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時間は何をしていても過ぎる。

クラウディオ・アバドの録音3枚。

2014-09-23 11:11:47 | クラシックCD
クラウディオ・アバド(1933年6月-2014年1月)の録音は数枚しか持っていない。それも久しく聴いていないので、好きだったものを取り出してきた。

まず、モーツァルトのSym#40と#41。



これは異色のモーツァルトだが名演だと思う。
#40は静かだが強い意思が込められている。感情は曲の内面に向かう。ひとつの場面ごとにそれをかみしめるように慎重に進む。4楽章になると抑制されていたものが激しい奔流のように放出される。
全体的に物語のようで、計算し尽くされている。こういった主張が自然なかたちで音楽になるところが、アバドが評価されていた理由のひとつだと思う。
#41はしっとりとして落ち着いている。躍動的な表現をあえて控えているようだ。聴いているうちに内面からすばらしさが湧き出てくる。オーケストラの弾き方が強く、音楽が凝縮されているように聴こえるが窮屈な感じはしない。
ロンドンSOの灰色っぽい音色がアバドの表現と合っている。
アバドはモーツァルトのピアノ協奏曲伴奏指揮者としては史上最強の指揮者だと思う。きっと気を使う控えめな人だったのだろう。
モーツァルトのSym録音はこのアルバム以外にあるのだろうか。これだけ細やかさを極め、神経を使いながら(すり減らしながら)練り上げていくような演奏は繰り返すことは難しいだろう。
1980年の録音。

マーラーSym4 こちらはウィーン・フィルとのもの。



この曲はどう向き合えばよいのかわからないうちにkazuは歳をとってしまった。
多感な若さに適合したような雰囲気や流れが中心であり、年配者には向いているとは思われない。
アバドのスタイルはしなやかで、かつ精緻である。大交響曲だとバランスはよいがいまいち特色のない演奏になるといったイメージのある指揮者だが、こういう、楽器が語り合うような曲だとアバドの美点が発揮されるように思う。ウィーン・フィルはすべてにおいて、この上なくきれいとしかいいようがない。独奏はなまなましく雄弁であるが上品である。楽器がからみ合う雰囲気はなんとも幻想的である。
相変わらずこの曲に対する向き合い方は見いだせないが、アバドの録音は本質に到達しているように思われる。
1977年5月、ウィーンでの録音。


アバドの録音はまだ他にも数枚持っているが、とりあえず今日の最後はブラームスのハンガリー舞曲(全曲)である。



これら3枚のCDはLPレコードでも持っていた。ハンガリー舞曲のCDのジャケットだけLPのものと同じである。アバドのコマ送り写真が懐かしい。
この曲自体は深く感動するといったものではないが、異国の民俗音楽を楽しみ情緒を味わうことができる。熱演である。しっとりとした色彩感が懐かしい雰囲気をかもしだし、緩急自在に繰り広げられる舞曲の祭典にしばし時間を忘れて聴き入った。
アバドの上品なセンスとウィーン・フィルの音楽性がみごとに融合した名録音だと思う。
1982年4月と6月ウィーンゾフィエンザールでの録音。

先週末から少しずつ聴いてきたが、1枚のCDが訴えかけてくるものの多さにあらためて感謝するしだい。
harbethから再生されてくる音楽も奥行き、立体感、広がりが感じられる。

例のインベーダーのような某社の拡散器機。



結局、1個になった。これは強力なアイテムで、kazuのリスニングルームの環境だと1個でよいみたいである。増やすと残響が強くなり、音像が定まりにくくなる。1個でよい。



Luxman L-509uはラインストレートで運転している。



コメント (2)
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