検察官を務めたアントワーヌ・モロー(1699~1759)が、歴史的文書への情熱に駆られ、ラモワニョンよりオテルを借りて図書館にしており、1968年には「パリ市歴史図書館」となっている。
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フラン・ブルジョワ通りを少し進むと、パリ市歴史図書館への入口がある。ティンパヌムにはラモワニョンの紋章看板を掲げるアモール(天使)の浮彫が残されている。
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パリ市歴史図書館の向かい側には、「カルナヴァレ博物館」(Musée Carnavalet)への入口がある。こちらは16世紀に建てられたオテル・カルナヴァレを1866年にパリ市議会が購入し、博物館としたもの。1989年には、隣接する同じく16世紀に建てられたオテル・ドルジェヴァルを購入し拡張している。
門から中庭を覗いてみる。ここの常設展は無料で入れるが、今日は時間の都合があり、また機会があれば
邸宅やショップを眺めながらフラン・ブルジョワ通りを400メートルほど歩いてくると、
視界が広がり、右側に「ヴォージュ広場」(Place des Vosges)が現れる。ヴィクトワール広場、ドーフィーヌ広場、ヴァンドーム広場、コンコルド広場と並ぶパリの5つの王立広場の一つで、1612年、アンリ4世により造られたパリで最も古い広場でもある。
広場は、一辺が140メートルの正方形の敷地で、周囲を車道と2階建ての赤レンガの住宅に囲まれている。こちらの住宅には多くの貴族や政治家などが住んでいた。中心の広場は彼らの憩いの場でもあり、馬術競技なども行われていたとのこと。
1階部分は回廊になっており、アーケードのついたお店が並んでいる。カフェもあり、寛ぐ人々の姿も見える。
ヴォージュ広場からは、一旦、フラン・ブルジョワ通りを少し戻り、セヴィニェ通りを南下すると、通りの奥に教会が見え始める。
セヴィニェ通りは、リヴォリ通りに突き当たる。向かい側に建つのは「サン・ポール・サン・ルイ教会」(Eglise Saint-Paul-Saint-Louis)である。ローマにあるバロック建築のジェズ教会を模して、1627年から1641年にかけて建造された。ルイ13世がこの場所の土地を提供したので、聖ルイが教会の名前の由来となっている。
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リヴォリ通りの北側を東西に延びる「ロジエ通り」(Rue des Rosiers)を歩く。マレ地区にある通りで、ユダヤ人街になっており、通り沿いにはイスラエル料理やベーグル、ファラフェルのお店などが集まっている。
ロジエ通りから、再びリヴォリ通りに出て、「パリ市庁舎」(オテル・ド・ヴィル・ド・パリ、Hôtel de Ville de Paris)に向かう。午前11時半、リヴォリ通りの南側に広がる「パリ市庁舎」前の広場に到着する。市庁舎の巨大なファザードは、広場の東側にある。1533年、フランソワ1世の発願により建設が始められ、ルイ13世統治下の1628年に完成している。なお、現在の建物は1871年に火事で焼失したため、再建されたものである。
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メリ-ゴーランドの横の列は、スケートリンク入場の列。この時期、市庁舎の広場を利用して、特設スケートリンクが設置され、多くの家族連れで賑わっている。
次に、このパリ市庁舎前を南下し、次に「シテ島」へ向かうべく、正面のアルコル橋を渡る。橋先がシテ島で、前方にノートルダム大聖堂のファサードの巨大な塔が見える。
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アルコル橋からセーヌ川(西側)を眺める。観光遊覧船(ヴデット・デュポン・ヌフ)が通ろうとしている橋はノートルダム橋。橋の左側のシテ島には商事裁判所と奥には王室管理府(コンシェルジュリー)が望める。
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アルコル橋をわたると、すぐに「ノートルダム大聖堂」(Cathédrale Notre-Dame de Paris)に到着する。大聖堂は1225年、全長128メートル、幅48メートル、高さ91メートルと、当時では、それまでにない壮大なスケールの大聖堂として建設された。外観から白い貴婦人とも称されている。フランス革命では大きな被害を受けるものの、現在見られる彫刻群、塔などの多くは19世紀に改装されている。長い時代を乗り越えてきた大聖堂は、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作である。
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ノートルダム大聖堂は、1831年、ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ドゥ・パリ」の舞台となった。その後、1998年にはミュージカル化され、パリ初演以来、世界15カ国で上演され大ヒットした。また、皇帝ナポレオンはこの大聖堂で戴冠式を行っている。まもなくお昼の12時になるが、この時間は、大聖堂の塔に上るための長蛇の列が続いていた。
大聖堂から西に100メートル歩くと「最高裁判所」(パレ・ド・ジュスティス)である。こちらにも長い列が続いている。ここにはパリ最古のステンドグラスで知られるサント・シャペル(Sainte chapelle)があり、これを見学するための列である。
すぐ隣が、最高裁判所の入口になる。手前には、1776年制作の金箔が用いられ精巧な細工が施された鉄柵で覆われている。中庭の先の主玄関となるファサードは、1786年に、新古典主義様式で修復されたもの。フランス革命期には革命裁判所が置かれている。ちなみに、左端に聳える尖塔がサント・シャペルである。
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最高裁判所の前を通過し、シャンジュ橋の手前を左折して、セーヌ川沿いを西に歩く。通りの左側には「コンシェルジュリー」と呼ばれる裁判所付属の牢獄であった建物が建っている。もともとフィリップ4世(在位:1285~1314)の宮殿だったが、フランス革命では、マリー・アントワネットをはじめ多くの王侯貴族がここに囚われた。
前方に見えるのが「ヌフ橋」(ポンヌフ)で、シテ島の下流先端を通りセーヌ川の左岸(南側)と右岸(北側)を結んでいる。ここから見えるのは、右岸にかかる部分である。16世紀から17世紀にかけて建設されたパリに現存する最古の橋である。レオス・カラックス監督のフランス映画「ポンヌフの恋人」(Les Amants du Pont-Neuf)(1991年)でお馴染みである。
コンシェルジュリーを越え左折すると、最高裁判所の入口があり、向かいに小さな「ドーフィヌ広場」がある。こちらは、広場から最高裁判所を眺めている。
振り返った反対側は、シテ島の先端に近いため、三角形の敷地となっており、周囲には広場を取り囲むように住宅が立ち並んでいる。以前、左手の住宅には、俳優のイヴ・モンタンと女優のシモーヌ・シニョレ夫婦が住んでおり、1階のレストランで良く姿が見られたという。それにしても先ほどまでの喧騒が嘘のような、まことに静かな場所である。
セーヌ川の左岸(南側)のヌフ橋を渡り、シテ島を後にしセーヌ川沿いを西に向け歩くと、左手に丸天井が印象的な「フランス学士院」が見えてくる。単にクーポールと言えばこのフランス学士院のことを示すほど。4つのアカデミーで構成され、中でも最古のものがフランセーズである。1635年、ルイ13世の宰相リシュリューによって設立された。このフランセーズの重要な使命はフランス語の辞書の編集で終身身分の40名のアカデミシャンにより改版を重ね現在に至っている。
フランス学士院前の歩行者専用の橋(ポン・デ・ザール)をセーヌ川右岸(北側)に渡ると正面に見えるのが「ルーヴル宮」(現:ルーヴル美術館)である。もともとシテ島を中心としたパリを防護するための城塞だったが、16世紀前半、フランソワ1世がルネサンス様式の建物として改造したのが始まりである。
しかしその後、国王の宮殿はヴェルサイユに移ったことから、荒廃してしまい、フランス革命時の革命政府が、美術館とすることを決め、1793年にルーヴル美術館として開館することになった。
ポン・デ・ザールを渡りながら、右手をみると、先ほどまでいたシテ島がみえる。ここから見るとヌフ橋(ポンヌフ)がシテ島の先端を横切っている様子が良くわかる。
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ポン・デ・ザールを渡り終え、アーチ門をくぐると「ルーヴル美術館」の一辺160メートルの正方形のクール・カレ(Cour carrée)(中庭)となる。こちらはルーヴル美術館を構成する3翼(北のリシュリュー翼、東のシュリー翼、南のドゥノン翼)の内の、東のシュリー翼の後方(東側)に位置しており、周囲に同じスタイルの建物が取り囲んでいる。
ポン・デ・ザールから直線ルートでクール・カレを過ぎ、ルーヴル宮を後にすると、直ぐにリヴォリ通りとなる。左折すると、左側には、ルーヴル美術館のリシュリュー翼(北翼)の外壁が続いている。
リヴォリ通りから、オペラ大通りを歩き、オペラ座ガルニエ宮に向かう。建物の並びをみると、良く統一されており、パリの建築規制の厳しさが良くわかる。
正面に見えるのがオペラ座ガルニエ宮になる。
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ナポレオン3世の発案により、1875年に造られた歌劇場。誠に美しい建物である。そろそろ時刻は午後1時になる。これで、パリの歩きは終了である。
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(2014.12.23)
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